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楽屋にまで、客席の笑いが聞こえてきた。満員御礼ということで、単純に客が多いのだろうが、演者の技量もあるだろう。
「前座なのにあんなに笑いを取って」依子が言った。「主役が出てくる前にお客を疲れさせる気かしら」
俺は鼻を鳴らした。
「みんな、あなたの独演会だって忘れてるかもしれないわ」
「イヤでも思い出させてやるさ」俺は言った。「疲れてたって、鞭打ってでも笑わせてやるよ」
スタッフが扉を開け、出番を告げた。俺は座布団から腰を上げた。依子もついてくるようだった。
舞台袖に立つと、笑い声は一層鮮明になり、圧力も増した。ほとんど真っ白に照らされた高座では、英数が「饅頭こわい」を殊更オーバーに演じている。奴なりにアレンジを加えて現代風にした、方々で評判のネタだ。十分売れっ子のくせに前座を買って出た時から何か裏があるとは思っていたが、人の襲名後初の独演会でそれを掛けるとは、客を掻っ攫おうという気が本当にあるのかもしれない。
上等だ。
待っている間に、今日掛けるネタをさらう。一本は既に決まっている。仲入後に掛けるもう一本は人情噺というところまで考えていたが、候補を絞りきれずにいた。「文七元結」、「子別れ」、「富久」、「鰍沢」――。
だが、久しぶりに昔のことを思い出して――違うな。端々に残っていた昔の記憶データが再生されて、ネタは決まった。
暗がりの客席では、何千もの眼が爛々と輝いていた。今は英数に向けられている眼差しの全てが、数分後には俺に注がれることとなる。そう思うと、体の芯から震えが起こった。俺の緊張ではない。あいつの持つ、トラウマが反応しているのだ。
俺は所詮、〈芸〉でしかない。あいつのごく一部でしかない。だが、俺たちが芸人である限り、俺はあいつの全てなのだ。
俺は、俺たちは、蝶腹亭全角なのだ。
「大丈夫?」依子が顔を覗き込んできた。「彼の発作が出たんじゃない?」
「そうかもしれねえ。けど、問題はねえよ」俺は言った。
「でも、すごい汗」
俺は額を指で拭った。指先が、脂汗で光っている。
「お酒でいくらかごまかせるようだけど」言いながら、依子は差し入れで届いた缶ビールに手を伸ばした。
目の前に置かれた缶を見たら、思わず喉が鳴った。
「いや、いい」俺は親指と人差し指を擦り合わせ、汗のぬめりをすり潰した。体の中で猛る何かを組み伏せながら。「夢になるといけねえからな」
〈了〉
二人会 佐藤ムニエル @ts0821
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