欠けた春
八神翔
欠けた春
「
そう言って、
いつもなら先輩に触れられた箇所がじんわりと熱を持つのに、今日は違った。
先輩はわたしにこれまで優しく接してくれた。けれど、そこに特別な意味はなかったのだ。そう悟る。
妹みたいに。
先輩の言葉がリフレインする。
それはつまり、恋愛対象としては見ていないということだ。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
わたしはその場に立ちつくす。
放課後の渡り廊下。吹奏楽部の奏でる音楽と野球部の元気な掛け声が、灰色の空に溶けていく。
寒い。さっきまではまるで気にならなかったのに、現実に引き戻された瞬間、冬の冷たさを感じる。
「こんなやつが兄だなんて
「痛っ。本気で蹴んなよ、サッカー部」
「おまえもだろ」
わいわいと罵り合いを始めるふたり。そんな先輩たちに、わたしは声をかけた。
「すみません、用事を思い出したので、今日はこれで失礼しますね」
先輩の返事を待つことなく、身を翻した。あ、と後ろから声が上がったような気もするけど、振り返らない。あと一度でも冬樹先輩の顔を視界に入れてしまったら、きっと冷静ではいられない。そんな確信があった。
走る。走る。
先輩の声が届かないところまで。
自分の教室に滑り込む。幸いなことに、みな部活などで出払っているようで、クラス内は無人だった。
緊張の糸が切れる。わたしはふっと息をこぼした。
これでよかったのだ。告白するよりも先に先輩の気持ちを知れたことで、玉砕しないですんだ。先輩もわたしにヘンな気遣いをする必要もなくなった。なにも変わらず、これまで通り一緒にいることができる。万々歳だ。そう自分自身に言い聞かせた。
制服の胸元をぎゅっと握りしめる。
ああ、けど、やっぱり痛いなあ。
春がいたら完璧だったのに。まわりからは、よくそう茶化された。
わたし――三島夏奈と、秋吉先輩、そして冬樹先輩。夏、秋、冬。確かに春が欠けている。運命の出会いと言うには、中途半端であることは否めない。
サッカー部のマネージャーとして入部して以来、ふたりの先輩にはとてもよくしてもらった。
「決めた。残念トリオなんて抜かしてくる連中を見返すためにも、春を探しに行こうぜ!」
「嫌だよ、だりい。行くなら冬樹一人で行けよ」
「あ、それだったらわたしが先輩の春になるっていうのはどうですか!」
「おっ、告白か? いいねえ、積極的で。あと冬樹ははげろ」
「なんか理不尽!?」
そんなくだらないやり取りで盛り上がっていたころが懐かしい。
最初はただの先輩後輩の間柄だった。冬樹先輩はチームのエースストライカー、わたしは選手を支えるマネージャー。そこに特別な感情が芽生えることはなかった。場を和ませるために軽口を叩いたこともあったが、本心ではない。冬樹先輩は数多くいる先輩のひとり、そういう認識だった。
その認識が崩れた瞬間を、きちんと思い出せない。たぶん、明確なきっかけはなかったように思う。
ドリンクを先輩に手渡したときの「ありがとう」の言葉。ミスしたわたしの肩をそっと叩きながら言ってくれた「どんまい」の励まし。友達と喧嘩して落ち込んでいたときにかけてもらった「大丈夫?」の声。
塵も積もれば山となる。先輩の優しさに触れ続けた結果、気づいたら恋に落ちていた。よくある話だろう。
冬樹先輩はモテる。端正な顔立ち、すらりとした長身、そして人の目をひきつけてやまない華麗なプレー。女子の視線を集めて当然だった。
先輩が女子に呼び出される瞬間を目撃するたび、胸を焼くほどの焦燥感に駆られた。思いの丈を伝えなければ、いつか冬樹先輩には彼女ができてしまう。そんなことはわかっている。けど、告白する勇気は出なかった。
もし断られたら。もし関係が壊れてしまったら。
不安ばかりが膨らんだ。以前は簡単に口にできていた言葉が、いまはまるで鉛のような重さをもって喉を沈んでいく。
人はこうも変わるのかと、自分自身でも驚いたほどだ。
「三島」
聞こえるはずのない声が耳を震わせた。わたしは、はっとして我に返る。おそるおそる教室の入り口を見れば、そこには冬樹先輩が立っていた。
「先輩? どうしてここに」
「なんだか思いつめたような顔をしていたから、気になって」
どくんと心臓が跳ね上がる。
どうして。どうしてわたしに優しくしてくれるの。こんなことされたら、また勘違いしちゃうじゃん。
わざわざわたしのあとを追ってきてくれたことへの嬉しさと、それでも先輩の特別な存在にはなれないことへの虚無感が、ない交ぜになって胸中に押し寄せる。
「大丈夫です」
心情を悟られまいと、わたしは気丈に振舞った。声が震えないよう、お腹に力を入れる。
「心配させてしまってすみません。本当に、なんでもないですから」
足早に、前側の扉から教室を出ようとする。
「三島!」
背後から先輩が声を上げた。その力強い口調に足を止めそうになるのを、すんでのところでこらえた。
逃げるように廊下を走りながら、心の中で祈る。
先輩、お願いだから、これ以上わたしの心をかき回さないで。
「おい三島! なにぼさっとしてるんだ!」
野太い声が空気を震わす。慌てて視線の焦点を合わせれば、サッカー部の顧問が鬼の形相でこちらを睨んでいた。
しまった。
自分の失態に気づき、顔から血の気が引いていく。
笛を鳴らし、練習の合図を出すのが自分の仕事だ。その与えられた役割を、すっかり忘れていた。
「す、すみません」
「そんな態度でいるなら、マネージャーなんてやめちまえ! 真剣にやってるやつらの迷惑だ」
返す言葉もない。わたしは目を伏せ、唇を噛み締めた。
なにやってんだ。個人的なことでみんなに迷惑をかけるだなんて。これじゃあ、マネージャー失格じゃないか。
己の不甲斐なさに打ちのめされる。色恋沙汰に思考を奪われ集中力を欠くだなんて、あってはならないことだ。
こんな情けない姿を、これ以上見られたくない。特に、先輩には。
部員たちと顔を合わせるのが怖くて、わたしはグラウンドに背を向けた。部員たちが脱ぎっぱなしにしている服が目についたので、片端からきれいに畳んでいく。それが終わると、備品の整理に手をつけた。
どれぐらいそうしていただろう。ふと背後に人の気配を感じた。頭上に影が落ちる。
「ミスぐらい、誰にでもある。あんまり気負いすぎるなよ」
秋吉先輩だった。
どうやら、こんな出来損ないのわたしを気にかけてくれているらしい。
「ありがとうございます」
申し訳なさに押し潰され、蚊の鳴くような声しか出なかった。
「なんかあった? 冬樹と」
秋吉先輩の思わぬ言葉に、反応が遅れる。
「いえ、そういうわけでは……」
わたしは言葉を濁した。動揺を悟られまいと、逆に問い返す。
「あの、どうしてそう思うんですか?」
「なんとなく。強いて言えば、あいつもここんところ調子悪そうだから。夏奈ちゃんが気もそぞろになっているのと、なにか関係あるのかと思って」
秋吉先輩の洞察力の鋭さに、わたしは思わず目を見開いた。
いや、それよりも。
「冬樹先輩、調子悪いんですか。わたしには、いつも通りに見えましたけど」
「あいつは擬態がうまいからな。どれだけメンタルやられてても、なんでもありませんって顔して平然としていやがるんだ。夏奈ちゃんが見破れなくても当然だよ」
秋吉先輩は苦笑する。
「その点、俺とあいつは小学校からの付き合いだからな。あいつの変化には、嫌でも目聡く気づいちゃうわけよ」
わたしはグラウンドへ目を向けた。
休憩中の部員たちが、各々のやり方で時間を潰している。その中に冬樹先輩の姿もあった。
部活中は誰よりも練習に打ち込み、試合では誰よりも貪欲に点を奪いにいく。一年近く先輩の姿を見てきた。だけど、今回の異変にはまるで気づけなかった。
ぜんぜん先輩のことを理解していなかったのだ。そのことを突きつけられた。
ちょうどそのとき、冬樹先輩がこちらを見た。
あ、と思った瞬間、わたしは顔を背けた。反射的な行動だった。地面に視線を落としながら、ひどい対応だったとすぐに後悔する。こんなことをしている場合ではないのに。
結局、その日も冬樹先輩と話をすることはなかった。
翌日の昼休み、階段をのぼろうとしたところで、踊り場に人影が見えた。
「冬樹せんぱーい」
女子の猫なで声がする。
わたしは思わず足を止めた。
手すりの陰から見えた姿は、紛れもなく冬樹先輩のものだ。また告白だろうか。わたしは慌てて物陰に隠れた。
「先輩、わたしサッカー部のマネージャーに立候補したいんですけど」
「マネージャー? いまは募集してないはずだけど」
「えー、でも、噂になってますよ。いまのマネージャーがろくに仕事をしてないから、代わりを入れようとしてるって」
わたしは息を呑む。まさか。そんな。衝撃が全身を駆け抜ける。
その一方で、そういう判断がなされても仕方がない、そう認める自分がいた。ここ最近のわたしの仕事ぶりは、口が裂けても丁寧だとは言えなかった。身から出た錆。自業自得だ。
「誰がそんなことを」
冬樹先輩が戸惑いの声を上げた。
「女子の間では有名ですよ。そのマネージャーの子、絶対先輩が目当てで入部したに決まってますよ。先輩を近くで見られればそれでいい、マネージャーの仕事なんてついで。そう思ってるに違いないです」
耳を塞ぎたい衝動に駆られた。目を閉じ、その場にうずくまる。胸が苦しい。身体が震える。この場からいますぐ立ち去りたいのに、足が床に縫いつけられたように動かない。
「君は、彼女のマネージャーとしての仕事ぶりを実際に見たことがあるの?」
「え? それはないですけど」
「なら、憶測でものを言うのはやめてほしい」
凛とした声が耳朶を打った。わたしはまぶたを開く。
「彼女は、そんな適当なやつじゃない。いつも一所懸命、俺たちの練習を支えてくれている。マネージャーとしての仕事をないがしろにしているなんてことは、絶対にない」
「だけど……」
「俺たちの仲間を悪く言う人を、マネージャーとして迎え入れるわけにはいかない。あきらめてくれ」
先輩のまっすぐな言葉が胸を打つ。
そんなふうに言ってもらえるだなんて、思いもよらなかった。
凍りついた空気がほどけていくのを感じた。視界がにじむ。心にじんわりと温もりが広がる。
「なによ……っ」
苛立たしげな足音が、すぐ脇を通り過ぎていった。
わたしは物陰を飛び出した。
「冬樹先輩」
「三島? どうしてここに。もしかして、いまの会話」
先輩がはっとしたように口元を手で覆う。
わたしは階段を駆け上がり、冬樹先輩の真正面に立った。
「ごめんなさい」
そして頭を下げる。
「ここ数日、マネージャーの仕事に集中できていなかったことは事実です。つまらないミスをして、頑張っている先輩たちに水を差してしまいました。本当にごめんなさい」
必死になって謝る。
「いや、そんな謝らないでよ。三島がそんなふうになったのは、もとはといえば俺のせいだろ? 妹みたいだなんて、俺が無神経なことを言ったから。それで嫌になって」
「そうじゃないんです」
わたしはかぶりを振った。
「嫌になったわけじゃないんです」
「え?」
「わたしは……先輩のことが好きだから」
勢いに任せ、胸に秘めていた想いをぶちまけた。
先輩の顔に動揺の色が広がる。目を瞬かせ、それからおそるおそるといった様子で問いかけてくる。
「いや、でも、三島が好きなのは秋吉じゃ」
今度はわたしが目を丸くする番だった。
「いつの頃からか、よく秋吉と楽しそうに話すようになっただろ? 俺に対しては急によそよそしくなったし」
わたしは放心する頭をなんとか回転させ、これまでの出来事を思い返した。そして合点がいく。
「ち、違うんです。これには理由が」
「理由?」
「その、自分の気持ちを自覚したとたん、冬樹先輩を前にすると急に緊張するようになったんです。だから、前みたいにうまく話せなくて……」
「マジか」
冬樹先輩は心の底から驚いたらしい。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「それってつまり、俺の早とちりだったってことか」
わたしは急いで口を開く。
「あの、いまの告白は忘れてください。わたしに言われても、迷惑でしょうから。大丈夫です、部活のときは、ちゃんとマネージャーとして」
最後まで言葉を続けることができなかった。
温もりがわたしの身体を包み込む。
なにが起きたのか、理解が追いつかなかった。目を白黒させるわたしの鼻腔を、ふわりと爽やかな匂いが掠めた。
「せん、ぱい?」
抱きしめられているのだと、ようやく気がつく。その瞬間、かつてないほど心臓の鼓動が早まった。
「忘れないよ。三島が勇気を出して俺に告白してくれたこと。忘れられるわけがない」
耳元で、先輩の優しい声が囁いた。
衝撃から立ち直れないまま、抱擁が解ける。両肩に添えられた先輩の手はとても温かかった。
真剣さを帯びた瞳が、わたしの顔を覗き込む。わたしは視線を逸らすことができなかった。
少し間を置いたあと、形のいい先輩の唇が動く。
「好きだよ、俺も。三島のことが」
これは夢だろうか。それとも聞き間違い? 頭の中が真っ白になった。わたしは呆然と先輩の顔を見上げる。
「でも先輩、わたしのことは妹みたいだって」
「あれは」
先輩が口ごもる。
「……しだったんだって」
「え?」
よく聞こえず、わたしは訊き返した。
「だから、照れ隠しだったんだって!」
叫ぶように言った先輩の顔は、ほんのりと赤みがかっていた。恥ずかしそうに口元を手の甲で隠す。それから観念したように、はあと息を吐いた。
「イメージと違って幻滅した?」
「そ、そんなことはないです」
わたしはぶんぶんと首を横に振る。むしろ、完璧すぎると思っていた先輩の新たな一面を見れて、嬉しさをおぼえたほどだ。
冬樹先輩は気恥ずかしそうに頬を指先でかいた。
「俺はてっきり、おまえは秋吉のことが好きだと思ってた。だから、自分の気持ちに蓋をしようとした。口に出したら、迷惑になるかと思ったから。……やっぱりだめだな、想いはちゃんと伝えないと。勝手にひとりで誤解して、勝手に終わらせるところだった」
それを言ったら、わたしも同じだ。ふられるのを恐れて、先輩に思いの丈をぶつけることなく、自己完結してしまった。
似た者同士。そんなことを思う。
先輩の濡れ羽色の瞳に見つめられ、胸がきゅうぅっと締めつけられた。
「三島、俺の彼女になってくれる?」
はい。わたしは迷うことなく頷いた。
その瞬間にほころんだ先輩の顔を、たぶんこの先ずっと忘れないだろう。
さっきまで抱いていた不安感は、もう跡形も残っていない。幸せの雫が頬を伝う。わたしは先輩の胸に飛び込んだ。
誰かに見られたってかまわない。
先輩の温もりを感じながら、わたしは笑う。
春が来た。
欠けた春 八神翔 @Y_kakeru
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