終幕:群青区に神は滅びて

1.信条を持たぬ者

 早朝の駅前には、蝉の声がまばらに響いていた。八月も残すところあと数日。昨日までニュースを騒がせていた大型台風も、夜半のうちに通り過ぎてしまい、道路の上の水たまりだけがその存在を知らせていた。

 ユキトは群青駅の前で立ち止まると、大きな欠伸を一つ溢す。時刻はまだ六時前。人通りは殆どなく、車道にも車は走っていなかった。群青区は昼間は栄えているが、深夜から早朝に掛けては静かな街である。生まれた時から此処に住んでいるユキトにとっては、賑やかな昼間の姿より、この光景の方が体に馴染んでいた。


「眠……」


 そう言って、もう一度欠伸をしようとした時、誰かが背中を叩いた。振り向いたユキトは、それが存外背の低い、そしてあまり見慣れない人間であることに気が付いて固まる。だが、相手はそんな反応は想定内だったのか、声を立てて笑った。


「びっくりした?」

「えーっと……もしかして、トモカさん?」


 もしかして、と最初に言い添えたのは、トモカの格好が最後に見た時とまるで違っていたためだった。チャイナドレスに濃い化粧をしていた占い師の女は、白いジャージにサンダル姿で、手入れしているらしい睫毛だけが妙に目立っていて、恐らくは殆ど化粧をしていなかった。化粧をしていない方が、少し大人びて見えるのは、目の下に薄く浮かんだ隈のせいかもしれない。


「やだぁ、その反応。久々の再会なんだから、もっと嬉しそうにしてくれていいんだよ? おねーさん、優しいから」

「お断りします。……どうして此処に? それに、その格好は?」

「それ聞いてどうするの? もしかしておねーさんに興味湧いちゃった?」

「いえ、全然」


 間髪入れずに否定を返すと、トモカは口元を押さえて笑い声を出す。お淑やかな仕草ではなく、明らかにユキトを小馬鹿にしていた。


「冷たくされると困っちゃうなー。最近の若い子はドライなんだもの。流星群が流れたあとにどうなったか、誰も連絡くれなかったし」

「興味あったんですか?」


 トモカにとっては祈願システムも、その消滅を願って動き回るユキトたちも、自分たちのアプリケーションを盛り上げるための道具に過ぎない。ユキトはそう信じていたし、それが消えた今、トモカが再び現れたことも意外と言えば意外だった。

 しかしトモカは、一度首を傾げる仕草をしたあとで、ユキトの想像通りの答えを口にした。


「別に? でも、会ったら聞いてみようかなーぐらいは思うでしょ」

「……ですよね。あんた、そういう人だし」

「まぁでも、聞かなくてもわかるよ。巫女ちゃん、昨日で神社を出ていったし。今日は此処でお見送りってところ?」


 ユキトはそれに対して肯定を返した。

 縁結神社に留まる理由が無くなったれんこは、すぐに自分が属する「協会」に連絡をして、交代の手続きを取った。だが即日という訳にはいかず、どんなに急いでも一週間掛かると告げられたらしい。

 れんこはその一週間で、住んでいる部屋の解約やら引き継ぎやらを全て済ませ、漸く昨日、縁結神社の臨時管理人の職を離れた。「六時半の電車で帰るから、時間があれば来てください」と、事務的ながらも親しみのあるメッセージがユキトたちに届いたのは、昨日の朝のことである。急なことにユキトたちは戸惑ったが、れんこを引き止める理由はなく、そしてそれ以上に見送らない理由もなかった。


「巫女ちゃんいなくなると寂しくなるなぁ。私の分までお見送りしておいて」

「会わないんですか」

「流石にそこまで空気読めないことはしないよぉ。大人だもの」


 トモカは笑いながら一歩退く。本当にただ、ユキトを見かけたから話しかけただけのようだった。


「まぁ君たちとも、今後会うことは殆どないだろうけどね。何かあったら、また楽しませてよ」

「個人的感想としては、二度と関わりたくない」

「酷いよぉ。でも、いいもんねー。強い子だから泣かないもん」


 そう言って泣き真似をする姿は、無邪気とか陽気ではなく、ただ不気味だった。ユキトは呆れ半分で見ていたが、ふとあることを思い出すとトモカに疑問を投げる。


「ツカサが言っていたけど、トモカって本名じゃないんだろ?」

「そうだよぉ。あれは占い師する時や、ネット上の取引で使ってる名前だから」

「本名は?」

「あらやだ。やっぱり年上のおねーさんに興味津々? しんしんのしん?」


 トモカは自分の言葉に合わせて、指で宙を突く。ユキトが無視していると、やがて指の動きを変えて、何かの綴りを中空に描いた。


「私の本名は杉野アスカ。明日が香るって書いて、明日香」

「……あぁ、だからトモカなのか」

「そうそう。明日は英語でTomorrow。そこから取って、トモカ。単純でしょ?」


 トモカは指をそのまま横に払い、今度は意味もなく円を描く仕草に変えた。自分の名前を名乗ることに、慣れていないのかもしれないとユキトは感じた。トモカの行動はあまりに芝居がかりすぎていた。


「それにしても、本名も知らない女にベラベラ喋って、君たちは随分と純粋だよねぇ。私が悪い人だったらどうするつもりだったわけ?」

「本名じゃないとは思ってなかったしな。それに……」


 ユキトは女の顔を真正面から見据えると、今まで思っていたことを初めて口に出した。


「あんたみたいに信条が無さそうな人は、大して怖くない」


 トモカは目を見開き、数秒固まった。その口元が一瞬、苦々しく歪んだと思うと、次の瞬間には笑みの形へと変わった。その口から甲高い笑い声が溢れ、静かなロータリーに響き渡る。心底可笑しくて堪らないというように、トモカはそのまま数秒間笑っていたが、やがてあっさりとそれを止めると、睨むような目でユキトを見た。


「いったーいところ突かないでくれるぅ?」

「そんなこと思ってないくせに」

「おねーさん、偶には自分のことも鑑みるよん。それを覚えておくかは別として」


 そこまで言い終わると、トモカの視線がユキトから逸れる。もうこの会話に飽きたとでも言うかのように、表情は味気のないものに変わっていた。此処まで来ると、もはやユキトには彼女の心情というものが想像すらも出来なくなっていた。笑ったのも睨みつけたのも、こうして興味のない素振りすらも、何もかも嘘に思える。

 地面を蹴るようにして踵を返したトモカは、気怠そうに歩き出しながら右手で小さく手を振った。


「それじゃまたいつか。次会う時までに大人に対する礼儀作法を覚えておいてねん」

「気が向いたらな」


 トモカは笑ったようだった。しかしそのまま、振り返ることもなく駅の高架下の方へと姿を消す。

 そしてそれと入れ違いに、明るい声がユキトを呼んだ。

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