Nの創造

印田文明

Nの創造

Nの創造



 終焉はあらゆるものに訪れる。どんなに大きな容器も最後にはいっぱいになる。私の魂の均衡もついにはそんな悪への些細な譲歩のせいで崩れた。しかし、その崩壊はいかにも自然なことに思えた。

                      『ジキルとハイド』より



    *********



 私は、我が十年来の友であるNほど金が好きな人間を知らない。また、彼は阿漕な商売の天才でもあった。


 まだしがない学生だった私は、休日を利用して古本屋巡りを敢行した。それは、趣ある古本屋を訪ね歩くことに楽しみを見出す、といった高尚なものではなく、単に、本が読みたいが新刊を買う金がないという理由によってもたらされた帰結であった。

 その日訪ねた三軒目の店で、Nは店主をしていた。それがどのようにして友となるに至ったのか、そこから話がしたい。




 Nが営む店の名は善隣堂といったが、その特徴として挙げたいのは、店主が趣味で集めたプレミア付きの本が展示されているガラスケースだ。ただし、そのプレミアというのがとても胡散臭い。

 例を挙げると、表紙裏にミミズが這ったような、かろうじて夏目漱石と読むことができる字が書かれた『坊つちやん』(横に置かれた説明書きには「直筆サイン本。ただし漱石がへべれけだったため、筆跡は他のサイン本とは異なる」と書かれてある)や、江戸川乱歩著の『人間椅子』の初版本(説明書きに「ただし、奥付にはミスプリントで第十五版と記載されている」とある)など、さらには、手にした人が必ず宝くじに当たる『広辞苑』なる眉唾ものも中にはあった。


 私が初めて善隣堂に訪れた時、例のガラスケース前で中を眺めていた客が店員に声をかけられていた。

「いやはや、お客さん、実にお目が高い。その百科事典はかの有名なアガサ・クリスティーが昼寝の枕として愛用したと伝えられる一品でございます。マニアの中では喉から手を出してでも欲しい一冊として名高く、私もこれを手に入れるまでに多大な苦労を強いられたものです。しかしこれも何かの縁、今後とも当店をご贔屓していただけるのであれば、五万円でお譲りいたしましょう。おや?いらないと?では四万五千円でお勉強させていただきます。おやおや?いくらだろうと買わない?ではでは・・・」

 この会話を遠巻きに盗み聞いていた私は、何と馬鹿な店員もいたものだ、そんな明らさまな作り話を真に受ける客などいるはずがない、と心の中で揶揄したものだった。


 しかしどうだろう、その数分後、先ほどの客がその百科事典を購入し、満足げに店を去るのを、私は見たのだ。

 それだけにとどまらず一人、また一人と胡散臭い本を購入していく。

 酔狂な客が多いのか、はたまた店員の口上が秀逸なのか、気になった私はその店員に話しかけてみた。

「やあ、店員さん。先ほどからあなたを観察させてもらっていたが、なかなか商いがお上手なようですね。是非ともそのコツをご教授いただきたいものです」

 私にも若気の至りに由来する正義感があったようで、皮肉を込めた物言いになってしまったことを覚えている。

 しかし、店員の返答は実にあっさりしたものだった。

「お褒めに預かり光栄です。しかし、大した技術などございません。私めの自慢の品を、お客様に納得していただき、ご購入していただく、ただそれだけでございます」

 善良な店員たるその態度に、かえって私の正義感は辛抱たまらず食って掛かった。

「客が納得しさえすれば、捏造でも構わないとおっしゃるのですか?」

「捏造?滅相もございません。私は創造をしているのです」

「創造?」

「はい。例えば先ほどの百科事典。御察しの通り、あれはクリスティーの枕などではありません。しかし、今日のお客様はあれを『クリスティーの枕』としてご購入してくださいました。つまり、あの百科事典はこれから先『クリスティーの枕』として愛され、『クリスティーの枕』として次の持ち主の手に渡ることでしょう。それは、私が『クリスティーの枕』を創造したことに他なりません」

 

 そんな屁理屈を得意げに話す彼に、なぜだか私は魅せられてしまったのだ。



 それからというもの、彼がその屁理屈で儲ける姿を見学するために、私は善隣堂に通い始めた。彼の名がNだと知ったのは、プライベートでも共に出歩くほど仲良くなってからだったように思う。

 

 一緒に出かけるようになって気づいたことは、阿漕な商売をしているだけあって、Nは金を愛してやまない、ということだ。

 路上に落ちている小銭を見つけた時、それを拾うという人はどれくらいいるだろうか。人目がきになるのか、それとも単に小銭に興味がないのか、私は大人が拾っているのを見たことがなかった。

 しかし、Nはどんな人ごみであれ雑踏であれ、路上で小銭を見つけるやいなや一目散に飛びつき、たとえそれが一円玉であっても「儲けた儲けた」と嬉しそうに笑うのだ。

 財布の落し物を拾った時、あまりにも自然な動きでネコババを試みた彼を見て、私は畏怖さえ覚えた。



 Nの紹介と慣れ初めはこれくらいにして、そろそろ本題ヘ話を進めよう。



 そんなNとの付き合いも五年になろうかという時、例のガラスケースに一冊の本が追加された。その本の題は『ジキルとハイド』であったが、【呪い付き】と書かれた物騒な付箋が貼られていた。

 そしていつものように、Nはガラスケースの前で立ち止まった客に声をかけるのだ。

「いやはや、お客さん、実にお目が高い。その本はなんとも奇々怪々、呪いをその内に宿す『ジキルとハイド』でございます。どんな呪いかって?それはズバリ、【不幸が訪れる】呪いです。ざっくりし過ぎていてわからない?それもそのはず、ここでいう【不幸】とは【所有者にとっての最大の不幸】を言います。人類が千差万別であるように、その不幸の形も多種多様、ということです。そんな希少な本ではありますが、これも何かの縁、五万円でお譲りいたしましょう。

 ・・・おや?誰が好き好んで不幸になる本など買うか、ですって?申し訳ありませんお客様、説明が少し不足していたようです。実は、この本を正当な対価を支払って入手すれば呪いは発動しないのです。対価は必ずしも金銭である必要はありません。売り手の納得の上で交換が行われればいい、ということです。

 逆に、贈答や窃盗、拾得などでこの『ジキルとハイド』を入手してしまうと・・・ああ、恐ろしい恐ろしい」

 Nによる創造は今日も絶好調である。

「つまり、ご購入していただいた後、お客様に仇なす人物にプレゼントするなり、本棚に紛れ込ませるなりしていただければ、その者には見るも無残な不幸が訪れることでしょう。そんな便利アイテムが今ならたったの五万円であなたの手に!」


 Nの努力むなしく、客は購入することなく帰ってしまった。


 しかし数日後、その客は再び現れ、神妙な面持ちでこういった。

「この前の『ジキルとハイド』はまだあるのか。確か五万だったな。すぐによこせ」

 前回店に来た後に、何らかのトラブルに巻き込まれたのであろうことは容易に想像できた。眉唾ものにもすがりたくなるほどの恨みが募っているのだろう。

 結局、その客は『ジキルとハイド』を購入した。



 私はこのエピソードをあるきっかけがあるまで忘れていた。そのきっかけとは、それから十年後の、Nとのつながりも年賀状のみとなった今日の新聞の記事だ。

 その記事にはこう記されていた。


《呪いの『ジキルとハイド』また被害者増える》


 記事によれば、ある婦人が『ジキルとハイド』をプレゼントされたのち、その婦人の家族が全員事故死し、婦人も後を追って自殺したそうだ。

 それ以外にも、以前の『ジキルとハイド』の所有者たちに訪れた不幸も事細かに記されていた。


 これぞ瓢箪から駒だ、Nの奴もさぞかし喜んでいるに違いない。私はすぐにNに連絡を取ろうとしたが、手段がなかったので、昔の記憶を頼りにあの善隣堂を探すことにした。


 半年かかって、なんとかそれらしい場所にたどり着いたが、善隣堂の看板は無く、昼間からシャッターが下りていた。

 仕方なく店の裏にまわり、玄関のインターホンを押すと、程なくして一人の女性が出迎えてくれた。この女性は確か、Nの妻だ。年賀状に写真が写っていたのを覚えている。

「どちらさもでしょうか」

「Nの旧友です。久しぶりに話でもと思い、無礼にも参上した次第でありますがNはご在宅でしょうか」

 質問に対する返答は無く、ただどうぞお上がりくださいと促され、応接間に通された。

 そこは赤い文字で「差し押さえ」と書かれた札が部屋中のありとあらゆるものに貼られている異様な空間だった。



 「・・・何からお話しいたしましょうか」

 Nの妻は私の前に茶を置き、話を始めた。

 「あれは確か私と主人が結婚をして二年が経とうという頃、つまり八年ほど前のことです。普段は金策の話しかしない主人が、興奮した様子でとあるサイトを見せてきたのです。そこには『呪いのジキルとハイド』という本がもたらした不幸の数々が綴られておりました。今ほどの大騒ぎではありませんでしたが、『呪いのジキルのハイド』はその頭角を現し始めていた、ということです。

 ・・・主人はこのことを大いに喜びました」

 Nの創造が確かに成功したのだ。Nが歓喜する姿を、Nの業を知る私は容易に想像することができる。

 

 「そのサイトには日を増すごとに新しい記事が追加されていきました。増加する他人の不幸を見て、主人はまた満足げに高笑いをするのです。そしてそれは最近まで続いていました。どうだ、俺の創り出した呪いは凄まじいだろう、そう言いたげな高笑いが、何年も何年も、この家には響いていたのです」

 疲れ切った声だ。人の不幸を笑う夫を見続けた妻の気苦労がにじみ出るようだと思った。

 「そんな笑い声を聞くたび、楽しそうな彼を見るたび、私は彼が魔物になってしまったのではないか、そう思うようになっておりました。・・・だから、終止符を打たねばならない、元凶である『呪いのジキルとハイド』を永久に葬りさらねばならないと決意いたしました。

 新聞やインターネットの情報をもとに『呪いのジキルとハイド』の現持ち主を探すことは案外簡単で、その方から言い値で譲っていただきました。なにしろ話題になっておりましたから、決して安いとは言えない値段でしたが、一刻も早くこの不幸の連鎖を止めたかったのです。今は金庫で厳重に保管しています」

 私は思わずおののいた。

「つまり、『呪いのジキルとハイド』は今ここにあるのですか」

「はい、少々お待ちを」

 Nの妻は数分席を立ち、やがて一冊の本を抱えて戻って来た。

「この本を燃やしてしまえばすべて終わる、そう思っていた・・・そう思っていたのに・・・」

「なぜ、燃やさなかったのですか」

恐る恐る尋ねた。

「・・・この本のせいで苦しんだ人が大勢いる。なのに本の創造者たる主人が、のうのうと生きていていいはずがない、報いを受けるべきだ、そう思いました。だから・・・」

この家の現状を見れば、何をしたのかは明白だ。

「ラッピングをして、主人に、プレゼントしました。袋を開け、中身を手に取った途端、主人はすぐに自分の置かれた状況を理解したようでした。すぐさま彼は私になぜこんなことをしたのかと問い、答えが返ってこないと見るや否や口汚く私を罵り、どこかへ飛び出して行ってしまいました」

 罪を独白するように、懺悔をするように、Nの妻は続ける。

「呪いとやらの効果はすぐに現れました。まず、主人は私に内緒で株に手を出していたようなのですが、それらの株が暴落しました。それだけでなく、彼が故意に脱税して店を運営していたことが摘発され、主人は警察に拘留されました。どういうわけか多額の借金も見つかり、貯金は瞬く間に消えました。もちろんこの家も店も差し押さえられているので近々出て行かなくてはなりません」

 

 話し終えたNの妻は、その疲れ果てた目でまっすぐ私を見据え、言う。

「主人の友であるというあなたに、一つ、お願いがあります」

「・・・何でしょうか」

「この『ジキルとハイド』を百円で買ってください。そしてそれを私に贈っていただきたいのです」

「なぜそんなことを?」

「私は自らの意思で主人を陥れました。しかしいくら私が『呪いで主人を陥れたのだ』と自白したところで警察は、国は私を裁いてはくれないでしょう。しかし、私は罪を犯したのです。私は裁かれるべきなのです。

 だから、どうか、お願いします」


 どうすればいいかなど、わかるはずがなかった。ただそう決まっていたかのように、そうするのが当然かのように、私は・・・



 彼女の人生の崩壊を、百円で買った。



                            《了》

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