猫のとおり道

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猫のとおり道

 暖かい光の通る教室で、僕は彼女の横顔を見ながら手元にカメラが無いことを悔やんでいる。

 いや、例えカメラがあってもきっと撮ることは出来ないのだろう。見ず知らずの人を勝手に撮ってはいけないし、許可を取るために声を掛けてしまえばこの表情は失われる。

 僕の写真をまっすぐに見る彼女の横顔を覚えていられるのは、僕の頭だけなのだ。

 放課後の空き教室を展示場所にして、新入生のためにちょっとした写真展を開いていた。麻のヒモを画鋲で壁に留め、引っ掛けるようにしてクリップで写真を挟み撮影者ごとに並べて展示している。部費がもう少しあれば額にも入れれるのだが、贅沢なことは言ってられない。そもそも部活としての最低人数五人を割っているにも関わらず、教頭先生の計らいで部活が存続していることに感謝しなければ。

「あの」

 彼女が振り向いて、受付にいた僕に声を掛ける。

 まだシワも型崩れもないブレザーを着て、襟もとには学校指定のえんじ色のリボンが結ばれている。濃紺にチェックの地模様のあるスカートは膝が隠れるほどの長さで、同学年の女子の膝上スカートを見慣れている僕にとって初々しくみえた。

「どうしましたか?」

「これを撮ったのって……?」

「僕です」

「写真について聞きたいんですけど」

 彼女は一枚の写真を指差した。

「学校の近くにこんな幻想的な場所があるんですか?」

 それは『猫のとおり道』という題を付けている写真だった。写真は猫が写っている訳ではない。雑草やシダ、苔などの緑が繁茂していて、奥へと続く通路になっている場所の写真だ。丁度猫が通れる程の細い道で、実際茶トラの猫が走っていったところも見たことがあった。我ながら気に入っている写真だ。

 題名の下には、使用した機器と場所を併記していて、『撮影場所:通学路』とだけ書いていた。

 僕は立ち上がり、彼女の隣に立つ。

「学校に来るときは、電車? それとも自転車?」

「電車です」

「それなら毎日この場所の前を通ってると思うよ。けど気付かなければきっと素通りしてしまう。民家と民家の隙間のおそらく誰の土地でも無い場所で、人の手も入らないから草木が勝手気ままに育ってる」

「こんな素敵な場所があるんだ……」

 呟いて、彼女はまた写真に視線を注いだ。

 廊下から騒がしい声が近付いて、教室の扉が勢いよく開いた。

「おっつかれー!」

「いらっしゃい、ゆっくりしていってね」

 入ってきたのは男女二人の先輩だった。先輩たちは同じクラスなので、いつも一緒に来ることが多い。写真部はこの三年生の小阪先輩、井田谷先輩と、二年生の僕高梁の三人で全員が揃ったことになる。

「お、新入生ちゃんだね? 何話してたの?」

「『猫のとおり道』の話をしてました」

「この写真いいよね。私も好き」

「お二人の写真もあるんですよね? 撮影してる人で、結構写真って変わるんですね」

 三人のスペースは、それぞれでガラリと雰囲気が違う。撮影者を確かめなくても、判別できるほどだった。

「うちら三人は、雰囲気も撮りたいものも違うからね。私はポートレートをメインで撮るし、高梁は風景、井田谷は花」

「この方は、先輩のお友達ですか?」

 小阪先輩のポトレに登場するのは決まっていつも同じ人で、違う高校の制服姿の女の子が写っている。

「幼馴染でね、たまに撮らせてくれるの」

「仲良いんですね」

「なんで分かるの?」

 彼女は近くの川べりで撮った写真を指差した。

「分かりやすいのはこの写真ですかね。ふて腐れてた顔をしているのに、ちょっと甘えた雰囲気があって、視線の先の小阪先輩に心を許しているのが分かる。先輩だから、この表情してるんでしょうね。なんだか二人の関係を覗き見しているみたいでくすぐったい感じもします」

 半ば確信を持った様子で彼女が言い、「合ってますか?」と首を小さく傾げた。小阪先輩は驚いたように目を瞬かせる。

「幼馴染でね、幼稚園のときからの付き合いの子なんだ。よくそこまで読み取れたね」

「はい、読解力はある方かと。国語とか得意です!」

 無邪気に小さくガッツポーズをする。写真一枚でここまで読み取ってしまうのか。それはある種の才能にも思える。

「じゃあ俺のはー?」

 一歩後ろで聞いていた井田谷先輩が、ゆるりと尋ねた。先輩の写真は、ほとんどがマクロレンズで撮った花の写真だった。

「妖艶な写真……です」

「それでそれでー?」

「色っぽいですよね……。グラビアか何かを見ているような美しさがあって」

「そうそう、花ってエロいんだよねー」

「……エロい写真です!」

 先輩の言葉を聞いて、言葉を慎重に選んでいた彼女が思いきって言う。井田谷先輩の写真は、人の裸を撮っているわけでもないのにいつもなぜかエロいのだ。

「どう考えてもいかがわしい目で見ている写真ですよこれは……。生々しさがある。だからこそ、この花が力強く生きていることも感じさせる写真だとも思います」

「言いたいこと言ってくれるんだね。嬉しい」

 によによと目を細めて井田谷先輩は嬉しそうに笑った。畳み掛けるように僕は言う。

「変態ほど写真が上手いってたまに言いますけど、井田谷先輩は完全に体現してますもんね」

「そんなに褒めるなよー。食堂のプリンを奢りたくなっちゃうだろ?」

「めちゃくちゃ褒めますとも!」

 その才能に、尊敬と畏怖を籠めて。

「井田谷の撮る写真って、ほんといいのよね。私じゃこうは撮れない」

 同じように思っている小阪先輩が、少し悔しそうに言った。

「好きなことを語れる部活ってなんだかいいですね。お互いがお互いを認め合っているところも、いいなって思います」

 撮りたいものも、表現したいものも、僕たちは全く違う。それは食べ物に好き嫌いがあるように、スタイルが違うだけであって否定することは無い。『認め合っている』という言葉は仰々しくてどこか気恥ずかしいけれど、僕たちの関係を表すための言葉としては丁度いいだろう。

「あの……」と彼女が僕のことを真っ直ぐ見た。

「写真のこと全く知らなくても大丈夫ですか?」

 その台詞の意味することに僕の胸は沸き立った。何せ今は新入生の体験入部期間なのだ。

「もちろん大丈夫! シャッターを押せば撮れるんだから難しいことはないよ。難しいけど」

「どっちなんです……?」

「撮ってみたら分かるかも」

「カメラは買わないといけないですよね?」

「機材のことについては今のところは考えなくてもいいよ。教頭先生がカメラ好きで、古いフィルムカメラでよければある。暗室で現像も出来るし。言えば一眼レフも貸してくれる」

「写真部、入りたいです」

 その言葉に、僕たち三人と目を合わせる。

「新入部員だー!!」

「下手に勧誘するのもよくないと思ってうずうずしてたんだよー!」

 小阪先輩はそう言って、優しい笑みを彼女に向ける。

「写真部にようこそ」

「足立瑞季です。よろしくお願いします!」

 こうして四人目の部員が入部したのだった。





「おつかれさまです!」

 新入生の快活な声が部室に響き渡る。入部届けを出した彼女は、今日が始めての部活の日だった。

「いらっしゃーい。こっちおいでよ」

 小阪先輩が足立さんを手招きした。先輩はノートパソコンで写真の整理をしていて、僕はその作業を背後から眺めている。井田谷先輩は机で黙々とカメラの手入れをしていた。

「うちは見ての通りゆるい部活でさ、コンテスト前でもない限りは自由にやってるんだよね」

 部室では、普段は各自が思い思いのことをしていることが多い。どこか遠出をしたり大がかりな撮影をするときは、一緒に行動している。

 足立さんは先輩がスクロールする画像を見ながら訊ねた。

「写真を撮るとき、何を考えて撮ってるんですか?」

「色々考えてるよ」

 先輩は背もたれに身体を預けて彼女と視線を合わせる。

「私にとって、写真はその一瞬を切り取るためのもの。学生の時間は長いようで短くて、同じ人でも今日と明日では全然違ったりする。どれもかけがえの無い尊いものだから、残しておきたい」

 だから撮ってるの、と先輩は続けた。

「井田谷は?」

「切り取ることで、いつも以上に見えることがある。良いところを引き出して、撮ってやりたい……かな?」

 少し考えて、「いや」と訂正する。

「撮ってやりたいじゃなくて、撮らせていただきたい」

「井田谷はぶれないわ」

 思わず小阪先輩が苦笑した。

「なるほど……。やっぱりカメラって難しいものなのでは……?」

「まずは撮ってみたらいいと思うよ。早速撮りに行こうか」

 彼女に僕のカメラを手渡した。中のメモリーカードは部で共有しているものに変えてある。

「あれこれ説明するより実地の方が分かりやすい思うし。初めは撮ったものがすぐ見れた方がいいと思うから、今日は僕のカメラと交換ね」

 代わりに今日は僕がフィルムカメラを首から下げる。

「『猫のとおり道』の場所も教えるよ」

 そうして僕たちは、撮影へと繰り出した。





 校内で運動部がランニングをしているところを、横切っていく。

「高梁先輩は何を考えて撮ってるんですか?」

 僕はさっきの話題に敢えて入らなかった。聞かれて返事に困ったけれど、正直に言うことにした。

「僕は先輩ほどは考えてないんだよね。いいなーって思ったものを撮ってる」

「なんだか分かりやすいですね」

「自分の気持ちが、そのまま写真に写ったりするものだからさ。そこは大事にしようと思って」

 ランニングをしていたバレー部の子が、僕たちの姿を認めると列を外れてこちらへとやってきた。

「足立、早速カメラ持ってるじゃん!」

 その子は足立さんの友達らしく、しげしげとカメラを観察していた。

「今日は先輩のカメラ借りたんだ」

「撮ってー」

 その声に、足立さんは戸惑ったようにこちらを見た。私的に撮ってもいいのだろうかと聞きたいらしい。

「……いいですか?」

「もちろん自由に撮って大丈夫だよ」

 促すと、考えながら恐る恐るシャッターを押していた。

「同じクラスの友達?」

「はい、中学のときから一緒なんですよ」

「二人ともこっち向いて。ツーショット撮ってあげる」

 ついでに僕も何枚か撮っておく。ちょっとポートレートの練習もしたいのだ。

 撮り終わるとお友達さんは、ランニングの列に周回遅れで戻っていった。

「いい感じに撮れました!」

「うん、いいんじゃない?」

 画面を操作して、足立さんが嬉しそうにそう言った。

 僕たちは校門を出て、最寄り駅までの道を辿っていく。

「ここだよ」

 着いたのは『猫のとおり道』だ。

「この隙間……!? 全然気付かなかった」

「パッと見、幻想的になんて見えないでしょう?」

 コンクリートのマンションと一軒家の間にその空間はあった。

「最初は偶然撮れたんだよね。猫を追いかけてたらここに逃げられて、人は入れないから思わずシャッターを切ったんだ」

 撮れた写真を見てみたら、あんな写真が撮れていた。こんな写真撮ったっけ? ってびっくりした程だった。

「人の手の入らない、忘れられた場所。けど動物や植物にとっては生きた場所」

 足立さんが、試しに一枚撮る。納得できないようで、うーんと小さく唸った。

「もうちょっと明るく撮りたいんですが」

「そういうときは、絞りかシャッタースピードを変えればいいよ」

「あっ、猫」

 彼女は茶トラの猫を追いかけて彼女は写真を撮る。猫は道の端を歩き、『猫のとおり道』を通って奥へと逃げていく。

「逃げちゃった」

 僕は思わずカメラを構えるそんな彼女の写真を撮った。彼女がこちらを振り向く。そしてまた、シャッターを切る。

「本当に猫が通るんだ……って、今撮りましたよね!?」

 僕はまだカメラを下ろさない。

「いやなら、ごめん。写真を撮っている人を撮るの好きなんだよね。それにポートレートの練習もしたくて」

「いえ、大丈夫です」

 ファインダーごしの彼女が楽しげに小さく笑う。

「一生懸命な人は尚更撮りたくなるでしょう? 動物は好き?」

「可愛いなって思います」

「なら今みたいに撮ればいいんだよ」

「ちょっと分かった気がします。──先輩、どうせなんで普通の写真も撮ってください!」

 ピースして、もう一枚。笑顔を向ける彼女を収めた。

 キリのいいところで一旦部室へと戻る。足立さんは小阪先輩に、「見てくださいよ!」と今日の成果を見せていた。

「先輩のはどんな風に撮れてますかね?」

「どうだろう? フィルム写真はその楽しみがあるからいいよね。今日は遅いから、明日現像しようかな。お友達との写真は二枚焼き増ししとくね」

「ありがとうございます! 明日なんですけど、委員会があるからちょっと遅れそうなんですよね」

「了解。先に現像しておくよ」

「先輩の写真、楽しみにしてます!」





 次の日、部室の一角に作った暗室で、フィルムを現像液に浸して処理していく。処理したフィルムを機械にセットして、数秒露光。印画紙を現像液に浸して揺らすと、だんだん像が見えてくる。

「おお、我ながらよく撮れてる」

 暗室の赤い光の中で目を凝らして、出来立ての写真を見る。それは足立さんとバレー部の子のツーショット写真だった。同じ要領で、何枚かプリントしていく。

「……あれ?」

 自分の意図とは違う写真が撮れることは稀にある。

 素敵だと思えば、素敵に写る。

 エロいと思えば、エロく写る。

「それなら、この写真はどう見たって……」

 考えながら、停止液、定着液へと順番に浸けていく。

 ……まさか、写真を介して自覚するなんて思わなかった。

 作業を終えて頭を抱えながら眺めるのは、三枚の写真だ。

 猫を追いかけながら写真を撮ろうとしているところ。

 びっくりしてこちらを振り向いた瞬間。

 ピースして笑いかける姿。

「こんなの、好きって言ってるようなものじゃないか」

 その写真の足立さんはあまりに魅力的に写っていて──どう考えても僕が彼女に恋している写真だった。好きだと思って撮った写真は、もちろん好きだと思っているような写りになる、ということだ。

 猫に夢中になって、彼女はシャッターを連続して切る。あのときは楽しそうに撮る子だなって思っていただけだったはずなのに、こちらに笑いかける姿を愛しく思う自分の気持ちがどう見ても写真に写っている。

 そもそも僕は、いつも好きだと思ったものを撮るのだ。思わず撮ったということは、つまりそういうことだ。

「……これを本人に見せるのか」

 普通の人であれば、これが恋をしている写真だなんてバレないだろう。けれどあの子ならば読み取ってしまう気がする。

 時計を見れば四時を過ぎたところ。おそらくもうすぐ委員会が終わる。あと五分もすれば来るのでは無いだろうか。

 現像に時間が掛かっているなどど適当なことを言えば時間くらいは引き伸ばせるが、そんなことをしたところでどうなるというのだ。見せるという約束をしているのだから。

 どうしよう……。

 まさかこんなに写真が自分の気持ちを雄弁に語るとは思わなかった。

 困った挙げ句、苦し紛れに三枚の写真を一番下にして重ねるのだった。

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