ベースボール・バニー

宇佐美真里

ベースボール・バニー

シーズン最終戦。

試合開始前のイベントが終わり、俺は先発投手リッキーにボールを手渡す。

「今日も頼むぞ!」

いつもの様に、彼の背中を俺はポンと軽く叩いてマウンドを降りた。


俺は大リーグ、ナショナル・リーグ東地区の名門チーム『ニューヨーク・ラビッツ』のチームマスコット。ピンクのウサギ…『ビッキー』さ。いや、おかしなことを言っていると笑わないでくれよ。"ビッキー"の着ぐるみを着ている、ただの男さ。もう長い間、ビッキーで居ることを生業としている。選手として使い物にならなくなった俺を、其のまま球団は置いてくれた。対して、俺がボールを手渡したリッキー、此の男は俺と大違いさ。球団の…いや、球界のスターだな…。


リチャード・ドナルドソン。背番号『51』。俺と同じく今年四十の歳を数える男。ニューヨーク・ラビッツのエースさ。

二十二歳の時、ドラフト全体一位でシアトル・サンダースに指名されるも、其の年ラビッツを引退したアーロン・スタントンの代わりとなる投手陣強化の為、サンダーズの投手デレク・リベラと共に、二年目にして移籍。其の電撃トレードは全米を騒がせた。其も其も東海岸出身だったリッキーは、遠く離れた西海岸のシアトルよりも水が身体に合っていたんだろうな…。当初の予想を遥かに上回る活躍をラビッツで見せ、三シーズン目には二十四勝を、四シーズン目には二十勝十八完投。翌五シーズン目には二十二勝十六完投を記録した。特に大きな怪我・故障にも見舞われることもなく、十五年目のシーズン、三十七歳にして、現時点では最後となる完投をしている。其の年には二十勝をも記録したよ!凄いだろう?通算成績では、最多勝利投手過去三回、最優秀投手賞受賞過去六回は歴代二位。輝かしい記録に満ちた、歴史に名を遺す大投手さ。

此処数年は流石に歳のこともあって、投球イニング数は七回が最長。平均六.三回で降板しては居る。だけれども…、十八年目の今シーズン、此れ迄の戦績は六勝七敗と負け越して居るとは云え、四十と云う歳を考えると其れでも、なかなかの成績だろう?


俺はどうかって?そうだな…。リッキーがラビッツに移籍した同じ年、俺もラビッツのユニフォームに袖を通すことになった訳さ。背番号は『16』。リッキーとは違って、華々しくニュースで騒がれることもなく、新聞のスポーツ欄の片隅に他のドラフト選手達と同様、写真すら載ることもなく名前だけが記されてたよ。俺のポジションは何処かって?俺もリッキーと同じく投手さ。スターターであるリッキーに対し、俺はクローザーだった。俺は十年の現役生活を、肩の故障で終えた。其れ迄、俺はマウンドで「後を頼む…」と、何度リッキーからボールを受け渡されただろうか。大した成績を残すことは出来なかったけれど、不思議とリッキーからボールを受け渡された試合では、俺は必ず調子が良く、彼の勝ち星に泥を塗ることは一度としてなかったんだ。其れくらいかな…自慢出来ることと言ったら。ハハハ…。引退後は自宅のリビングでビールでも飲みながら、彼のピッチングを観るのだろう…と思っていたけれど、やはり彼の居るチームからは離れ難かった。何とか球団に留まる方法は無いものかと頼み込んだ末が、"着ぐるみのビッキー"だったと云う訳さ。勿論、周りからは「プライドはないのかよ?」「着ぐるみだぞ?よく考えろ」等と散々言われたさ。だが、俺には…俺だけが感じることが出来る小さな喜びがあった…。其れで充分だったんだ。


先発投手のリッキーへとチームマスコット・ビッキーから試合開始のボールを手渡す…。其れはほんの小さなイベントに過ぎなかったけれど、其れ迄彼から「後を頼む…」と、信頼と共にボールをずっと受け取り続けて来た俺が、今度は「今日も頼むぞ!」とボールを彼に手渡す、此れ迄とは逆のイベントが、引退してからの此の八年間、ずっと俺の小さな喜びだった。


其れも今日で終わりって訳さ。今日はシーズン最終戦。地区チャンピオンを逃したラビッツにとって今シーズン最後の試合。其して其れは、リッキー…リチャード・ドナルドソンに取っても、最後の試合になる。引退試合だ。


相手はボストン・レッドフォックス。伝統の一戦だ。引退試合が伝統の一戦。リッキーの様な大スターにとって其れは、うってつけの舞台だろう?ラビッツの本拠地ブロンクスでの一戦とは云え、観客の比率はラビッツ、レッドフォックス共に五分五分。割れる様な喚声の中、ホームプレート・アンパイヤの「プレイボールッ!」と云う叫び声が、大歓声に負けじと響き渡る。左バッターボックスに立つレッドフォックスの先頭打者レイ・パトリックに向けて、リッキーは俺の手渡したボールを握り締め、ワインドアップポジションに入った…。


***


九回表。三対零。レッドフォックスの攻撃も此の回で終了。ラビッツの勝利目前に、ボールパーク全体が湧き上がっていた。

え?いきなり最終回になるのかって?そうさ…。此れは野球の物語ではない。いや、野球の話であって野球の話ではない…。俺とリチャード・ドナルドソン、二人の物語。経過が知りたければ、明日の新聞を読むといいさ。いや、意地悪せずに、概要だけは話しておこうか…。


ラビッツの三点は、四回裏の攻撃での連続タイムリーヒットによる一点、七回裏にはレッドフォックスのリリーフ投手マーク・スワンソンの乱調によって、死球受けたクリス・ホッチェバーが二塁へと盗塁し、四番打者パット・ヤングにツーラン・ホームランが出たことで二点追加された…と云う訳さ。

八回表までのリッキーの投球も申し分なかった。一イニング当りの平均投球数は十三球。所謂、打たせる投球で此処まで来た。球速は全盛期に比べたら、当然のことながら落ち込んではいるものの、制球力は流石だ。速球で三振を取るタイプだった若い頃とは違い、少ない球数で相手を打ち取るタイプに変わってから、其の制球力にも磨きが掛かっていた。"引退試合"と気合いが入っていることも、好調要因の一つに当然挙げられただろうな。


勝利投手となる為には、最低五イニングのピッチングが必要だ。五回表を終了した時点で、バッキー・ショーウォルター監督はリッキーの引退を勝利投手で飾る為、彼にリリーフを持ち掛けた。だが、其れ迄に三振を三つと、一塁ベースを踏ませることこそ許したものの、レッドフォックスの打者に二塁を踏ませることは許して居なかった彼のピッチングが、全てを物語っていた。

リッキーは当然首を縦に振らず、「二塁を踏まれる様なことになったら、即交代する」と気迫を見せた。ショーウォルターも納得するしかないだろう?実際、六回以降も更に三振を各回一つずつ三つ、合計六個もの三振を奪っている。

ざっとではあるけれど試合経過は以上さ。ご満足して頂けたかな?


とにかく試合は九回の表、ツーアウト、ランナー無し。

レッドフォックスの攻撃は、先頭打者レイ・パトリック。第一打席はリッキーに三振を喰らい、第二打席・第三打席には其れ其れ凡打…と辛酸を舐めさせられている。

果たして試合はレイ・パトリックに始まり、レイ・パトリックで終わることになるのか?気になるだろう?俺もドキドキだったさ。


第一球、左打者のレイに対し、外角低めにボール。

第二球、内角高めへのストレートを振り急ぎライト方向へのファール。

一瞬、ラビッツファンを冷やっとさせたが、速度を落として投げられたストレートにレイは振り急ぎ、引っ掛かった打球は大きく右方向に切れた…。

第三球、外角低めにストライク。レイはバットを振らず見逃した。

第四球、再びボールは外角へ。僅かに振り遅れたレイのバットにチップして、打球はバックネットを直撃した。捕手のトム・ハントが主審からボールを受け取り、リッキーへと放りながら「力を抜け」と肩を上下に揺すってジェスチャーする。ボールをキャッチするとリッキーはバックボードへと振り返り、グローブを左脇に挟むと、両手でボールをしっかりと拭いながらスコアボードに並ぶ数字を見つめた。零が八個並ぶレッドフォックスのスコア。カウントを示す個所にはワンボール・ツーストライクとの表示。

あと一つ、ストライクを奪うことが出来れば、リッキーの野球人生は終了する。しかも、『完封』という"おまけ"がついて。

スコアボードを眺めたまま、リッキーは大きく一つ深呼吸をし、ゆっくりと最後のアウトカウントを獲る為に、バッターボックスのレイへと振り返った。モーションに入る。マウンド上でリッキーの左足が挙がる。大きく右腕が後ろに反る。其して球は放たれた!


バッターボックスのレイの右足が踏み込まれる。繰り出されるバット。


カーン!


甲高く木製バットが音を立てた。レイの打った打球は、ピッチャーマウンドのすぐ右脇を鋭く飛んでいく。だが飛んで行った先は、ラビッツのショートを守るランディ・スチュワートの真正面だった。ランディは鋭く転がる打球を落ち着いて、かつ軽やかに処理し、すぐさま一塁手トム・ウィルキンスへと送球。トムはしっかりとキャッチした。


「アウトーーーッ!!」

ファーストベース・アンパイヤが派手なアクションと共に叫ぶ。

ゲームセット。マウンドでガッツポーズをするリッキー。マウンドへと駆け寄る捕手のトム。ラビッツのチームメイトたちが、一斉にフィールド中から、其してベンチからもマウンドの上のリッキー目掛けて駆け寄る。一塁手トム・ウィルキンスからリッキーへと、ウイニングボールが渡された。

俺もベンチ前で、観客に大きく手を振りながら小躍りしたさ。其れがビッキーの…俺の仕事だからな…。


***


当然、其の日のヒーロー・インタヴュアーはリッキーだ。

完投、其して完封で引退試合を飾った四十歳の投手がタオルを肩に掛け、ベンチからインタヴュー台へと歩いて行く。ウイニングボールを持つ手を高く掲げ、ボールパーク中のファンの喚声に答える。其の後ろ姿に俺は目を丸くした。観客たちも、其の喚声をざわめきへと変えた…。

自分へと向かって歩いて来るリッキーを笑顔で待つインタヴュアーが、ボールパークのざわめきに、何事かとキョロキョロと辺りを見渡した。

インタヴュー台へと到着するリッキー。台上へと促すインタヴュアーに応じ、向きを変えるリッキー。其処で初めてインタヴュアーもパーク中のどよめきの原因に気が付いた。


「本日の勝利投手、リッキーにお話を伺います。リッキー、おめでとう。其してお疲れさまでした。此れで引退となるわけですが、今のお気持ちをお願いします」

「やり尽くしました。ファンの皆さん、其してチームの皆に深く感謝しています」

淡々と答えるリッキーに、インタヴュアーが訊いた。


「やりましたね…。引退試合を完投・完封で締めくくるとは流石です…。ところで…」

インタヴュアーが話すのを、リッキーは遮って言った。


「今日、此の場で皆さんに感謝の言葉を述べさせて頂くのと同時に、或る人物を此処に呼んでも構わないでしょうか?」

「も、勿論。で、何方をお呼びに?」


「ビッキーを此処に」

リッキー・ドナルドソンはヒーロー・インタヴューに俺を呼んだ。

「ビッキーは常に僕を奮い立たせ続けてくれました!」

其う…。パーク中をざわつかせた、引退する偉大な大投手の背中には、自身の『51』ではなく、俺が現役時代に着けていた背番号『16』番が描かれていたからだ………。


チームメイトに背中を押され、訳も分からぬままインタヴュー台へと俺は向かう。


インタヴュー台へと辿り着いた俺に、大投手は言った。

「此のウイニングボール…、受け取ってくれないか?」


「其んな物、受け取れないさ。其うする理由がない…」

俺は茫然となりながら、やっとのことで答えた。

「いや、受け取って欲しい…。理由ならしっかりとあるじゃないか?僕の勝利はいつだって君のお蔭だったんだから…。君の現役中、君にボールを渡してマウンドを降りることで、僕はいつも勝利を確信出来た。引退後の君は、引き続きビッキーとして毎回僕に、オープニングボールを手渡してくれた。ボールを受け取る時に、毎試合どれだけ僕は勇気づけられていたことか…。此処迄やって来れたのは君のお蔭でもあるんだ。だから、此のウイニングボールは是非、君に受け取って貰いたい。常に君と共に在った現役時代さ…。ありがとう。感謝しているよ」

俺は状況をよく飲み込めないままに、ただ「こちらこそ…」と、偉大な勝利投手からウイニングボールを受け取った。

大歓声が俺を飲み込む…。其の後のことはよく覚えていない…。


***


翌日の新聞を開くと、ニューヨーク・ラビッツのマスコットキャラクター…ビッキーが、引退試合を完封勝利で飾った大投手と並んで肩を組む写真が、大きく載せられていた。

写真の中の俺の手には、汗と泥で少し汚れたウイニングボールが、しっかりと握られていた。


***


大投手の後を追って、其のシーズンを最後に俺もビッキーを引退した。

其れは、俺にとって二度目の引退だった…。


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■登場人物(登場順)

ビッキー…ニューヨーク・ラビッツのチームマスコット。私。

リチャード・ドナルドソン…ニューヨーク・ラビッツの現エース

アーロン・スタントン…ラビッツの元エース

デレク・リベラ…リッキーと共にシアトル・サンダースからラビッツへ移籍

レイ・パトリック…ボストン・レッドフォックスの先頭打者

マーク・スワンソン…レッドフォックスのリリーフ投手

クリス・ホッチェバー…ラビッツの選手

パット・ヤング…ラビッツの選手

バッキー・ショーウォルター…ラビッツの監督

トム・ハント…ラビッツでリッキーとバッテリーを組む捕手

ランディ・スチュワート…ラビッツの遊撃手

トム・ウィルキンス…ラビッツの一塁手


■此のストーリーは当然フィクションであり、2020年現在、米大リーグ(MLB)に於いて一試合を独りで投げ抜く完投投手と云うものは殆どありえなくなってきてしまっている。MLBは2014年に医師など専門家の意見も取り入れたガイドライン『ピッチスマート』を発表。年齢毎に1日の球数の上限、其の球数に拠って必要な休養日を細かく定めた。現在MLBの主流は5人の先発投手を100球以内で6回到達が目標として降板させ、中4日の日程でローテーションする。また其のため先発・中継ぎ・抑えと分業化が日本以上に定着している。

因みに1995年の完投数は275。内完封数は88。それが2019年シーズンでは僅か45完投、26完封とまで減少している。正に完投投手と云うのは絶滅危惧種と言える。将来、『先発完投』と云う言葉は記憶だけの"死語"になるのかもしれない…。



-了-

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