欠けた春

八神翔

欠けた春

三島みしまのことは、妹みたいにかわいいと思ってるよ」


 そう言って、冬樹ふゆき先輩はわたしの頭をぽんぽんと叩いた。

 いつもなら先輩に触れられた箇所がじんわりと熱を持つのに、今日は違った。

 先輩はわたしにこれまで優しく接してくれた。けれど、そこに特別な意味はなかったのだ。そう悟る。

 妹みたいに。

 先輩の言葉がリフレインする。

 それはつまり、恋愛対象としては見ていないということだ。

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 わたしはその場に立ちつくす。

 放課後の渡り廊下。吹奏楽部の奏でる音楽と野球部の元気な掛け声が、灰色の空に溶けていく。

 寒い。さっきまではまるで気にならなかったのに、現実に引き戻された瞬間、冬の冷たさを感じる。


「こんなやつが兄だなんて夏奈かなちゃんに失礼だろ。見ろ、嫌すぎて表情筋が死んでるじゃんか」


 秋吉あきよし先輩がそう言うと、冬樹先輩はむっとした表情を見せた。そのまま秋吉先輩の脚を蹴る。


「痛っ。本気で蹴んなよ、サッカー部」

「おまえもだろ」


 わいわいと罵り合いを始めるふたり。そんな先輩たちに、わたしは声をかけた。


「すみません、用事を思い出したので、今日はこれで失礼しますね」


 先輩の返事を待つことなく、身を翻した。あ、と後ろから声が上がったような気もするけど、振り返らない。あと一度でも冬樹先輩の顔を視界に入れてしまったら、きっと冷静ではいられない。そんな確信があった。

 走る。走る。

 先輩の声が届かないところまで。

 自分の教室に滑り込む。幸いなことに、みな部活などで出払っているようで、クラス内は無人だった。

 緊張の糸が切れる。わたしはふっと息をこぼした。

 これでよかったのだ。告白するよりも先に先輩の気持ちを知れたことで、玉砕しないですんだ。先輩もわたしにヘンな気遣いをする必要もなくなった。なにも変わらず、これまで通り一緒にいることができる。万々歳だ。そう自分自身に言い聞かせた。

 制服の胸元をぎゅっと握りしめる。

 ああ、けど、やっぱり痛いなあ。





 春がいたら完璧だったのに。まわりからは、よくそう茶化された。

 わたし――三島夏奈と、秋吉先輩、そして冬樹先輩。夏、秋、冬。確かに春が欠けている。運命の出会いと言うには、中途半端であることは否めない。

 サッカー部のマネージャーとして入部して以来、ふたりの先輩にはとてもよくしてもらった。


「決めた。残念トリオなんて抜かしてくる連中を見返すためにも、春を探しに行こうぜ!」

「嫌だよ、だりい。行くなら冬樹一人で行けよ」

「あ、それだったらわたしが先輩の春になるっていうのはどうですか!」

「おっ、告白か? いいねえ、積極的で。あと冬樹ははげろ」

「なんか理不尽!?」


 そんなくだらないやり取りで盛り上がっていたころが懐かしい。

 最初はただの先輩後輩の間柄だった。冬樹先輩はチームのエースストライカー、わたしは選手を支えるマネージャー。そこに特別な感情が芽生えることはなかった。場を和ませるために軽口を叩いたこともあったが、本心ではない。冬樹先輩は数多くいる先輩のひとり、そういう認識だった。

 その認識が崩れた瞬間を、きちんと思い出せない。たぶん、明確なきっかけはなかったように思う。

 ドリンクを先輩に手渡したときの「ありがとう」の言葉。ミスしたわたしの肩をそっと叩きながら言ってくれた「どんまい」の励まし。友達と喧嘩して落ち込んでいたときにかけてもらった「大丈夫?」の声。

 塵も積もれば山となる。先輩の優しさに触れ続けた結果、気づいたら恋に落ちていた。よくある話だろう。

 冬樹先輩はモテる。端正な顔立ち、すらりとした長身、そして人の目をひきつけてやまない華麗なプレー。女子の視線を集めて当然だった。

 先輩が女子に呼び出される瞬間を目撃するたび、胸を焼くほどの焦燥感に駆られた。思いの丈を伝えなければ、いつか冬樹先輩には彼女ができてしまう。そんなことはわかっている。けど、告白する勇気は出なかった。

 もし断られたら。もし関係が壊れてしまったら。

 不安ばかりが膨らんだ。以前は簡単に口にできていた言葉が、いまはまるで鉛のような重さをもって喉を沈んでいく。

 人はこうも変わるのかと、自分自身でも驚いたほどだ。


「三島」


 聞こえるはずのない声が耳を震わせた。わたしは、はっとして我に返る。おそるおそる教室の入り口を見れば、そこには冬樹先輩が立っていた。


「先輩? どうしてここに」

「なんだか思いつめたような顔をしていたから、気になって」


 どくんと心臓が跳ね上がる。

 どうして。どうしてわたしに優しくしてくれるの。こんなことされたら、また勘違いしちゃうじゃん。

 わざわざわたしのあとを追ってきてくれたことへの嬉しさと、それでも先輩の特別な存在にはなれないことへの虚無感が、ない交ぜになって胸中に押し寄せる。


「大丈夫です」


 心情を悟られまいと、わたしは気丈に振舞った。声が震えないよう、お腹に力を入れる。


「心配させてしまってすみません。本当に、なんでもないですから」


 足早に、前側の扉から教室を出ようとする。


「三島!」


 背後から先輩が声を上げた。その力強い口調に足を止めそうになるのを、すんでのところでこらえた。

 逃げるように廊下を走りながら、心の中で祈る。

 先輩、お願いだから、これ以上わたしの心をかき回さないで。





「おい三島! なにぼさっとしてるんだ!」


 野太い声が空気を震わす。慌てて視線の焦点を合わせれば、サッカー部の顧問が鬼の形相でこちらを睨んでいた。

 しまった。

 自分の失態に気づき、顔から血の気が引いていく。

 笛を鳴らし、練習の合図を出すのが自分の仕事だ。その与えられた役割を、すっかり忘れていた。


「す、すみません」

「そんな態度でいるなら、マネージャーなんてやめちまえ! 真剣にやってるやつらの迷惑だ」


 返す言葉もない。わたしは目を伏せ、唇を噛み締めた。

 なにやってんだ。個人的なことでみんなに迷惑をかけるだなんて。これじゃあ、マネージャー失格じゃないか。

 己の不甲斐なさに打ちのめされる。色恋沙汰に思考を奪われ集中力を欠くだなんて、あってはならないことだ。

 こんな情けない姿を、これ以上見られたくない。特に、先輩には。

 部員たちと顔を合わせるのが怖くて、わたしはグラウンドに背を向けた。部員たちが脱ぎっぱなしにしている服が目についたので、片端からきれいに畳んでいく。それが終わると、備品の整理に手をつけた。

 どれぐらいそうしていただろう。ふと背後に人の気配を感じた。頭上に影が落ちる。


「ミスぐらい、誰にでもある。あんまり気負いすぎるなよ」


 秋吉先輩だった。

 どうやら、こんな出来損ないのわたしを気にかけてくれているらしい。


「ありがとうございます」


 申し訳なさに押し潰され、蚊の鳴くような声しか出なかった。


「なんかあった? 冬樹と」


 秋吉先輩の思わぬ言葉に、反応が遅れる。


「いえ、そういうわけでは……」


 わたしは言葉を濁した。動揺を悟られまいと、逆に問い返す。


「あの、どうしてそう思うんですか?」


「なんとなく。強いて言えば、あいつもここんところ調子悪そうだから。夏奈ちゃんが気もそぞろになっているのと、なにか関係あるのかと思って」


 秋吉先輩の洞察力の鋭さに、わたしは思わず目を見開いた。

 いや、それよりも。


「冬樹先輩、調子悪いんですか。わたしには、いつも通りに見えましたけど」

「あいつは擬態がうまいからな。どれだけメンタルやられてても、なんでもありませんって顔して平然としていやがるんだ。夏奈ちゃんが見破れなくても当然だよ」


 秋吉先輩は苦笑する。


「その点、俺とあいつは小学校からの付き合いだからな。あいつの変化には、嫌でも目聡く気づいちゃうわけよ」


 わたしはグラウンドへ目を向けた。

 休憩中の部員たちが、各々のやり方で時間を潰している。その中に冬樹先輩の姿もあった。

 部活中は誰よりも練習に打ち込み、試合では誰よりも貪欲に点を奪いにいく。一年近く先輩の姿を見てきた。だけど、今回の異変にはまるで気づけなかった。

 ぜんぜん先輩のことを理解していなかったのだ。そのことを突きつけられた。

 ちょうどそのとき、冬樹先輩がこちらを見た。

 あ、と思った瞬間、わたしは顔を背けた。反射的な行動だった。地面に視線を落としながら、ひどい対応だったとすぐに後悔する。こんなことをしている場合ではないのに。

 結局、その日も冬樹先輩と話をすることはなかった。





 翌日の昼休み、階段をのぼろうとしたところで、踊り場に人影が見えた。


「冬樹せんぱーい」


 女子の猫なで声がする。

 わたしは思わず足を止めた。

 手すりの陰から見えた姿は、紛れもなく冬樹先輩のものだ。また告白だろうか。わたしは慌てて物陰に隠れた。


「先輩、わたしサッカー部のマネージャーに立候補したいんですけど」

「マネージャー? いまは募集してないはずだけど」

「えー、でも、噂になってますよ。いまのマネージャーがろくに仕事をしてないから、代わりを入れようとしてるって」


 わたしは息を呑む。まさか。そんな。衝撃が全身を駆け抜ける。

 その一方で、そういう判断がなされても仕方がない、そう認める自分がいた。ここ最近のわたしの仕事ぶりは、口が裂けても丁寧だとは言えなかった。身から出た錆。自業自得だ。


「誰がそんなことを」


 冬樹先輩が戸惑いの声を上げた。


「女子の間では有名ですよ。そのマネージャーの子、絶対先輩が目当てで入部したに決まってますよ。先輩を近くで見られればそれでいい、マネージャーの仕事なんてついで。そう思ってるに違いないです」


 耳を塞ぎたい衝動に駆られた。目を閉じ、その場にうずくまる。胸が苦しい。身体が震える。この場からいますぐ立ち去りたいのに、足が床に縫いつけられたように動かない。


「君は、彼女のマネージャーとしての仕事ぶりを実際に見たことがあるの?」

「え? それはないですけど」

「なら、憶測でものを言うのはやめてほしい」


 凛とした声が耳朶を打った。わたしはまぶたを開く。


「彼女は、そんな適当なやつじゃない。いつも一所懸命、俺たちの練習を支えてくれている。マネージャーとしての仕事をないがしろにしているなんてことは、絶対にない」

「だけど……」

「俺たちの仲間を悪く言う人を、マネージャーとして迎え入れるわけにはいかない。あきらめてくれ」


 先輩のまっすぐな言葉が胸を打つ。

 そんなふうに言ってもらえるだなんて、思いもよらなかった。

 凍りついた空気がほどけていくのを感じた。視界がにじむ。心にじんわりと温もりが広がる。


「なによ……っ」


 苛立たしげな足音が、すぐ脇を通り過ぎていった。

 わたしは物陰を飛び出した。


「冬樹先輩」

「三島? どうしてここに。もしかして、いまの会話」


 先輩がはっとしたように口元を手で覆う。

 わたしは階段を駆け上がり、冬樹先輩の真正面に立った。


「ごめんなさい」


 そして頭を下げる。


「ここ数日、マネージャーの仕事に集中できていなかったことは事実です。つまらないミスをして、頑張っている先輩たちに水を差してしまいました。本当にごめんなさい」


 必死になって謝る。


「いや、そんな謝らないでよ。三島がそんなふうになったのは、もとはといえば俺のせいだろ? 妹みたいだなんて、俺が無神経なことを言ったから。それで嫌になって」


「そうじゃないんです」


 わたしはかぶりを振った。


「嫌になったわけじゃないんです」

「え?」

「わたしは……先輩のことが好きだから」


 勢いに任せ、胸に秘めていた想いをぶちまけた。

 先輩の顔に動揺の色が広がる。目を瞬かせ、それからおそるおそるといった様子で問いかけてくる。


「いや、でも、三島が好きなのは秋吉じゃ」


 今度はわたしが目を丸くする番だった。


「いつの頃からか、よく秋吉と楽しそうに話すようになっただろ? 俺に対しては急によそよそしくなったし」


 わたしは放心する頭をなんとか回転させ、これまでの出来事を思い返した。そして合点がいく。


「ち、違うんです。これには理由が」

「理由?」

「その、自分の気持ちを自覚したとたん、冬樹先輩を前にすると急に緊張するようになったんです。だから、前みたいにうまく話せなくて……」

「マジか」


 冬樹先輩は心の底から驚いたらしい。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。


「それってつまり、俺の早とちりだったってことか」


 わたしは急いで口を開く。


「あの、いまの告白は忘れてください。わたしに言われても、迷惑でしょうから。大丈夫です、部活のときは、ちゃんとマネージャーとして」


 最後まで言葉を続けることができなかった。

 温もりがわたしの身体を包み込む。

 なにが起きたのか、理解が追いつかなかった。目を白黒させるわたしの鼻腔を、ふわりと爽やかな匂いが掠めた。


「せん、ぱい?」


 抱きしめられているのだと、ようやく気がつく。その瞬間、かつてないほど心臓の鼓動が早まった。


「忘れないよ。三島が勇気を出して俺に告白してくれたこと。忘れられるわけがない」


 耳元で、先輩の優しい声が囁いた。

 衝撃から立ち直れないまま、抱擁が解ける。両肩に添えられた先輩の手はとても温かかった。

 真剣さを帯びた瞳が、わたしの顔を覗き込む。わたしは視線を逸らすことができなかった。

 少し間を置いたあと、形のいい先輩の唇が動く。


「好きだよ、俺も。三島のことが」


 これは夢だろうか。それとも聞き間違い? 頭の中が真っ白になった。わたしは呆然と先輩の顔を見上げる。


「でも先輩、わたしのことは妹みたいだって」

「あれは」


 先輩が口ごもる。


「……しだったんだって」

「え?」


 よく聞こえず、わたしは訊き返した。


「だから、照れ隠しだったんだって!」


 叫ぶように言った先輩の顔は、ほんのりと赤みがかっていた。恥ずかしそうに口元を手の甲で隠す。それから観念したように、はあと息を吐いた。


「イメージと違って幻滅した?」

「そ、そんなことはないです」


 わたしはぶんぶんと首を横に振る。むしろ、完璧すぎると思っていた先輩の新たな一面を見れて、嬉しさをおぼえたほどだ。

 冬樹先輩は気恥ずかしそうに頬を指先でかいた。


「俺はてっきり、おまえは秋吉のことが好きだと思ってた。だから、自分の気持ちに蓋をしようとした。口に出したら、迷惑になるかと思ったから。……やっぱりだめだな、想いはちゃんと伝えないと。勝手にひとりで誤解して、勝手に終わらせるところだった」


 それを言ったら、わたしも同じだ。ふられるのを恐れて、先輩に思いの丈をぶつけることなく、自己完結してしまった。

 似た者同士。そんなことを思う。

 先輩の濡れ羽色の瞳に見つめられ、胸がきゅうぅっと締めつけられた。


「三島、俺の彼女になってくれる?」


 はい。わたしは迷うことなく頷いた。

 その瞬間にほころんだ先輩の顔を、たぶんこの先ずっと忘れないだろう。

 さっきまで抱いていた不安感は、もう跡形も残っていない。幸せの雫が頬を伝う。わたしは先輩の胸に飛び込んだ。

 誰かに見られたってかまわない。

 先輩の温もりを感じながら、わたしは笑う。

 春が来た。

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欠けた春 八神翔 @Y_kakeru

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