6 いったい何が起こっているのか


 いったい、何が起こっているのだろう。


 まるで、思考だけが置いてけぼりになっているような気がする。


 なぜ今、トリンティアは見慣れぬ侍女達に数人がかりで湯浴みをさせられ、着たこともない絹の薄物の夜着をまとわされているのか。


「あ、あの……っ」


 トリンティアは、この場で唯一、知った顔である五十歳過ぎの侍女頭に声をかける。


「イルダ様! こ、これはいったい……!?」


 侍女頭であるイルダには、王城へ来た日に、他の新人侍女の少女達とともに、訓示を受けた。


 表情を変えることなく、淡々と話していたイルダのりんと背を伸ばしたたたずまいには、王城に勤める侍女達の頂点に立つ者の矜持きょうじが見えた。


 少なくとも、道理に合わぬ行いをするような方には見えなかったというのに。


 イルダは仕入れた野菜が腐っていないか確認するような冷徹なまなざしで、絹の夜着を着たトリンティアを見ている。


 かと思うと、何やら諦めたかのように、ふう、と深い溜息をついた。


「絶望的に……。いえ。今回、大切なのは見目ではありませんからね。念のため聞いておきますけれど。トリンティア、あなた経験は?」


 何の経験かは聞かずともわかった。トリンティア自身に経験はないが、年上の下女や下男達に囲まれて育てば、いやでもそれなりに耳年増になる。


「あ、ありません……」


 全身をくまなく洗われ、身体の線が透けて見える夜着を着せられ、さらには花の香りがする香油まで首や胸元に塗られたということは、これから待っているのは「そういうこと」なのだ。


 だが、なぜトリンティアなのかが、わからない。


 皇帝ならば、望めばどんな侍女でもそばにはべらせられるだろうに。自身は見惚みほれるほど端正な面輪おもわをしているというのに、よほど趣味が悪いのだろうか。


「イルダ殿。準備はいかがです?」


 不意に、伺いもなしに脱衣場の扉が開けられる。


 入ってきたのはセレウスだ。侍女達が、さっと床に両膝をつき、こうべを垂れる。


「きゃ……っ!」


 トリンティアは思わず両腕で胸元を隠してしゃがみこむ。夜着の下には、下着しかはいていない。


 入ってくるなら、せめて一声かけてほしかった。恥ずかしさに、顔どころか、全身が熱くなる。


 が、セレウスの反応は冷淡極まりなかった。贋金にせがねかどうか鑑定するような、無感情な視線でトリンティアを見下ろし。


「ひとまず見られるようにしてくださったイルダ殿の手腕には、感謝しなければなりませんね。ですが……。陛下が禁欲を続けられているとはいえ、これは、絶望的に……」


 ふう、とイルダと同じく諦めの吐息をつく。


 トリンティアは泣きたくなった。


 二人が言いたいことは、言葉に出さずともわかる。絶望的に胸がないとか、絶望的に貧相すぎるとか、絶望的に魅力がないとか、その辺りに違いない。


 そんなこと、他人に指摘されずとも、自分自身が一番よくわかっている。はっきりと口に出さないのは、二人なりの優しさなのかもしれない。


 というか、絶望的に魅力がないのなら、どうしてこんな恥ずかしい格好をさせられているのだろう。


「あの……」

 問おうとすると、セレウスに視線で制された。


 針のような視線に、縫い留められたように唇を動かせなくなる。


「下がりなさい。わかっていると思いますが、今日のことは他言無用です」


 セレウスの言葉に、トリンティアの支度をしていた侍女達が深く一礼し、衣擦きぬずれの音だけをかすかに鳴らして去ってゆく。後に残ったのは、トリンティアとセレウス、イルダの三人だけだ。


 セレウスがちらりとイルダを見ると、イルダが心得たように頷いた。


「経験はないそうです」

「でしょうね」


 吐息まじりに呟いたセレウスが、うずくまるトリンティアを見下ろす。


「立ちなさい」

 冷ややかに命じる声。


「陛下の私室まで案内しましょう。……ああ、わたしはあなたの格好を見ても、特に何の感情も湧きませんので」


 心の内がうかがい知れぬ声から察するに、嘘偽りはないのだろう。


 それを紳士的だと喜べばいいのか、まったく魅力がないと言われて哀しめばいいのか、トリンティアには判断がつかない。


 返事も待たずに背を向けて歩き出したセレウスを、トリンティアは立ち上がってあわてて追う。


 イルダの前を通り過ぎる時にぺこりと一礼すると、小さく頷いたイルダに、視線だけで応援された。


 廊下へ出ると、外はすでに宵闇に包まれていた。窓の外に見える夜空には、すでに星がきらめいている。


 等間隔に灯された蝋燭ろうそくの炎が揺らめく無人の廊下は、壁に施された浮き彫りも、所々に掛けられたタペストリーも豪奢ごうしゃ極まりないのに、まるで冥府へと続く道のように、背中が泡立つ。


 薄暗い廊下に響くのは、セレウスの固い靴音と、布製の室内履きをはかされたトリンティアの軽い足音だけだ。


「あの……」


 出した声が思った以上に響いて、自分の声に驚く。だが、不安な心が押し出した言葉は止まらない。


「わ、私は、いったいこれからどうなるのでしょうか……!?」


 こんな格好をさせられて、この後あることと言えば、ひとつしか考えられないが、それにしても変だ。


 もしかして、夜伽よとぎだと思っているのはトリンティアだけで、これから嬲り殺しにされるのかもしれない。

 世の中には、相手が苦しむ顔を見るのが興奮するのだという輩もいるのだと、下男達が訳知り顔で囁いていたのを聞いた覚えがある。相手は『冷酷皇帝』だ。その可能性がないとはいえない。


「わ、私……っ、これから不敬罪で処刑されるのでしょうか……!?」


 恐怖ですくみそうになる足を必死に前に出しながら問うと、セレウスが振り返りもせず冷笑する気配がした。


「殺されはしませんよ」


 ほっ、と息をついたところで、昼間見た扉の前に着く。


 ウォルフレッドは不在なのか、おとないを告げることもなく、懐から鍵を取り出したセレウスが、立派な扉を押し開く。


 扉の向こうは、蝋燭が数本灯るだけの暗闇だ。


「ですが――」


 こごる闇の中へためらいなく歩を進めながら、セレウスが告げる。


「殺されたくないのなら、抵抗せず陛下の御心のままに従うことですね」

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