第二幕:縁結神社の渡り巫女

1.夏の早朝

 今日も暑くなると予感させる朝日だった。人通りのない道に迫り出した草木は、その瑞々しい姿を通行人にアピールするかのように力強く、その下で干からびているミミズと対称的に生命力に満ちている。

 擦り切れた白い線を踏みしめるようにして歩きながら、ユキトは何度目かの溜息をついた。胸の奥に淀んだ感情を吐き出すような仕草は、しかし遂に一度とてその望みを果たせそうにない。


「幼稚園の約束なんか覚えてるなよ……」


 思わず呟いたのは、昨日のナオの言葉に対する愚痴だった。

 非常に素直に客観的に事実だけ述べるなら、幼稚園のユリ組にいた五歳のユキトは、モモ組にいた四歳のナオが好きだった。これは事実である。しかしそれはあくまでも、子供としての好意である。あの頃覚えた「好意」を示す言葉の最上級が「結婚」だっただけで、恋愛感情とは全く異なるものだった。

 多分同じぐらい好きな存在はテレビの中にもいたし、近所にもいた。庭の犬小屋の中にもカレー鍋の中にもいたと思う。それぐらい子供にとっての「大好き」は多岐に及び、そしてどれも無責任なものである。


 では、ナオが嫌いかと言うと、それについてはユキトは口を閉ざすしかない。二極論で言えば好きであるが、それが恋愛感情なのかどうかは不明である。ナオが成長して綺麗になったことは認める。小さい頃のように自分に対して無邪気に好意を向けていることもわかる。ではそれをどうすべきか。ユキトには全くわからなかった。

 わからないからこそ、昨日の帰り際の約束を律儀に守り、慣れない早起きをして此処に至る。少なくともそうすることで、ユキトは目下の問題から目を逸らしていた。


「眠い……」


 欠伸混じりにぼやきながら、河津神社に続く石段に足を掛ける。アスファルトから側溝を隔てただけなのに、急に空気が静かになった気がした。そのまま、二歩、三歩と昇っていく。石段の左右に並ぶ木々の奥から、鳥か何かが葉を揺らす音が聞こえた。

 階段は、記憶が確かなら四十九段である。子供の頃は「丑三つ時には五十段になり、それを踏んだ人間は死ぬ」という怪談を聞いて本気で怖がったりもしたものだが、そもそもあの頃は丑三つ時が何かもわかっていなかった。

 半分ほど昇ったあたりで、ユキトは誰かが降りてくるのに気がついた。最初はナオかと思ったが、シルエットですぐに違うとわかる。ナオにしては少し背が高く、髪も短かった。階段を一歩ずつ踏みしめるように降りてくる姿は、それしかやることがないようにも見えた。長い階段を下りることに飽きたので、どうにか暇つぶしをしている。そんな雰囲気だった。

 距離が縮まってくると、相手が存外若いことに気がついた。短い黒髪は柔らかに四方に跳ねて、黒縁眼鏡は左右の高さが微妙に揃っていない。それもそのはずで、右目に眼帯をしているためだった。

 背は平均身長程度はあるが、顔つきを見れば成人していないことは明らかだった。眼鏡やら眼帯やらのせいでわかりにくいが、恐らくはナオより年下である。着ている半袖のカットソーには、三毛猫が銃を構えた派手なロゴマークが描かれていた。


「おはようございます」


 意外なことに声を掛けてきたのは相手のほうだった。その風貌から無言で通り過ぎると思っていたユキトは、少し言葉に詰まってから挨拶を返す。相手にとっては予想の範囲内だったのか、笑みが一つ顔に浮かんだ。


「お兄さん、参拝客?」


 声質はやはり、見た目同様に若かった。二次性徴を迎えたのは、ここ数年のことだろう。声変わりはしているが、言葉の端端に幼い響きがある。


「いや、神社に用事があって。君は?」

「なんだ、オレ以外にも朝お参りする人がいるのかと思ったのに」

「いたらどうするんだ?」

「別に。こういうところで人に会ったら挨拶しなさいって、お婆ちゃんが言うからしただけだよ」


 婆ちゃん子らしい少年はそう言うと、また歩き出した。もう挨拶は終わったということらしい。ユキトが良い年した大人であれば、そんな態度に腹の一つでも立てたかも知れないが、十九歳ではそんな感情が湧くわけもない。寧ろ、話が続かなくて幸いだとばかりに少年から視線を外した。


 しかし、早朝にお参りをする若者というのは非常に珍しいようにユキトには思えた。武道か何かを嗜んでいる者なら、あるいはあり得るかもしれない。だが今の少年は明らかにインドア派だった。生白い細い腕がそれを証明している。

 一体何を神様に願ったのか、ユキトは好奇心が湧くのを抑えることが出来なかった。普通なら他人の願い事を知ることなど出来ないが、今の自分ならそれが出来る。

 ナオに頼んで、今の少年の願い事を見せてもらおう。ユキトはそう考えて、自分の野次馬根性に自嘲した。

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