6章 青い惑星 - 5
発射まで九分を切り、シャトルの待機状態が解除。いよいよ準備の最終段階へと突入する。
『そう心配そうな顔すんなよ。全部上手くいってる』
ヘルメットのフィルムモニターに映るトムが言う。顔が妙にニヤついているのは、さっきまでの愛についての話の下りを全て聞かれていたからに他ならない。
「心配してるんじゃない。嫌そうな顔をしてるんだ」
『そう怒るなよ。別に聞き耳を立ててたわけじゃない。随分、哲学的な話を楽しんでんなと思って聞いてたら、お前がいきなり―――』
「あーもうやめやめ! それ以上は何も言うな!」
トムがゲラゲラと声を上げて笑う。僕は溜息を吐いた。
あと九分……正確には八分一八秒。僕はトムやワンフーたちを罪と一緒に火星へ残し、地球へと向かう。
決めたことだから迷いはない。揺らぐこともない。だけど呵責がないわけではない。
だから覚えておかなければならない。
僕らの願いを叶えるために、彼らがありったけの愛を注いで戦ったことを。
僕らを救うために、長い時間をかけてかたちにした夢を託した者がいたことを。
『そうだ。名前決めてねえ』
「名前?」
『このシャトルの名前だよ。船には名前つけるもんだろ』
発射間際に言うことかとも思ったが、これはこれでトムらしいかもしれない。僕は少し考えたあと、眉間にしわを寄せて考えているトムに提案した。
「ペイトリオス号、なんてどうかな」
『ペイトリオス?』
「ギリシャ神話に出てくるテセウスの友人。牛の群れを奪おうとした罪人でもある」
『罪人で友人か。俺たちにぴったりだな。船で有名なテセウスのダチってのもいい。よし、こいつは〈ペイトリオス号〉に決定だ』
僕らは火星の法を犯した大罪人だ。だからテセウスのような英雄にはなれない。その悪友くらいがちょうどいいのだ。
『……無事に地球に着いたら連絡くらい寄越せよ』
「ああ、分かってる。待っていてくれ」
そう問い、そう答えたものの、僕らは分かっている。
事が終われば捕らえられ、投獄される。何年かは分からないけれど短くはないだろう。万が一、奇跡に奇跡が重なって僕が逃げ延びたとして、もう連絡を送る先もないし、トムがそれを受け取れることはない。
何を話せばいいのか迷っているうちに時間は過ぎていく。
発射まで三一秒に迫り、オート・シークエンス・スタートへと入る。フライトデッキ内のメインコンピューターにタイムカウンターが表示され、刻々と発射までの時間を刻む。
フィルムモニターでは夢の成就を目前に、不安と期待の入り混じる表情をしたトムが映っている。
「トム、本当にありがとう」
僕は言う。だけどどれだけ言葉を尽くしたところで、この感謝を、気持ちを伝えきれるとは思えなかった。
一〇秒前―――。ターボポンプが作動を開始し、燃料室に主燃料である液体酸素と液体窒素の供給が始まる。
『行けよ、地球まで』
六秒前―――。エンジンの点火が始まる。搭載されるエンジンは瞬く間に最高出力へ。
「ああ、行くよ。君がくれた翼で行く」
発射―――。タイムカウンターがゼロを告げる。シャトルを固定していたボルトが吹き飛び、機体が上昇を始める。間もなく発射の衝撃波でトムとの通信が途絶。最後に見えたトムの顔は、子供みたいに無邪気な笑顔だった。
フライトデッキ内は大きく震動し、全身に重力が圧し掛かる。後ろのセッテを気遣う余裕はなかった。ドールである彼女は僕よりも遥かに丈夫なので問題はないだろうが、つくづく情けない自分に呆れる他にない。
繰り返されるロール運動に平衡感覚は容易く奪われ、前後左右が分からなくなった。身体を固定するベルトが傷に食い込んで激痛を訴えた。吹き飛びそうになる意識は奥歯を噛み締めて繋ぎ止める。
どれくらいの時間が経ったかは分からない。ようやく過剰なGのなかでもほんの僅かに計器を伺う余裕が出てきたころ、燃料補助のロケットが切り離される。予定の軌道との一致率は九九・七八五%。打ち上げは順調だった。
ロケットと入れ替わるように〈ペイトリオス号〉本体の燃料が噴射される。シャトルは垂直方向から、徐々に水平方向の加速へと移行していく。
「セッテさん、無事、ですか……?」
「はい。ナナオ、見てください」
首だけで精一杯振り向いて訊ねた僕にセッテが言う。セッテの視線の方向を追って頭上の窓を見上げる。どうやらシャトルは今、上下逆さまの航行をしているらしい。つまり僕らの視線の先には一面の赤―――火星の大地が広がっていた。
その光景を、何と表現したらいいのか、にわかには分からなかった。
隆起と陥没を繰り返した不毛の大地。その表面に点在している明かりはドームだろう。広大な火星にあって、僕ら人間が手に出来た生存域はまだあまりに小さい。
「広いです。さっきよりもずっと、ずっと広いです」
荒涼とした火星の大地は、僕らの人生がどれほど取るに足らないかを突き付ける。僕らの存在がどれほど矮小かを知らしめる。
罪を犯した人間が火星に送られてきた理由が、なんとなく分かった気がした。
この何もない不毛の大地は立ち向かうことを迫り、向き合うことを求める。僕らはこの地で真摯に生きることを知る。自分自身にも他人にも、真っ向から対峙することを要求される。
生きることに懸命になれなければ、この厳しい大地で生きていくことはできないから。
火星は社会の爪弾き者が寄せ集められた最果ての地ではないのかもしれない。
きっとここは内省と再起の大地なのだ。
僕はセッテと出会い、初めて自分自身に向き合うことができた。セッテを通して、気付かずにいた僕の周りに溢れる愛を知った。
僕は、この火星で生きたのだ。
僕らが呆然と頭上を見ている間も、シャトルはロールを繰り返す。黒々とした果てのない宇宙と燃えているみたいに赤い大地が僕らの視界を通り過ぎていく。
もうドームはそれと分からないくらいには小さくなっていた。どれがフォン・ブラウン地区で、どれがセカンド・ドームなのかももう分からない。
もう戻ることはないのだと、急に実感が押し寄せた。込み上げる寂しさを僕は呑み下す。
間もなくシャトルの燃料噴射が停止し、AIによる軌道操縦制御へと切り替わる。火星の衛星軌道上にシャトルが到達した合図だった。
僕らのやることと言えば、後は宇宙ステーションが近づくのを待つだけ。二五時間後にアラートが鳴ったら脱出ポッドへと移動し、シャトルを放棄。宇宙ステーションへと向かう。
こうして発ってみると呆気ないものだった。セッテの手を取ってからここまでの時間はひどく長いように感じられたが、火星時間にしてたったの三日と経っていない。
「セッテさん。ミッドデッキに移動してみませんか? 保存食があるみたいなので」
思い返せば、セッテとオクトフライを食べて以来、何も口にしていなかった。地球まではそれなりに長い旅になるだろう、食べられるときに食べておかなくては、と思えるくらいには、僕の心に余裕が生まれているらしい。
もうセッテも食事がいらないなどとは言わなかった。代わりに首を傾げながら僕に訊いてくる。
「保存食。……それはオクトフライよりも美味しいですか?」
「それはないと思います」
僕は苦笑を浮かべて肩を竦めた。
◇
僕らはミッドデッキに移動し、段ボールに保管されていた保存食を広げた。
そのままだと使い古しのタイヤの味がするらしく、宇宙飛行士たちは調味料やスパイスで味付けをして食べているとの噂を信じ、片っ端から試してみる。一番まともな組み合わせは辛味ペーストだったが、それでもゴムのような風味は隠せず、セッテは早々にリタイアしていた。
食事を終えた僕らは無重力を楽しんだ。
宇宙飛行士の真似をして宙返りを試みたが、僕もセッテも上手くできなかった。重力環境下では腰や下っ腹のあたりにある重心の位置を上手くとらえられず、重さの感じないなかではなかなか綺麗に回ることができないらしい。
無重力というのは、簡単に言えば水中に浮かんでいるような感覚に近い。もちろん水や空気の抵抗はないので、動こうと思えば驚くほど滑らかに素早く動くことができる。だが重さの感覚がないのは自分たちの身体に対しても言えることなので、僕もセッテも無暗に動いては何度も壁に手足をぶつけた。ぶつける度に笑っていたら、セッテが少しだけ眉を顰めたのは、僕の新しい発見だった。
遊び疲れると、僕はセッテにお願いをして仮眠を取ることにした。身体は既に限界で、固定された寝袋に身体を収めた途端、僕の意識は夢のなかへと落ちていった。
夢のなかでカレンに会った。言葉を躱すこともなかったし、触れ合うようなこともなかった。ただ僕らは互いに視線を重ね合っているだけの夢だった。最後にカレンはくるりと回って微笑むと、風に吹かれて消えていった。
夢の意味は分からなかった。だけど僕はカレンのことと、僕が彼女にしてしまったことを消してはならないと改めて心に刻んだ。
目が覚めると、脱出ポッドの予定射出地点まではあと七時間を切っていた。疲れが完全に取れるはずもなかったが、それでもいくらか身体が軽くなったように感じた。たぶん重力がないせいだ。
寝袋を片付けた僕はフライトデッキへ戻ろうと、右手で壁を押す。片腕がないと無重力化でバランスを取るのも一苦労だ。利き腕ではなかったが生活にも支障がありそうなので、落ち着いたら義手を用意する必要があるな、と僕は思う。
手摺を掴みながらフライトデッキへ向かう。唐突に僕は、色々あったけれど諦めずに頑張ってよかったと心の底から思った。思ったらなんだか泣けてきて、僕はフライトデッキに入る手前で目頭を押さえた。
瞬間、シャトルが大きく揺れた。シャトル内のランプが赤く灯り、警告音が激しく鳴り響く。
「な、何があったんですかっ?」
フライトデッキに飛び込むや、僕は計器を確認する。シャトルのAIが示すのは、控えめに言っても絶望的な状況だった。
「対宙砲って、そんな馬鹿な……燃料の漏洩。軌道操縦システムの稼働率三六%減。……それに今の衝撃で予定軌道からも逸れている」
これはあくまで推測だが、タルシスの谷から違法に打ち上げられた〈ペイトリオス号〉は保安局か統括省によって追跡されていたのだろう。おそらく乗っているのが不当に職場から脱走したドールとそれを先導した男であることも予測していた。
そして然るべき手続きと準備を行い、追撃に打って出たのだ。
まさか、たかが僕らの地球行きを阻止するためだけに対宙砲などという兵器まで持ち出してくるとは完全に想定外だ。いや、単純に僕の認識が甘かったというべきなのだろうか。
「ナナオ、このままだと火星時間三八分後、デブリ群に飛び込む軌道です」
セッテが平坦な声音で冷徹な現実を突き付ける。
単に予測軌道から逸れただけならばAIの手を借りて修正すれば済む。だがエンジンの稼働率が下がり、燃料が漏出している今、それすらも不可能だった。
「どうすればいい……」
鳴り響くアラートが僕の思考を掻き回す。妙案など一つも思い浮かばない。僕は右手を振り被って渾身の力で機材の上に振り下ろす。僕の手が痛んだだけで、状況は全く変わらない。
「ナナオ、落ち着きます。壊れたら、修理するしかありません」
「修理って外に出られるわけが―――」
「私なら、出られます」
僕の着ている
だがドールならば別だ。ボディは過酷な環境下でも活動できるように緻密かつ頑強に造られているし、人間と違い人工神経系や人工筋肉は真空下であっても十全に機能する。
「駄目です」
僕は首を横に振る。
できることとやるべきことは違う。セッテを時速二〇〇〇〇キロを超える速度で航行する〈ペイトリオス号〉の船外に出す危険など冒していいわけがない。
「他に方法はありません」
「駄目だ!」
「ナナオ!」
セッテが声を張った。僕は思わず言葉を呑みこみ、二人の間の空気はにわかに張り詰めた。アラートがけたたましく響き続けている。
他に選択肢はない。そんなことは分かっている。そしてこれが唯一の選択肢にして、最も合理的な判断だ。それなのに感情は、全く割り切れやしなかった。
「ナナオ。私は、あなたと一緒に地球が見たいです」
どれだけ頭を捻っても、セッテのその言葉に反論できる言葉は思いつかなかった。
「…………分かりました。でも、約束してください。僕が無理だと判断したら、必ず戻ってきてください」
僕の縋るような言葉に頷いたセッテは、すぐに準備を始めた。
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