2.足掻いた者たち
「ユキちゃん!」
横断歩道を駆けてユキトの元まで来たナオは、顔にかかった黒い髪の一房もそのままに、笑顔を浮かべてみせた。まだ昇りきらない太陽の、少し黄色くて鈍い光がその顔を照らしている。
神社から駆けてきたらしい少女に、ユキトは苦笑を返しながら、頬にかかった髪を掬い上げてやった。
「随分急いで来たんだな」
「だって、もういるとは思わなかったんだもん。待った?」
「いや、俺もさっき来たところ」
ユキトはそう答えると、ロータリーの中央に立っている時計に目を向けた。六時を少し過ぎたばかりの時間だが、そろそろれんこが来てもおかしくはない。そんなことを考えていると、ナオがユキトの服の裾を掴んで何度か下に引いた。
「ねぇ、お別れの品ってこれでいいと思う?」
ナオは手に持っていた紙袋をユキトに見せた。正直、そこまで気が回っていなかったユキトは、驚きながら中を覗き込む。綺麗な柄の紙袋の中には、入浴剤とプチタオルがセットになったものが入っていた。どちらも猫がモチーフとなっていて、予め用意していたものであることが見て取れる。
「いつ買ったんだ?」
「一昨日。猫柄のものなら喜ぶかと思って」
「結構高かったんじゃねぇの? 後で半額出してやるよ」
「いいの?」
「俺たちからってことにすればいいだろ」
その台詞にナオが頬を赤らめた。恥ずかしがるように紙袋を持ち上げて口元を隠し、そのまま何度か頷く。ユキトはそれを、可愛いとは思わなかった。というより、昔から見慣れた仕草に安心する気持ちが大きい。長らく自分から離れていた何かが、漸く元に収まったような感覚だった。
「あーぁ、また朝からイチャイチャしてる」
穏やかな空気を、遠慮なく壊したのはツカサだった。ナオが来たのとは別方向、駐輪場に繋がる細い通路から姿を見せる。自転車か、あるいは原付で来たのかもしれない。涼しげな顔には殆ど汗が浮いていなかった。
手には何故か、大きなボストンバッグを提げている。ナイロン製の黒いもので、持ち手に猫のキーホルダーがぶら下がっていた。
「それ、れんこちゃんのですか?」
キーホルダーを見たナオが首を傾げた。ツカサは頷きながら、バッグを持った右手を少し持ち上げる。かなりの重量があるらしく、バッグの底が緩くアーチを作っていた。
「此処に来る途中で見かけたから、荷物を先に運んであげたんだよ。多分、すぐに来るんじゃないかな」
「本当ですか? 見えるかなぁ」
ナオは小走りに、自分が渡ってきた横断歩道の方へと向かう。ツカサは先ほどまでナオが立っていた場所まで移動すると、ボストンバッグを地面に置いた。
「照れちゃって可愛いねぇ。ユキト君もあれぐらいの可愛げがあればいいのに」
「見たいのか、俺の可愛げ」
「折角あんな可愛い彼女手に入れたんだから、遠慮なく惚気ればいいんだよ」
ユキトは「あのなぁ」と眉に皺を寄せる。
「お前に聞かせるのか、それ」
「知らぬ仲じゃないでしょ? 最近、ボドゲにも付き合ってくれないし、暇なんだよね」
「今度行くって言ってるだろ。というか寂しいならお前も恋人作れよ。俺より数倍簡単だろ」
「いやぁ、これがまた全然女っ気がないんだよね」
冗談めかしてツカサは言う。そんな表情も、整った顔立ちにはよく似合っていた。しかし、ふと口を閉ざすと、少しトーンを抑えた声を発する。
「父さんに聞いたんだ。神社のこと」
「何て言ってた?」
「辺見神社のことをずっと隠して守っていた理由は、「どうしたらいいかわからなかったから」だってさ」
「わからなかった?」
「掻い摘んで説明すれば、だけどね」
横断歩道の前で背伸びをしながら反対側を見ようとしているナオの、少し細い背中を見つめながら二人は話を続ける。
「祈願システム……「古きことわり」って父さんは言っていたけど、それを封印しようとしたのは確からしい。でも、自分たちの行動が正しいのか自信が持てなかった。だから、万一に備えて代々言い伝えを残したんだってさ」
「いつか必要になった時に、その行方がわかるように?」
「そういうこと」
「なるほどな。……気持ちはちょっとわかる」
「うん。自分たちの行動に絶対の自信を持てることなんて、珍しいと思うよ。まして、神様が作ったものに抗おうとしたんだ。不安にならないほうがおかしい」
結果として、それは正しかった。絹谷家が辺見神社のことを代々引き継がなければ、ナオとれんこは今でも祈願システムに拘束されていたかもしれない。恐らく過去にいた人々は、それがどんな結果を迎えるかなど知るよしもなかっただろう。だが、それで良いとユキトは思っていた。
人間は神にはなれない。だからといって無力ではない。
「あ、来た!」
ナオが少し飛び跳ねて、横断歩道の反対側へ手を振る。少ししてから横断歩道の信号が青に変わると、二つの影が段々と近づいてきた。横断歩道の中ほどまで渡ったところで、朝日がその姿を照らす。
片方はれんこ、そしてその右側には子猫を抱えたハルの姿があった。
「来てくれたの?」
ナオに気がついたれんこは、早朝だというのにしっかりと化粧をした顔を綻ばせた。これまで見てきた中でも、今日は一段と気合の入った化粧で、しかし足元は履き古したスニーカーだった。これからの行程に備えたものに違いない。群青区から猫柳町までは三時間以上かかることを、ユキトは以前に調べて知っていた。
「ごめんね、急な話で」
「全然だよー。れんこちゃんとは仲良くなれたから、ちょっと残念だったけど」
ナオはそう言うと、少し泣きそうな顔をした。この一ヶ月のことを思い出して、感情が込み上げてきたらしい。だが、鼻を少し鳴らしただけで涙を抑え込み、泣き出す代わりに大事に抱えていた紙袋を差し出した。
「これ、よかったら使って」
「いいの? ありがとう」
れんこは素直に紙袋を受け取り、中を見て声を出した。
「えー、可愛い。こんなの貰っちゃって悪いなぁ」
「ナオと、ユキちゃんから」
「大事に使うね。ユキトさんも、ありがとうございます」
頭を下げたれんこに、ユキトは頷いた。
「気にしないで使ってくれよ。そっちのほうがナオも助かるだろうし」
「はーい。何だか、すっかり彼氏面ですね」
れんこに揶揄われて、ユキトは急に気恥ずかしくなった。だが、それと悟られぬように視線を外すと、ハルの方へと話の矛先を変える。というよりも、その腕に抱えられた子猫の方へ。
「子猫は、そのバスケットにでも入れていくのか?」
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