終章

 ひとつ、ふたつ、みっつ――――――。


 ゆっくりと流れていく視界で私は数える。

 無窮の闇が広げる深くて暗い黒のなか。私は一人、漂っている。


 よっつ、いつつ、むっつ――――――。


 揺蕩い、流れていくデブリの群れを私は数える。

 その行為に意味はない。どこまでも続いていると思えるほどに広い宇宙のどこかで、私は終わることのない時間の終わりを待っている。


 ななつ、やっつ、ここのつ――――――。


 一体あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 デブリを数えるのにも飽きて、私はふと思う。

 時間の経過を数えるのは、三二五〇〇〇〇〇〇秒が経ったあたりで止めた。それは火星時間にしておよそ一〇年に及ぶ時間だった。

〈ペイトリオス号〉を飛び出した私は、対宙砲を止めるよりも先に、飛来したデブリ群に巻き込まれた。デブリに衝突して両脚の膝から先が潰れた。吹き飛びながら私は、デブリ群に衝突した対宙砲の衝撃波に呑み込まれた。

 人工脳の強制停止から目を覚ましたときには、既にどことも分からない場所にまで流されてきてしまっていた。それから私は、粉々になったデブリとともに長い時間、黒いだけの宇宙空間を漂っている。


 ひとつ、ふたつ、みっつ――――――。


 気を抜けば押し寄せてくる孤独を締め出すように、私は数える。


 よっつ、いつつ、むっつ――――――。


 前はそんなもの恐れる必要がなかった。怯える必要もなかった。

 かつて私は孤独だった。自分が孤独だということすら分からないほどに、孤独であることが当たり前だったのだ。

 だけど私は知ってしまった。気づかされてしまった。

 誰かと食べるオクトフライの味を。

 手を引かれて走り出すときに肩で切る風を。

 目を覚ましたとき、会いたいと思っていた人が目の前にいることの感動を。

 そして、別れるときの引き裂かれそうな胸の痛みを。

 おかしかった。そう、私はおかしい。

 ドールは道具だ。心はない。私たちは人間の感情をそれらしく模倣しているだけ。だからこの胸の痛みも感動も、全部は作り物で嘘なのだ。

 それなのに―――。それなのに、どうしたってこの胸の痛みは消えてくれない。油断すると瞼の裏を過ぎってしまうあの人の影が消えてくれない。

 私は全部を嘘だと捨ててしまいたくて、デブリを数える。集中して数えている間だけは、色々なことを考えなくて済んだ。


 ななつ、やっつ、――――――――――。


 私は数を数えて、それから―――それから――――――。

 視界の隅にちらついた光景に息を呑む。それがしっかりと視界に収まるように、ゆっくりと身体の向きを変える。そしてもう一度、息を呑む。

 立ちはだかるのは吸い込まれるように鮮やかな青。

 たとえ見たことがなかったとしても、私にはそれこそが地球なのだとすぐに分かった。

 空も水も全て青くしてしまうほどの光に溢れた惑星。ひたすらに黒ばかりが広がる宇宙で、それはまるで宝石のように輝いて。

 これまでに見た、何よりも美しかった。

 だが同時に空虚だった。

 あれほど見てみたいと、廃棄される危険を冒してまで望んだはずの光景には、致命的に何かが足りなかった。

 哀しみが押し寄せた。寂しさが渦巻いた。胸の奥が締め付けられるように痛んで、渇くはずのない喉が引き攣った。

 私は会いたかった。

 ルイ・ナナオに会いたかった。

 だけどそれはもう叶わない願いだった。


   ◇


 私は自らの手で二人の間に結んだ約束を破り捨てた。

 だけどそのことに後悔はない。あの状況を切り抜けるためにはそうするしかなかったなんて、慰めを口にするつもりもない。

 私はただ誇らしく思う。

 道具として。あるいは人に寄り添うドールとして。この世界で最も守りたいと感じられる人を守ることができたのだ。

 その事実だけで私が満たされるには十分だった。

 いや、十分でなければいけなかった。

 私はドール。人に使われる道具なのだ。人のために朽ち果てる存在でなければならず、それ以上を望んでしまうことなどあってはいけない。

 それなのに、胸の奥はずっと痛いままだった。

 いっそのこと完全に破壊されていたならば、どれほど楽だったのだろうと考える。

 余計なことは考えずに済んだ。別れを告げて、綺麗に終わることができた。念願が叶って目の当たりにすることのできた地球の青さの虚しさに、苦しくなることもなかった。

 だが現実は残酷だ。

 私は半分スクラップになった状態で、今も地球の青を突き付けられたまま宇宙の黒のなかを孤独に漂っている。

 きっとこれは罰なのだ。

 ドールでありながら、人の真似をしようとした罰。

 分不相応なものを望もうとしてしまった戒め。

 もう終わりたかった。

 だけど自ら終わらせる術すら、無様な私は持ち合わせていなかった。

 遥か遠くに明滅する物体が見えた。―――宇宙船。珍しいことではなかった。人工衛星やスペースシャトルを目撃するのも一度や二度ではない。

 最初は助けを求めようと苦心した。だけどすぐに無意味だと悟った。

 真空なので声や音も出なければ、唯一の通信手段であるヘルメットももうどこかへ失くしてしまったので、私がここにいることを知らせる術がなかった。

 そもそも相手のほうに私を助ける理由がない。

 宇宙空間において、目視で正確な距離を測ることは難しい。遥か遠くで豆粒のような大きさで見えている宇宙船が奇跡的に私に気づいたとして、わざわざ航路を曲げ、長い距離を移動するための燃料を使ってまで、私を拾うメリットは皆無に等しい。

 だがそのことに落胆はなかった。

 考えないようにしていたのかもしれない。

 だけど私はそれとは全く別に、人の偉大さを感じていた。

 かつて私にとって、人とは欲望を吐き出すだけの穢れた肉の袋でしかなかった。人の欲望は私へ向けて吐き出された。彼らの手で生み出された私はつまるところ、肉と鉄の袋だった。

 私は欲望に穢される日々のなかで、自分自身を呪っていたのだろう。

 なぜ生み出されてしまったのか。人は何故、こんなにも醜い自分たちの似姿である私たちを作り出したのかと。

 だけどそれは人の一側面でしかないことを知った。ピンク色の小さな部屋からでは見ることのできない景色が、外の世界には広がっていた。

 私は人が過去に苦しむ姿を見た。

 報われない愛を抱えながら引き裂かれている姿を見た。

 他人のために命を懸けて傷つく姿を見た。

 人が荒涼とした赤い大地で生きるために作り出した巨大な構造物を見た。

 時間をかけて積み上げ続けてきた夢を、叶える瞬間を見た。

 一人の人間が愛に気づいて覚悟を貫こうとする姿を見た。

 私はルイ・ナナオと、彼の周りで生きた人々を知ったのだ。

 人の営みは時に力強く、時に弱々しく、時に脆く、時に気高く、そして時にとても愛おしい。

 きっとそれが全てではないのだろう。まだ私には知らないことがたくさんあるのだろう。

 人というのはきっと、私たちドールよりも遥かに複雑で、精巧につくられている。

 今、私はそんな人の手によって生み出された自分を、ドールという存在をとても誇らしく思うことができた。

 私はそこまで考えて、さっきの宇宙船が近づいてきていることに気づいた。さっきまでは豆粒にも満たなかった大きさのそれはもう、窓の数を数えられるくらいには大きくなっている。

 宇宙船は慎重を期すようにゆっくりと進み、やがてその場に停止した。これまで見たものとは少しだけ、様子が異なっていた。

 宇宙船がゆっくりと船首の方向を変える。その側面に〈ペイトリオス17号〉という文字が見えた。

 あり得ない。私はにわかに抱いてしまった期待をすぐに振り払った。

 この闇のなかで希望を抱くだけ無駄なのだ。もし何かを期待すれば、その大きさの分だけ苦しむのは私自身だと、何度も味わってきた。

 だけど〈ペイトリオス17号〉は、その場を去ろうとはしなかった。

 私はその宇宙船から、目が離せなくなった。

 そんなはずがない。だってもう一〇年以上も経っている。そんなことは、ありえない。

〈ペイトリオス17号〉を背景に、小さな点が動く。その点はゆっくりと、すごくすごくゆっくりと、私のほうへ向かってくる。

 ゆっくりと、だが真っ直ぐ確実に近づいてくるそれが人のかたちをしていると分かった。人のかたちは徐々に大きくなっていき、やがて私の手を掴んで引き寄せた。

 その人は宇宙服の胸のあたりに埋め込まれた操作盤から端子を伸ばし、私のうなじへと差し込む。刹那、決して逃れることはできないと思っていた孤独が解け、温かな感覚とともにずっと待ち望んでいた声が流れ込んでくる。


『――――――遅くなって、すいません』


 その人は言った。ヘルメットの奥に見えた顔が、泣き笑いのような表情に崩れていく。

 見紛うはずがなかった。宇宙を一人漂っている間、私は何度その顔を思い出したか分からない。

 時間の経過は頬や目尻に皺を刻み、その頭には白髪を増やしていたけれど、関係ない。彼は―――ルイ・ナナオは果てしない闇のなかから、今この瞬間、私を見つけ出した。


『ナナオは、不思議です。いつも謝っています』


 声は出なかった。だからうなじから端子を介して言語情報を転送した。ちゃんと伝わっているのかは分からなかったけれど、ナナオが笑ってくれたから、何かが伝わったことは分かった。


『……何から話したらいいんでしょうね。セッテさんに、聞いてほしいこと、たくさんあるんですよ』


 ナナオは話してくれた。

 私が身を挺して対宙砲を止めたあと、失意のなかで宇宙ステーションに辿り着いたこと。

 絶望のなかで自分が何をすべきなのか、何をしたいのかを考え、地球へ向かうのを止めたこと。

 宇宙ステーションにて出頭し、火星で罪を償ったこと。

 アシャラ・ウフキルという統括省ドール管理部門も特別顧問の計らいによって、ナナオとトム、そしてワンフーたち採掘課メンバーの生き残りは大幅に減刑されたこと。

 みんなまとめて、ウフキル建設の子会社の宇宙探索部門に雇われたこと。

 全てはあの日、失意のなかで誓った覚悟を貫き通すため。

 対宙砲で砕け散ってしまったセッテを探し集めるため。


『調べるうちに、二射目の対宙砲がデブリ群と衝突した可能性が浮上したんです。対宙砲の射角とデブリ群の飛来速度とか、色んな要素からセッテさんが吹き飛ばされた方向とか距離とか、そういうの全部計算して、ずっと探してたんです。それで今日、ようやく発信機の信号を拾えたんです。すごく時間は掛かっちゃいましたけど』


 この広大過ぎる宇宙のなかで、塵に等しいドール一機を見つけることがどれほどの困難か推測するのは難しくなかった。

 たった十数年での再会は、きっと奇跡に近いのだろう。

 だけど私は思う。人の覚悟が、意志の力が、この奇跡を起こしたのだと。

〈ペイトリオス号〉に刻まれた〝17〟の文字が何よりの証拠だ。


『あれから火星も大きく変わりました。あの日、ウフキルさんたちが主導したストライキが成功して、それから少しずつ変わっていったんです。まだ地球と同じとまでは行きませんが、今ではドールも虐げられることなく、職務以外の行動も多くが制限されなくなったんです。手続きさえ踏めば、火星と地球の往復だってできますよ』

『それじゃあ』

『はい。もう誰からも逃げたりしないで、僕らは地球を見に行けます』


 ナナオが微笑む。釣られて私の口元も綻んだ気がした。


『あー、あー。ちょっとお二人さん? お熱いのはいいけど、私は回収して早く戻れって言ったわよね? ナナオ』


 割り込んだのは聞き慣れた声だった。刺々しくて、だけど芯の通った声。


『キャトルさんです。実はキャトルさん、ストライキの中心メンバーで、僕のことを助けてくれたり、色々協力してくれたんです。今は一緒に働いています』

『私のこと無視するとは、随分偉くなったわね、ナナオ』

『まあまあ、キャトルの姐さんよ。少しくらい多めにみてやれって。一八年ぶりの再会なんだぜ』


 キャトルの苛立たしげな声に続くのは、トムの声だった。年を取って少し嗄れた声に変わっていたけれど、軽妙な調子は相変わらずのようだった。


『ちなみにワンさんは、火星で留守番です。でもみんな、セッテさんの帰りを待ってます』


 ああ、もし私に人のような心があるのなら、きっと今胸のなかを満たしているこの感覚をきっと幸せと呼ぶのだろう。私は今、幸せだ。たくさんのつながりのなかで生きているのだから。

 私はこの幸せの確かさを確認したくて、ナナオの腕をぎゅっと掴む。それに応えるように、ナナオは私の肩に回した腕にほんの少し力を込めてくれる。


『ナナオ、セッテさん。お喋りもいいが、せっかくだろ? 時間もねえし、それ、眺めとけよ』


 トムに言われ、私たちは顔を見合わせる。それからどちらともなく身体の向きを変える。互いに交わす言葉はもうなかった。

 私たちは寄り添い合いながら、ただ広がる景色を共に瞼に焼き付けた。

 それはとてつもなく長くて、途方もなく遠い道の果て。

 空気も水も青く染め上げる、光に溢れた宝石のような惑星。

 もう虚しさはない。

 足りなかった体温は、今しっかりとそこにあるから。

 胸が詰まって視界が滲んだ。

 こぼれた雫は黒い闇に弾けて浮かび、その鮮烈な青を映している。

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ラブドール・アンニュイ やらずの @amaneasohgi

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