後
「響香……!」
響香はスタスタと歩み寄り、盤上を一瞥する。それから、俺の顔をまじまじと眺めた。
「な、なんだよ」
「このままだと負けちゃうけど、いいの?」
「いいわけないけど……」
なんとかできるなら、やっている。結局、俺は村田にだって適わない。情けなくて、俯くしかなかった。
「それにしても、勝負中にインチキはあり得ない」
「え?」
響香は突然、俺の背後に立つ後輩の方に歩み寄った。盤面を撮影していた方ではなく、もう片方の立合人だ。
「後ろに隠したの、見せて」
「いや……なにも」
「いいから!」
響香は言うと、後輩の右手をねじ上げる。そして、手の中にあるスマホを、俺たちの方に見せた。
「あっ!」
その画面上には将棋アプリが起動している。表示される盤面は、俺と村田の勝負とまったく同じ駒の配置だ。
「村田、お前……!」
睨みつけるけど、村田は居直ったように言う。
「別に、インチキじゃないぜ。ほら、正式な勝負には記録係がいるだろ。それと同じで、棋譜をアプリに記録する目的でさ」
「嘘をつくな。動画を撮ってるんだから、そんな必要ないだろ」
「でもなぁ、俺がアプリの通りに指したって、そんな証拠もないわけだし」
村田はぬけぬけと、そんなことを言う。後輩に指示して、不正をしていたのは間違いないはずなのに。
つまり俺は村田ではなく、アプリのAIと対戦していたということ。だけど、ここまで完全に開き直られると、問い詰めてインチキだと認めさせるのは骨が折れそうだ。
「どの道、勝負はナシだな」
席を立とうとする俺を、村田が更に煽ってくる。
「なんだ、逃げるのか? じゃあ、勝負は俺の勝ちな。石井さーん、約束通り俺とつき合ってもらうからねー」
「お前、いい加減にしろっ!」
思わずカッとなり、村田に掴みかかろうとした時だ。
「待って、佑馬」
「で、でも……」
「確かに厳しいけど、この勝負、まだわからないよ」
響香に言われ、改めて盤面を見直す。確かに、まだ詰みというわけではない。でも、ここから逆転できるとしたら……。
「なあ、村田。この勝負を続けるのに条件がある」
「なんだよ?」
「ここから先は、響香と二人で指させてもらう」
「なんだと」
村田は顔色を変え、少し考えた後で響香に言う。
「ねえ、石井さん。俺が勝ったら、本当につき合ってくれるんだよね」
「いいよ」
響香はあっさりと、そう答えた。
「よぉし! じゃあ、こっちも条件がある。――オイ、貸せ」
「?」
村田は後輩からスマホを受け取ると、アプリが起動したままの画面を見せて言った。
「俺の方も、遠慮なくコレを使わせてもらうぜ」
今までだって、使ってたくせに。臆面もなく無茶な条件を持ち出す村田には、流石に呆れた。AIは確かに手強いけど、響香の協力があるなら負けはしない。
「わかった。じゃあ、続けよう」
そうして勝負は再開した――の、だけど。
「響香、この局面だけど?」
「さあ? 自分で考えたら。そもそも私、協力するなんて一言も言ってないし」
「どうしたんだよ、急に」
「急に態度を変えたのは、そっち。最近ずっと、私のこと避けてたじゃない」
「それは……と、とにかく、今はそんな場合じゃないから」
つーん。
「なあ、響香ってば」
つーん。
「あの……響香さん」
つーん。
響香はそれ以降、まったく口を利こうとしない。それどころか、顔をそっぽに向けて完全に俺を無視した状態だ。
その様子を見て、村田が笑う。
「ハハハ! いいねー。石井さんは、お前に手を貸す気はないってさ」
そんな馬鹿な。このまま負ければ、響香は村田とつき合うことに……。
「いいのか、響香。本当に負けるぞ」
どう言っても、響香はつーんとするばかり。最近の俺の態度を顧みれば、響香が怒るのも無理はないけど。
「どうやら本心では石井さん、俺とつき合いたいみたいだな」
「ま、まさか」
「ハハハ、いい加減に気づけ。さっきから、わかりやすーく無視されてるだろ」
村田の言葉を聞いて、俺はハッとした。煽られて悔しいとかではない。もう一度、盤面を見つめじっくりと考えた。
響香が、俺を無視する?
その瞬間に閃くものを感じ、次に差した手は――『6四角成』。
敵陣で攻め込んでいた角を下げた格好。そして、角は成り――すなわち、ひっくり返した駒の表記は『馬』となった。
それこそ響香から受け取ったアドバイス。自分では絶対に思いつかなかった一手だ。状況は、嘘のように好転する。だけど勝負は、まだ五分五分。
勝負を決することになる手は、ようやく口を開いた響香の言葉の中に隠されていた。
「佑馬はさ」
「え?」
「私と、どうなりたい?」
俺は響香と……?
考えを巡らせた後で、俺はさっき指した駒の左隣に、持ち駒の香車を置いた。香車は真っ直ぐにどこまでも進める駒であり、一文字だと『香』と表記される。
「オイ、次どう指せばいいんだよっ? くそっ、なんだよ、このポンコツアプリ!」
村田がスマホを相手に、悪態をつく。
結果、その一手が決定打となり、俺たちは勝利した。
その日の帰り道。肩を並べて歩いていると、響香から聞かれる。
「私になにか言うことは?」
「ありがとう。お陰で勝てた」
「そういうことじゃなくて……」
「?」
「まあ、別にいいけど」
響香が言いたいことは、なんとなくわかっていた。
「響香」
「ん?」
「伝えたい気持ちはある。でも、今はまだ言わない」
「ふーん」
響香は少し残念そうでもあり、どこか嬉しそうでもあった。
後日、部活の練習中。村田とボールを奪い合っていた時に、その声は響き渡る。
「佑馬ぁ! 負けるな―っ!」
それに背中を押された感覚。加速した俺は、村田からボールを奪うとそれを思い切りゴールに蹴り込んだ。
声をした方向を見ると、グラウンドの片隅で両足を踏ん張り、精一杯の声を上げた響香の姿があった。
それを見て、胸の中にぐっと込み上げるものを感じる。今自分のできることを、少しづつやっていこう。
その決意から、十年後のこと――。
◆ ◆ ◆
とある秋晴れの日。金屏風の前、高砂席で俺と響香は並んで座る。それは調度、あの将棋の勝負を決した『馬』と『香』の駒のようだった。
「私と、どうなりたい?」
あの日の響香の言葉が示すのが、披露宴のこの場面であるのか、それは定かではないけど。香車の駒のように突き進む響香と並んでいたいと――
「響香」
「ん?」
「好きだよ」
――この先も、そう思うから。
【了】
二人が並ぶとき 中内イヌ @kei-87
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