6章 青い惑星 - 6

 AIの指示を受けた僕と通信するため、僕の活動服アクティブドレスのヘルメットだけを渡す。ヘルメットの接続端子がセッテのうなじ部分の端子と互換性のあるものだったのは不幸中のほんのささやかな幸いと言えた。宇宙服の代わりに身体を固定するのは船内に配備されていたワイヤーを用いることになった。かなり心許ないが他に使えるものがなかった。

 デブリ群とのエンカウントまでは残り三〇分を切っていた。

 修理作業は時間との勝負だった。


「それでは、いってきます」


 セッテはそれだけ言って開いた隔壁の向こうへと進んでいく。一時的とは言え、別れの余韻もなく隔壁が閉まり、セッテの姿は見えなくなる。

 僕にできるのはセッテを信じて指示を伝えることだけだった。

 フライトデッキへと戻る。セッテが座っていた席には、貸していた僕のブルゾンが畳んで置かれていた。


「セッテさん、ハッチ内の空気を排出します。ハッチにワイヤーを固定してください」


 僕はレバーを下げる。ハッチ内が真空になったことと命綱の固定が済んだことを確認し、ハッチを解放する。

 セッテは躊躇うことなく宇宙空間へと飛び出していく。僕が祈るように見つめるモニターにはヘルメット内の様子が映し出されている。


「セッテさん、まずは損傷個所を探してください」

『左側、軌道操縦制御系の酸化剤タンクとパージシステムが抉れています』


 僕の元に簡潔な報告とフィルムモニターで撮影した損傷個所の撮影画像が送られてくる。僕はAIを使ってそれを解析。修復手順を提示させる。


「外部装甲の亀裂からシステム内部に入ってください。AIの提示した修復手順を転送します。あと、四酸化二窒素は過度に浴びないようお願いします」

『分かりました』


 損傷は思っていたよりも軽微だった。おそらく対宙砲は掠めた程度なのだろう。幸運だった。まだ運は僕らを見放してはいない。万が一直撃していれば〈ペイトリオス号〉は三〇分を待つことなくデブリ群の仲間入りを果たしていたかもしれない。

 セッテが手際よく作業を進めていく模様がモニターに映し出される。破壊された外部装甲の一部分を切除し、それを酸化剤タンクに溶接する。強度が著しく落ちるので大気圏への再突入が不可能になるが、元から乗り捨てる予定のシャトルなので問題なかった。

 僕は両手の指を組み、祈るようにセッテを見守る。もどかしかった。セッテの無事を祈りながら、祈ることしかできない自分の無力さを噛み締めた。身体も心も、引き裂かれてしまいそうだった。

 セッテは外部装甲を切除し終える。続いて溶接に入る。

 刹那、タンクの破損部分から酸化剤が勢いよく噴出。セッテが吹き飛ぶ。


「セッテさん!」

『大丈夫です』


 紙細工のように呆気なく宇宙空間を舞ったセッテは腰に繋いだワイヤーに辛うじて引き留められている。命綱を辿り、セッテは損傷個所へと戻ってくる。


「怪我とかはありませんかっ?」

『はい。作業を続けます』


 セッテは顔の横に人差し指と親指で輪をつくり、僕に問題ないことを伝えてくる。僕は小さく安堵の息を吐いたが、心臓はまだ緊張と恐怖にしっかりと掴まれたままだ。

 デブリ群突入までは残り一一分。モニターに表示されるタイムカウンターは無情に時を刻んでいく。セッテは作業を続ける。切除した装甲でタンクの破損部分を覆い、粘度の高いネルガリウムで覆うように接合していく。

 そしてリミットまで三分を切り、タイムカウンターの文字が赤色の変わると同時。


「……酸化剤の漏出、止まりました。軌道操縦システムも稼働率九二%まで復帰です。AIの計算だとギリギリ、脱出ポッドの射出地点までは航行できるみたいです」


 フライトデッキ内を満たしていた赤いランプが消える。けたたましいアラートも鳴り止み、デッキのなかに静寂が戻ってくる。

 だが気を抜くにはまだ早い。


「セッテさん、これから軌道を戻します。すぐにハッチのなかへ戻ってください」

『…………分かりました』


 一瞬の間が気になった。だがセッテが言葉を続け、引っ掛かりは有耶無耶になる。


『ナナオ、他に異常はないですか』

「……他ですか。ちょっと待ってください」


 僕は計器をチェックし各種レーダーを確認する。レーダーが感知したアラートに、僕は思わず固まって絶句する。もしこの世に神という存在がいるのなら、そいつはどうしても僕とセッテを地球へと向かわせたくないらしい。

 未確認の高速飛翔物体の接近。AIはその飛翔物体を、火星の人類居住地域付近から放たれた対宙砲であると予測した。

 このままでは四分と経たずに直撃だった。対宙砲の射線から外れ、影響範囲外へと離脱するためにはもう一刻の猶予もない。


「セッテさん! 早く戻ってください! 対宙砲が迫っています!」


 僕は叫ぶ。セッテは頷き、ワイヤーを辿っての移動を開始する。一秒が永遠のように感じられ、全身から脂汗が噴き出す。奥歯はがたがたと震え、あるはずのない左腕が激痛を訴え始めた。

 AIが僕に対して算出した被害予測を提出してくる。そこでは、直撃ならば〈ペイトリオス号〉は木端微塵に大破、直撃を避けられたとしても衝撃の影響範囲内ならば航行不能レベルの損傷を追うことが推測されていた。


「セッテさん! 急いでください!」

『戻りました』


 僕はほっと胸を撫で下ろしてハッチを閉鎖。すぐにハッチ内を空気で満たす。

 だが安心も束の間、急上昇していく空気濃度のゲージを見ていた僕は猛烈な違和感に駆られた。

 本来ならば一刻も早く軌道修正の操縦に移らなければならない。だが構わず立ち上がり、ハッチへと急ぐ。勢い余って壁や天井にぶつかった。左耳の傷口が開いてガーゼに血が滲んだ。僕はガーゼを千切って捨てる。耳から流れた血が、僕の通った後ろに赤い水滴を散りばめた。

 そして隔壁を開き、僕は愕然とする。

 空気で満たされたハッチのなかにセッテはいなかった。しっかりとセッテを繋いでいたはずのワイヤーだけが無造作に、宙に浮かんでいた。


「……セッテ、さん?」


 何が起きているのか、分からなかった。

 とにかくハッチをもう一度開けなければいけない。僕は混乱した頭でフライトデッキへと戻る。

 最悪の予感はもう既に確信に程近いかたちを得ていた。だがそんなことを認めるわけにはいかない。僕は拳を握って、自分の側頭部を殴りつける。身体がぐるりと回転し、手摺に左耳の傷口がぶつかってたくさんの血が溢れた。

 たとえば考えてみればいい。

 掠っただけでシャトルが航行不能になる対宙砲の一射目を、〈ペイトリオス号〉はどうやって回避したのだろうか。

 相手が狙いを誤った? そんなはずはない。ロケットがそうだったように、ミサイルや砲撃もほとんどがAIやプログラムによる人の手を必要としない仕様だ。ただぼんやりと無警戒に軌道上を進んでいただけの〈ペイトリオス号〉から狙いを外す可能性は低いだろう。

 つまり、避けたのだ。AIの自動操縦? それも違う。AIが勝手に回避してくれるなら、この二射目の危機だって既に回避されている。

 ならば誰が? 僕でなくてAIでもないならば、一人しかいない。セッテが操縦桿を握り、予定軌道から大きく離れることで対宙砲の一射目を回避してみせた。

 そして二射目の危険も察知し、僕に確認するよう促した。そのセッテは僕に嘘を吐き、自分が戻るべきハッチを閉じさせた。

 理解したいと思えるようになったからだろうか。

 セッテと出会い、たくさんの愛に気づいたからだろうか。

 今の僕はどうしても、セッテが何をしようとしているのかが分かってしまう。


「セッテさん! どうして嘘吐いたんですかっ!」


 僕はモニターを叩きつけて声を荒げた。罅割れたモニターにはセッテの無表情が映っている。

 そこにはいつも通り表情はない。だけど僕にはそれが、セッテの決意なのだと分かる。


「一緒に、地球を見るって言ったじゃないですか……」

『ナナオ、ごめんなさい』


 セッテの声が無情に響く。僕は何か言おうとして、だけど言葉が喉元で解けて声にはならない。


『私が対宙砲の射線に入って軌道を変えます。ナナオは予定通り、〈ペイトリオス号〉を操縦して宇宙ステーションに向かってください』


 止めてくれ。

 僕は引き返そうと操縦桿を握り、ハッチを開けようとレバーを引く。だがシャトルのAIは自殺行為とも取れる操作を受け付けてはくれなかった。〈ペイトリオス号〉は僕の意志に反し、予定軌道へと戻っていく。


『とても楽しかったです。地球を見られませんは残念ですけど、ナナオにはたくさんのものを貰いました。だから私は満足です』


 そうじゃないだろう。まだ何も、何も終わっていない。満足させてあげられるようなことは何一つとして出来てないじゃないか。


「行かないでください。お願いだ……行かないで……」


 二人一緒じゃなければ意味がない。僕だけが生き残ってしまうことに意味なんてない。

 だが僕の声はセッテの決意を揺るがすには程遠く。


『ナナオ、ありがとうございました。……お元気で』


 セッテの目尻から涙の粒がこぼれる。口元が微かに綻んで、通信が切れる。

 間を置かず、接近していた飛翔物が〈ペイトリオス号〉の遥か手前で別の物体と衝突して消失したことがAIによって伝えられる。

 僕はその場に崩れ落ちた。その拍子、ぶつかった座席の上で畳んであった僕のブルゾンが、ふわりと宙に広がった。

 吹き飛んだ耳や千切れた腕よりもずっと、胸の奥が痛かった。


「ずるいじゃないですか、こんなっ、……こんなときに、笑ってくれるなんて」


 絞り出した僕の声を聞き届けてくれる人はもういない。

 僕はセッテの残滓を掻き集めるように、宙を舞うブルゾンを掴んで抱き締める。

 広くなったフライトデッキに、切り裂くような慟哭が反響した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る