2.願うことは無し

「あの男の子、お願い事なんてしてないよ」


 ナオの言葉にユキトは目を丸くした。境内の裏手にある崖の上に、夏の日を浴びながらシステムが動いている。その中心に立ったナオは、願い事の一覧を手元に引き寄せた。


「手順が間違ってるってことか?」


 神社の入り口に書かれている手順を踏まないと、願い事はシステムに登録されない。そのことを覚えていたユキトはそう言ったが、相手は首を左右に振った。束ねた長い黒髪がゆったりとそれに合わせて動く。


「手順は正しいよ。でも願い事してないの。結構頻繁に来るから覚えてるんだけど、多分一度も願い事なんてしたことないんじゃないかな」

「あり得るのか?」

「あり得るでしょ。参拝って別に神様にお願い事するためのものじゃないもん」

「……そうかもしれないけど、珍しくないか? 此処まで来て、ただ柏手打って帰っていくってことだろ」


 ナオの言った通り、願い事をしなければいけないという決まりはない。だが、ユキトにはどうにも納得出来なかった。余程の達観した、あるいは神仏に対して真剣な人間でもない限り、お参りをしたら願い事をするのが普通に思える。七夕飾りに短冊を吊り下げたり、靴下の中にサンタへの手紙を入れたりするように、欲深さとは少し違う、一種の習慣めいたものである。


「じゃあ何考えてお参りしてるんだ?」

「さぁ。だって願い事として登録されないんだもん」


 わからないよ、とナオは肩を竦めた。そのあっさりとした態度は、幼い頃の約束を持ち出して笑って見せた時とは違い、まるでユキトのことを異性とも思っていないようだった。

 ユキトとしてはそちらのほうが有難いが、だからと言ってあの時の記憶が消えるわけでもない。


「それより、ちょっと実験したいことがあるから手伝ってよ。そのために呼んだんだもん」

「実験?」

「そう、実験」


 何故かナオは得意気な表情で言った。


「お願い事がどの段階でシステムに登録されるか調べたいの。でも此処でずっと監視して参拝客を見張るなんて出来ないし、まさか「貴方はこのお願い事をどのタイミングでしましたか」なんて聞けるわけないでしょ」

「下手すりゃ事案だな」

「女の子は事案にならないんですー」


 ナオは口を尖らせながら言った。そんな法律は存在しないが、それをユキトが指摘したところで意味はなさそうだった。


「でね、ユキちゃんにお願い事してもらって、それをナオが少し離れた場所で見ていれば、どのタイミングでシステムに登録されるかわかるかなって」

「離れた場所?」

「真横にいたら、やりにくいでしょ」


 ユキトは小さく一度頷いた。頷いた後で、相手が自分が断ることなど微塵も考えていないことに気が付いたが、もう遅かった。一度システムを終了させたナオは、嬉しそうに口角を上げながらユキトの体を両手で軽く押した。


「じゃあ、レッツゴー」

「今やるのかよ」

「人が少ない時の方がいいの。ほら、早く早く」


 急き立てられて、崖から離れて境内の方に出る。人のいない神社に蝉の声が鈍く染みていた。あと一週間もすれば煩いほどの鳴き声に包まれるであろうことを予想しながら、鳥居の方へ進む。

 途中の神木の下で、ナオが足を止めた。鳥居から社までの丁度中間の場所で、「実験」の観察には都合が良さそうだった。朝日が差し込んでいることで、都合よく木陰も出来ている。


「ナオは此処で見てるから、ユキちゃん頑張ってね」

「はいはい」


 軽い返事で、ユキトは更に先に歩を進めた。お参りの手順はよく知っている。小さい頃に祖父と一緒に何度もお参りをした。願い事はその時々によって違ったが、九割ぐらいは新しい玩具のことで、残りの一割がハンバーグのことだった気がする。

 頭の中に目玉焼きハンバーグの映像がチラつく。母親が自慢とする一品は、今思うとケチャップソースがくどいだけの代物だったが、幼い子供には何よりのご馳走だった。今はもう食べられないのが残念だが、仕方がない。母親の料理の腕が上がるのは好ましいことである。昨日食べた自家製ローストビーフも美味しかった。


 そんな取り止めのない思考は、鳥居の下に到達すると同時に停止した。左側を見ると、参拝の手順が書かれた看板がある。金属製の白い板に黒い筆で文字が書き連ねてあり、下にはそれぞれの手順に対応した敷地内の見取り図も描かれている。ユキトは一応確認したが、記憶の中にあるものと同じだった。


「ナオ」


 看板から視線を外したユキトは、木陰にいる少女に向かって声を出した。


「もう始めていいのか?」

「いいよー」


 ナオが右手を宙でスライドさせて、システムを起動させるのが見えた。それを確認してから、ユキトは一度鳥居の外に出る。まだ日差しが差し込んでいないため、夜の冷えた空気が残っていた。

 鳥居の前で姿勢を正し、まずは一礼する。中に一歩踏み出すと、先ほどよりも張り詰めたものを感じた。それがシステムの影響なのか、自分の錯覚なのか、ユキトには判別が付かなかった。

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