4 『冷酷皇帝』の噂が頭の中を駆け巡る
「皇帝陛下っ!」
「ひぃっ! あなた、なんてことを……っ!」
恐怖と混乱に満ちた同僚達の叫びに、トリンティアの思考が止まる。
トリンティアは呆然と、自分が押し倒したせいで尻もちをついている青年を見た。
二十代前半だろうか。トリンティアよりは年上に見える。
吊り目がちの思わず見惚れるほど凛々しい面輪は、今は初めて見世物をみた幼子のように
だが、彼があどけない少年などでないことは、のしかかった身体の引き締まった様子からすぐに知れた。
こんな立派な衣装は、豊かなサディウム領でも祭りや式典の時にしか見たことがないと思った瞬間、トリンティアは我に返った。
自分が、その衣装の上にのしかかっているのだと気がついて。
ざあっ、と一瞬で全身の血の気が引く。
「も、申し訳ございま――」
あわてて跳びすさろうとしたが、逆にしっかと腕を掴まれ、引き寄せられる。骨まで
片腕だけで抱き寄せられているというのに、鎖で締めつけられたように身体の自由が利かない。このまま息ができなくなるのではないかと不安に襲われる。
苦しい息の中、もう一度謝ろうとするより早く。
「も、申し訳ございませんっ!」
駆け寄ってきた同僚達が、地面にひれ伏すのが視界の端に見えた。
「こ、この娘が一人で急に走り出したのですっ!」
「わ、わたくし達は陛下に不敬を働く気など、毛頭ございません!」
「作法も知らぬ下女上がりの
「罰を与えるのでしたら、どうか、この娘だけに……っ!」
震える声で必死に同僚達が言い募る。
何より、ここでトリンティアが言い訳をしても、きっと信じてもらえまい。
みすぼらしいトリンティアと、裕福そうな家の出だと見ただけでわかる愛らしい同僚達。
聞いた者がどちらの言い分を信じるかなど、試さなくてもわかる。むしろ、見苦しい言い訳を、と蹴り飛ばされる可能性のほうが高いだろう。
『冷酷皇帝』と陰で噂される新皇帝に粗相をするなど、どんな罰が与えられるのか。
たったひと月の王城勤めの間に聞いた噂が、トリンティアの脳内を駆け巡る。
新皇帝は、もともとは前皇帝の
捕虜を拷問して何人も殺した。
敵対する者は貴族であろうと容赦なく斬首し、たとえ味方であっても、皇帝の不興を買った者は同じ目に遭わされる。
城の奥まったところにある皇帝の私室には、夜な夜な捕虜や罪人が連れてこられ、皇帝の血の渇望を慰めるため、
唯一、共通していたことは、噂を口にする者が皆、血の気の引いた顔で恐ろしげに身を震わせ、声をひそめて囁いていたことだ。
貴族でさえそんな仕打ちを受けるのだから、取るに足らぬ侍女の自分は、いったいどんな目に遭わされるのだろう。
そう考えた途端、恐怖に喉が詰まる。
平伏して謝罪しなければ。
今さら手遅れだとしても、もしかしたらほんの少しでも罪が軽くなる可能性があるかもしれない。
だが、いくら叱咤しても、身体はがくがくと震えるばかりで、まったく動いてくれない。と。
「立て」
冷ややかな声がトリンティアに命じる。
とっさに反応できないトリンティアを押しのけ、ウォルフレッドがさっと立ち上がる。が、トリンティアの腕を掴んだ手だけはそのままだ。
「聞こえぬか? 立てと言っている」
床にへたり込んだまま、がくがく震えるトリンティアに、ウォルフレッドがふたたび命じる。ぐいっと掴まれたままの腕を引かれるが、床にはりついたかのように、足に力が入らない。
「も、申し訳ございませんっ。腰が抜けて……っ」
うまく動かない唇でかろうじてそれだけを伝えると、ウォルフレッドが苛立たしげに舌打ちした。かと思うと。
「ひゃっ!?」
不意に、横抱きに抱き上げられ、すっとんきょうな悲鳴が飛び出す。
「セレウス。そこの二人の名前と所属を聞いておけ」
振り返りもせず一方的に命じたウォルフレッドが、トリンティアを横抱きにしたまま歩を進める。
いったい、何が起こっているのか。
混乱の極みに達したトリンティアは、力強い腕の中で、ただただ身を固くした。
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