3.祈願の実験
まず最初に向かったのは、進んで右手にある
再び右手に持ち直して水を左手に受けると、それで口を濯ぐ。一瞬、衛生上の問題が気になったが、水と一緒にその思考も地面に捨てた。柄杓を縦にし、残った水で柄を清めてから元の位置へと戻す。
流れるような動作でそこまで終えたユキトだったが、奥へ進もうとした時に御神木の下にいるナオが見えた。途端に、脳裏に一つの疑問が生じる。実験することを承諾したはいいが、ユキトは何を願うべきか全く考えていなかった。
「願い事って何にすればいいんだ?」
奥へと進みながら、ユキトは少し声を張ってナオに尋ねた。システムを起動して、ディスプレイの表示を見つめていた少女は、少し眉を寄せて口を尖らせる。
「そんなの、自分で考えてよ。何でもいいから」
「何でもいい、が一番困るんだよ。世界征服とかでいいのか」
そう言うと、ナオはまるで哀れむような視線を返した。
「ユキちゃん……小学生じゃないんだから」
「冗談だよ」
現状、特に神に頼んでまで叶えたい願いというものがユキトには無かった。取るに足らない、願いというよりは欲望に近いものならある。一億円欲しいとか、後期の試験で赤点にならないようにとか、宗教学の教授がレポートの採点を甘くしてくれないかとか、その辺りのことである。
だが流石に、世界征服の後に一億円では格好が付かない。ナオからいよいよ馬鹿にされるのが目に見えている。残り二つにしたって、それをわざわざナオに知られたくは無い。一歳差ではあるが、年上として多少の見栄というものは存在する。
考え込んでいる間に、社の前まで来てしまった。賽銭箱に入れるお賽銭を財布から探す振りをしながら、願い事を考える。大学入学祝いで買ってもらった財布の中には、丁度五円玉が一枚あった。いつからあったかは覚えていない。最近はキャッシュレスで済ませることが多くなったが、現金で支払うことが全くない訳でも無かった。大学の友人の中には「現金なんて時代遅れ。小銭を持ち歩くなんてゾッとする」とまで言い切る者もいるが、ユキトはそこまで自信満々に生きることは出来ない。
「お賽銭ないなら、ナオの貸そうか?」
財布を弄っている時間が長すぎたのか、ナオが不審そうな声を投げかけた。ユキトはそちらに首だけで振り返る。
「出しにくいだけだよ」
「あるだけ全部でもいいよ」
「実験で有り金全部使わせるなよ」
ついにユキトは諦めて、五円玉を指で摘み上げた。
神社によっては賽銭箱のところに大きな鈴があるところもあるが、河津神社には無いため、そのまま賽銭箱に五円玉を投げ込んだ。コロコロと軽い音と共に五円玉が落ちていく。
お辞儀を二回。それから二回手を打ち鳴らし、お祈りをしてから最後に一礼。それぞれ意味があると看板には書かれていたが、ユキトはそこまでは知らない。知っていることは、二回の柏手の後に祈りをすることだけである。
二回お辞儀をしてなお、ユキトは願い事を決めていなかった。もう馬鹿にされるのを覚悟して、一億円のことを考えるしかないかと決意し掛けた時に、ふとある事を思いついた。
「……よし」
小さく呟いて、二回大きく手を打ち鳴らす。そして、出来たばかりの願い事を頭の中だけで唱えた。なるべく丁寧に、しかし深刻さなどは微塵もなく。
それが終わると、最後に再び頭を下げた。
時間にしてわずか数分のことだったが、ユキトには異様に長く感じられた。空の太陽は燦々と日差しを境内に降り注いでいて、二人のささやかな実験を見守っているようだった。
「終わったけど」
社を背にして振り返ると、ナオがディスプレイを凝視しているのが見えた。いくつかの画面が切り替わって、表示内容が動く。どうやらたった今、ユキトの願い事は登録されたようだった。
最後の一礼から数秒経っていることから、システムへの登録には多少のタイムラグがあるようだった。願い事を述べた人間のデータの収集や、その内容の精査を行っているためかもしれない。
御神木の下まで歩いてきたユキトは、ナオが真剣そのものの表情でディスプレイを確認しているのを、邪魔しないように口を閉ざした。この手の表情は大学でもよく見かける。学生課の気難しい事務員や図書館の司書がこういう顔をしている時には、話しかけないのが吉とされていた。
ナオは更新された願い事の一覧を引き寄せ、最新に追加された行をタップする。詳細が表示されると、一瞬安心したように眉間を緩めたが、すぐに表情そのものを変えた。怒っているような呆れているような、要するに憮然とした顔をユキトに向けて、小さく細く息を吐いた。
「この願い事は駄目」
「あ、やっぱり?」
「ぜーったいに、駄目!」
拒絶の意を全身で表すかのように、ナオはその場で何度か飛び跳ねた。地面の乾いた砂が散って、二人の靴を汚す。
表示されているディスプレイには、ユキトが願った内容がそのまま出力されていた。それをナオは指差して、頬を膨らませる。
「絶対、絶対、こんなの叶えないから!」
『ナオが約束を忘れますように』という願い事は、ユキトからすれば冗談半分であったが、本人からすると深刻な内容のようだった。どうやら叶えてくれそうにないのを悟ると、ユキトは苦笑いを一つ浮かべる。小さい頃の約束を頑なに大事にしているナオのことを、少しだけ、ほんの少しだけ可愛いと思った。
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