7 不束者でございますが、誠心誠意お仕えさせていただきます


 ひたひたと大理石の床の上を素足で歩む音がする。


 天蓋てんがいのある大きな寝台のそばで床にひざまずき、恐怖に震えながら部屋の主の訪れを待っていたトリンティアは、額をこすりつけるようにさらに深く平伏した。


不束者ふつつかものでございますが、誠心誠意お仕えさせていただきます。どうか、一夜のお情けをたまわりくださいませ」


 セレウスに教えられた口上を、震えながらもなんとか間違わずに言い終える。


 わずかに気を緩めた瞬間、床からいあがってくる冷気に、思わずくしゃみが飛び出した。秋も深まってきた夜に、薄物の夜着だけというのは、さすがに寒い。


 頭上から、ウォルフレッドの吐息が降ってきて、トリンティアは恐怖に身を固くした。

 しょぱなからこんな失敗をするなんて、『冷酷皇帝』の機嫌を損ねていたらどうしよう。恐怖に気が遠くなりかけたトリンティアの耳が、かすかな衣擦きぬずれの音を捉える。かと思うと。


「着ろ」


 ばさりと大きな布地がトリンティアの上に落ちる。驚いて顔を上げると、頭に乗っかった布の隙間から、ウォルフレッドの姿が見えた。


 膝丈の夜着のズボンだけを穿いた上半身裸の姿。

 見てはいけないものを見てしまった気がして、ふたたび平伏し、身を縮める。


「で、ですが、陛下の御召おめし物を私などが奪うわけには……っ!」


 これは何かの罠ではなかろうか。着たら「無礼者!」と蹴り飛ばされるのでは?

 警戒して身動きせずに平伏していると、苛立いらだった声が降ってきた。


「聞こえなかったか? 着ろと言っている。……お前に風邪などひかれるわけにはいかぬ」


 少し、困ったような声。

 わけがわからず、おずおずと顔を上げると、ずるりとずれた布地が視界をふさいだ。


「ですが……。私がこちらをお借りしたら、陛下がお寒いのでは?」


 秋も深まってきた今は、夜は昼間以上に冷える。

 トリンティアの言葉に、ウォルフレッドは、はん、と鼻を鳴らした。


「わたしはその程度で風邪をひくほどやわではない。わかったらさっさと着ろ。時間の無駄だ」


「あ、ありがとうございます」


 どうやら、本当に着てよいらしい。トリンティアは丁寧に礼を述べると、膝立ちになり、半裸のウォルフレッドのほうを見ないように気をつけながら、急いで絹の夜着に袖を通した。


 ウォルフレッドの夜着は、せぎすなトリンティアには大きすぎてぶかぶかだが、身体の線が隠れてほっとする。脱いだばかりの夜着はあたたかく、トリンティアの緊張もわずかに解けた。


 「風邪をひかれては困る」ということは、少なくともすぐに殺されるわけではないらしい。


 というか、これから夜伽よとぎを務めるというのに、服を着せる意図がまったく読めない。


 わからないことばかりだが、きっと、何か大きな手違いがあったのだ。


 でなければ、怜悧れいりな面輪と彫刻のように引き締まった身体つきの青年皇帝が、トリンティアのようなみすぼらしい者に夜伽を命じるわけがない。冗談にしてもひどすぎる。


 夜の闇が見せる優しい幻なのだろうか。今のウォルフレッドは、昼間に見た時よりも、穏やかに見える。


 トリンティアはもう一度、恭しく頭を下げた。


「恐れながら、私がはべるのが手違いでしたら、このまま下がらせていただきとう存じます」


「何を言っている?」

 ウォルフレッドの呆れ果てた声がした。


 かと思うと、荷物でも抱えるように抱き上げられる。


 え? と思った時には、大きな寝台に投げ出されていた。柔らかな布団が、トリンティアのせこけた身体を受け止める。


「あの……っ!?」


 声を上げた時には、ウォルフレッドも寝台に上がっていた。トリンティアに覆いかぶさるように両手をついたウォルフレッドが、狼のように獰猛どうもうに笑う。


「お前を、下がらせるわけなどなかろう?」

「あ、あの……っ!?」


 掛布を引き上げながらのしかかってくるウォルフレッドの胸板を、トリンティアは本能的な恐怖で押し返そうとした。


 だが、トリンティアの必死の抵抗など物ともせずに、隣に寝転んだウォルフレッドの力強い腕が、痩せた身体をぎゅっと抱き寄せる。と。


「固い」


 不満この上ない声が洩れる。


「何だこれは? 骨と皮だけか? 薄物の上から見た時もたいがいだと思ったが、見た目以上にひどいぞ」


 だが、トリンティアは答えるどころではない。


 額や頬にぴったりとくっついたウォルフレッドの素肌に、恥ずかしさのあまり、気を失いそうだ。


 麝香じゃこうだろうか。あたたかな素肌からは、かすかに甘く、それでいて濃厚な香りが薫ってきて、頭がくらくらする。


 無理。無理だ。


 このままでは、夜伽を務めるどころか、その前に心臓が壊れて死んでしまう。


「あ、あの、陛下……っ」


 お願いだから放してほしい。

 何とか腕が緩まないだろうかともがくと、「動くな」と叱責された。


「お前が動くたびに、骨が当たって痛い。じっとしていろ」

「で、ですが……」


 羞恥しゅうちが限界を突破して、息がうまくできない。麝香の薫りをかぐだけで、思考がけて気を失いそうだ。


 このまま気絶したら、やはり後で罰せられるのだろうか。


 息を詰めて身を固くしていると、何か思うところがあったのか、ウォルフレッドの腕がわずかに緩んだ。トリンティアはほっとして、ひそやかに息を吐く。


「言っておくが、お前を手籠てごめにする気はないぞ。いくら飢えていても、鶏がらをしゃぶるほど落ちぶれてはおらん。そもそも、味わえるところ自体ないだろうが」


「で、でしたらお放しくださいませ……っ!」


 夜伽をしなくてよいのなら、一刻も早くウォルフレッドの腕の中から逃げ出したい。

 だが、懇願に返ってきたのは、「何を言う?」と呆れ果てた声だった。


「セレウスから何も聞いていないのか?」


「セ、セレウス様からは、不敬罪で殺されるわけではないと……」

「他には?」


「こ、殺されたくなければ、陛下の御心に従うように、と……」


 うっかり正直に答えてしまい、うろたえる。


 失言のせいでウォルフレッドの気が変わったら大変だ。トリンティアの生殺与奪権を握っているのは『冷酷皇帝』なのだから。


 いま身体に回されている力強い腕は、その気になれば即座にトリンティアをくびり殺せるに違いない。


 そう思うと、不用意に動くことすらはばかられて、トリンティアは石になったつもりで息をひそめ、身を固くする。そばだてていた耳に聞こえてきたのは、嘆息だった。


「セレウスめ。何も説明していないではないか」


 緩んだと思った腕が、ふたたびトリンティアを強く抱き寄せる。


「うむ。やはり、お前にふれていると痛みが消えるな」

「ひゃっ」


 抱き寄せられた拍子に、あたたかな吐息が首筋を撫で、思わず声がこぼれる。

 ウォルフレッドの耳に心地よい低い声が、静かに告げる。


「お前を殺すわけなどなかろう。ようやく……。ようやく見つけた『花の乙女』なのだから」

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