5.調べ物の定番

 冷えた空気にカビの匂いが混じっていた。ユキトは一瞬眉を寄せたが、目の前を小さな子供が絵本を抱えて歩いていくのを見ると、なんとなく気恥ずかしくなって表情を戻す。

 夏の図書館は、人が多い割には静かだった。壁沿いに設置された端末で、子供向けの教育ビデオを見ている親子が何か喋っているが、言葉としては聞き取れないほどである。壁や棚には手作りらしいポップが貼られていて「夏休みの自由研究におすすめ」という文字と、油性マジックで描いたにしては上出来の向日葵が四方に愛想を振りまいていた。

 ユキトが中を見回している間に、ツカサは入って正面にある貸し出しカウンターの方へまっすぐ進んでいく。丁度人はおらず、職員が一人で何かの書類をチェックしているだけだった。


「すみません。群青区の歴史がわかるような資料ってありますか?」


 その声は囁くような音量だったが、静かな館内では他に妨げる音もなかった。眼鏡をかけた三十絡みの職員は、唐突な問いかけに対して動じることなく応対する。図書館の制服に身を包んで、いかにも真面目な風貌であったが、口紅だけは艶やかだった。


「どのようなものをお探しですか?」

「大学のレポートで、神社について調べていて」

「土地信仰をまとめたものは、二階の資料室にありますよ」


 職員は椅子から立ち上がると、優雅に右手を動かして奥にある階段を示した。


「中に目録もありますので、ご自由にどうぞ。コピーなどが必要な場合は、中にいる職員にお声掛けください」

「ありがとうございます。……二階だってさ」


 振り向いたツカサの言葉に、ユキトは肯くしか出来なかった。聞きたいことはあったが、ここで声を出すと自分の想像以上の声量が出てしまいそうだった。

 絵本を読む子供、それを見守る親、本と原稿用紙を前に悩んでいる小学生、勉強するための参考書をそっちのけにして漫画を読む中学生。様々な利用客と本の間をすり抜けて、階段の方に向かう。

 静かな建物に相応しく、階段には余計な装飾が一切なかった。唯一踊り場に貼られた「お静かに」のポスターだけが雄弁で、カーペットを敷かれた床は足音一つも許さなかった。

 階段を昇り切ったところで、漸くユキトは口を開く。そこは少し広いスペースとなっていて、奥の方に資料室や会議室の扉が並んでいた。


「図書館、よく来るのか?」

「高校の頃は自習しに来てたよ。どうして?」

「なんか手慣れてたから」

「ユキト君は図書館来たことないの? 小学生の頃とかに学習の一環で連れて行かれるよ」

「覚えてるような、覚えてないような……」


 実のところは全く覚えていないにも関わらず、ユキトは曖昧に誤魔化した。子供の頃の記憶は大体、給食の余りで学校の池に住むザリガニを釣り上げたとか、溝に嵌ったカエルを泥だらけになって助けたとか、そういうもので埋め尽くされている。勉強やそれに準ずる記憶は殆どない。

 中学生になって、子供の学力に危機を覚えた母親が学習塾に入れたので、そこの自習室はよく使っていた。図書館で自習という発想はユキトには存在しなかった。


「俺も、資料室に入るのは初めてだけどね。何があるんだろ」


 資料室の扉を開けると、階下よりも更に濃い匂いが鼻腔を貫いた。それから少し遅れて、冷房の風が襲い掛かる。大学の教室より少し狭いぐらいの空間に、大量の本やらスクラップブックやらが敷き詰められて、それが一様に照明の白い光を浴びていた。資料を守るためなのか、外からの光は遮断しているらしい。天井で寒々しく光る白い照明管も、資料の一部のように思えた。

 四方を本棚に囲まれて、どこか居心地悪そうに長机とパイプ椅子が中央に置かれていた。その更に奥には、より一層身を竦めるようにして灰色のデスクが設置されている。一人の職員が何か作業をしているのが見えるも、手前に積み上げられた紙束のせいでよくわからない。一瞬だけ二人を見たようにも思えたが、特に声を掛ける様子はなかった。


「結構多いな」

「でも半分ぐらいは新聞とか雑誌のマイクロフィルムみたいだね。書籍とか古い文献は、この近くにまとまってるみたいだよ」


 職員以外に人はいないようだったが、それでも最小限の言葉で話す。棚には手書きの仕切り板がいくつも挟まっていて、一応分類はされているようだった。だが、半分以上が市販の本の形になっていないため、傍目には乱雑に物が詰められているように見える。


「えーっと、この辺りかな」


 ツカサが、一つの本棚を見上げて指をさした。「土着信仰」と辛うじて読める仕切り板が棚から突き出している。数はあまり多くないようだが、背表紙もないので何を見ればいいのかわからない。

 悩むユキトの傍らで、ツカサは迷うことなくいくつかの書物をまとめて本棚から出した。机の上に置かれたそれらは、細かいホコリを宙に吐き出す。長いこと読まれた形跡は無かった。


「考えたって仕方ないよ。片っ端から見ていこう」

「本気かよ」

「悩む時間がもったいないでしょ? 面倒だけど他に手段を探しても手間は一緒だよ」


 ツカサは仕方なさそうな口ぶりながらも、どこか楽しそうだった。ボードゲーム作りのために昼夜ネタ探しをしているツカサにとっては、調べ物は何の苦でもない。一方、ユキトは渋々それに従う。逆らってみたところで、効率的な方法を思いつく自信はなかった。


「縁結神社のことが書いてあればいいんだよな?」

「うん。とりあえず関係ありそうなものだけ抜き出して、そこから詳しく調べよう」

「調べて何かわかるのか?」


 ユキトが問うと、相手は少し首を傾げる。視線は机の上の本に注がれたまま、両手も頁を捲るために動き続けていた。


「それはわからない。でも、巫女さんは多分ここまでは調べていないと思う」

「……少しでも相手より優位な立場になれるかも。そういうことか」

「察しがいいところは好きだよ。オブラートに包んでくれれば、もっと良いんだけど」


 褒めているのか貶しているのかわからないことを言いながら、ツカサは悪戯っぽく微笑んだ。


「段々、ゲームっぽくなってきたんだもの。折角なら相手に勝ちたいでしょ?」

「勝ったら何か手に入るのか?」

「いやぁ、それこそあれだよ。「神のみぞ知る」ってやつ」


 二人は顔を見合わせて笑う。職員が煩わしげに咳払いをする音が室内に響いた。

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