8.記念樹

資料室を飛び出して、まずユキトが駆け寄ったのは階段近くにある窓だった。砂埃で茶色く汚れた窓から外を見る。すぐ下は駐車場となっていて、半分近くが埋まっている。今まさに車から降りたらしい若い男が、呆然とした表情で入口の方向を見ていた。

 階下からは子供の泣き声と、それをなだめる大人の声、更にそれを取り巻くざわめきが聞こえてくる。静かな図書館に、それはあまりに不釣り合いだった。


「下に行ってみよう」


 ツカサがユキトを促して、階段を先に下っていった。ユキトは少し遅れてそれについていく。時間を追うごとに階下のざわめきは、一層濃くなっていくかのようだった。

 階段を下り切ると、出入り口に人だかりが出来ていた。職員達が館内に戻そうとして声を張っているが、誰一人としてそれに耳を傾けることはなかった。唯一まともに聞く気がありそうなのは子連れの母親ぐらいだったが、自分の子供を泣き止ませるのにかかりきりで、他に気を回す余裕がない。


「ユキト君、あそこ」


 ツカサが肩を叩いて注意を引く。指差す先には手押しのワゴンがあった。木製のワゴンは可愛らしく彩色されていて、児童向けの本が並べられている。よく見るとその上には天井から吊るされたパネルがあり、「なつやすみのどくしょ」と平仮名で書かれていた。

 どうやら図書館で定期的に行うイベントの一種らしい。移動式のワゴンが本棚代わりに使われているのは、イベントの度に様々な場所から本を集めるためだろう。しかしツカサはそれ自体を示したのでなかった。


 ワゴンの向こう側には大きな窓があり、そこから外に出ることが出来そうだった。他の場所だと本棚が邪魔してしまうが、ワゴンであれば移動させるだけで済む。二人は周囲の目がないことを確認してから、素早くそこに移動した。

 ワゴンについたキャスターのロックを外して、窓の前から撤去する。窓はクレセント錠だけで施錠されていた。指先一つで鍵を開けて、窓を横に引く。一瞬だけ抵抗があったが、カラカラと乾いた音を立てて窓はあっさりと開いた。


「急いで」

「わかってるよ」


 胸ほどの高さにある窓の縁に手をかけ、腕の力で体を持ち上げる。力が抜ける前に右足を掛けて、そのまま窓を跨ぐようにして外に出た。途端に凝縮された夏の熱気が、顎を突き上げるように襲ってくる。

 だが、続けて図書館の入口の方を向いたユキトは、そこにあった光景を見て暑さのことを一瞬忘却した。


 巨大な物体が、道路と図書館の境界線を踏みつぶすように横たわっていた。

 むせ返るような土と青臭い匂いが辺りを満たしている。それが図書館の入口に立っていた木だと気付くのにユキトは数秒を要した。先ほどまで青々とした葉を揺らしていたイチョウの木は、それらを無残に道路にばら撒いて沈黙している。先ほどの振動は、倒木の衝撃によるもののようだった。木を囲っていた柵はバラバラに壊れていて、そこの上に無惨に折れた根元が白い木肌を覗かせている。


「うわ、見事に折れてるね」


 ユキトに続いて外に出てきたツカサが、その惨状を見て声を出した。

 他にも木を遠巻きにしている野次馬達が、似たような言葉を繰り返しているのが聞こえる。中にはスマートフォンで動画を撮っている者もいた。


「あれって、この図書館が出来た時の記念樹だよねぇ」

「そうだっけ?」

「樹齢五十年ぐらいだから、まだ老朽化はしないと思うんだけど」


 ツカサは首を傾げて倒れた木を見つめる。

 入口のすぐ横にあった木が倒れてしまったことで、中に入ろうとしていた車は歩道を跨ぐ形で停まっていた。幸いなことに、木は駐車場のアスファルトの上に接地して倒れていて、歩行者や車は巻き込まれていない。近くに停めてある複数台の車は、ボンネットの上に木屑や葉を乗せていたが、少なくともフロントガラスに損傷は無いように見えた。

 ユキトがそのことに安堵した時、ポケットの中でスマートフォンが震える感触があった。取り出してみると、着信を知らせる画面が表示されていて、「東間ナオ」の名前が浮かんでいる。ユキトは数メートルほどその場から離れてから、通話開始ボタンを押した。


『……ユキちゃん』


 その声をきいて、ユキトはナオが電話をしてくること自体初めてであったことを思い出す。


「どうした? 電話なんて珍しいな」

『どうしよう。……図書館の木が倒れちゃった』


 戸惑いを含んだ声と、その声が告げた内容にユキトは息を飲んだ。

 近くに誰もいないにも関わらず、口を手で覆うようにして声を潜める。


「今どこにいる?」

『図書館の近くのコンビニ。あのね、さっき……』

「すぐ行くから、そこで待ってろ」


 急いで通話を切り、ツカサのところへと引き返した。

 出来ることならツカサを関わらせたくはないと思っていたが、最早その選択肢は消え失せている。この状況を理解し、受け入れるために「理解者」がユキトには必要だった。


「近くにナオがいる」

「……ナオちゃんが?」


 ツカサは目を丸くした。


「これ、もしかして」

「それはまだわからないけど、無関係じゃなさそうだ」


 ユキトがなにを言いたいのか、ツカサは瞬時に判断して頷いた。


「いいよ。……一緒に行こう」


 野次馬の数は段々と増えていく。二人はそこから目を逸らすかのように、駐車場の奥にある小さな通用口に向かって走り出した。空は青く澄み渡り、人間達のことなど気にも止めず燦々と光を振り撒き続けていた。

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