第34話 婚約パーティにて
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ユディアナ伯ノルベルト・ローエ。
このアジェステリア公国でもきっての大貴族であり、今夜の主賓でもあった。
公国の元首であるアジェステリア公の甥という立場もあってか、今宵催されたユディアナ伯の婚約パーティにかけられた人員、費用は生半可なものでなく、招待客を充分にうならせる出来だったといえるだろう。
庶民ならば威圧されてしまいかねない豪奢な雰囲気に、招待客の一人であったシャレム・アーレストは泰然として、その場に空気に身を任せていた。
年齢は二十歳に届くかどうかといった頃合であるが、その大人びた雰囲気からは少女の面影を完全に消し去っている。
彼女は時折知人と談笑しながら、今夜の主賓を眺めやった。
歳は自分よりも十近く上であるものの、かつて縁談の話が持ち上がったこともあった相手だったため、ある程度のことは知っている。
アジェステリアの隣国ジュリオン市国。
その貴族である伯爵を父に持つ彼女にとって、ユディアナ伯との縁談は悪いものではなかった。彼もまた乗り気だったと聞いている。
シャレムがただの貴族の公女であったならば、その縁談はスムーズに進んでいたかもしれない。
しかし結局は破談になった。
彼女にまだその気が無かったことが一番の原因ではあるが、ユディアナ伯の周囲に反対する者がいたことが、世間では一番の原因だといわれている。
アトラ・ハシース。
彼女は幼少より、そう呼ばれる組織に属してきた。
一般には非公開ではあるものの知らぬ者などいない名前。
アジェステリアでは良くも悪くも何かしらの影響のある名であり、シャレムの場合はこれによって敬遠されたことは否めない。
「――これはシャレム殿。お久しぶりですな」
背後から声をかけてきた初老の相手に落ち着いて振り返ると、彼女は優雅に一礼してみせた。
「お声をかけて下さり、光栄です。アジェステリア公」
多少の驚きを隠しつつ、シャレムは微笑を拵えてゆっくりと頭を上げた。
彼女の目の前に立っていたのは間違いなく、アジェステリア公その人だった。
雑踏の中、どちらかといえば無防備なたたずまいである。
「ですが、今夜は参席されないとうかがっておりましたのに……?」
「なに、可愛い甥っ子の婚約ゆえな。風邪などで寝込んではおられんよ」
人懐っこい笑みを浮かべて、彼はそう言った。
シャレムは事前にアジェステリア公は出席を辞退するむね聞いていたのだが、その理由は単純な風邪だったらしい。
「ご無理をされてはいけませんわ」
「そうは言うがの。そなたにわざわざ来てもらった手前、もあるゆえな」
「わたくしの都合などお構いなく。……しかし、少々遅れているようですわね」
そう言い、シャレムが頭を巡らした時だった。
大広間に集まった貴族や各界の名士達の談笑が、いったん途切れる。
新たな来客に、彼らの視線が集まったからだ。
「ちょうど参ったようであるな」
「そのようですわね。……それではいったん失礼を」
シャレムは一礼してその場を辞すと、新たな来客の元へと向かう。
彼女自身、このパーティーの客人ではあるのだが、一方で別な来客の接待を頼まれてもいたのだ。
頼んだのは他ならぬアジェステリア公その人である。
アトラ・ハシースに所属していることもあり、シャレムは比較的多忙だ。
社交界での活動を疎かにはしていない一方、どうしても時間を制限されることもある。
今夜父親の名代として出席したのは、ひとえにアジェステリア公たっての要請だったからだ。
それというのもたった今到着した来賓が、アジェステリアにとって重要かつ厄介な相手であったからである。
その対応を隣国の貴族の子弟であるシャレムがするというのだから一見おかしな話ではあるが、この国の政治情勢からすれば、仕方の無いことでもあった。
「お待ちしておりました。今宵の接待を仰せつかっております、シャレム・アーレストです」
「大儀よ」
進み出たシャレムに対し、広間に現れた人物は、大仰に応えてみせた。
シャレムの身にまとうドレスよりもなおいっそう贅を凝らした造りの衣装に身を包んでいたのは、年の頃ならばシャレムと同じくらいの女だ。
もっともシャレムとは対照的に、まだ少女っぽさが抜けていない顔立ちでもある。
名をエザリア・ラインヴァルド。
ジュリオン市国の隣国、トルメスト大公国元首の一人娘である。
今夜の婚約パーティにおいては、破格の来賓であった。
(……また無理をなされたものですわね)
場内では思わぬ来賓に、少なからずどよめきが起こった。
そんな中、シャレムは思う。
どうやらアジェステリア公はよほどユディアナ伯のことを気に入っているらしい。本来公家の祭事にしか赴かないのが通例の大公家を引っ張り出したのだから、アジェステリア公の贔屓の具合が分かるというものだ。
「……久しぶりですね、アーレスト伯公女」
「殿下もご機嫌麗しく」
「別にそんなことは無いですけれど」
やはりどこか子供っぽく、エザリアは答えてみせた。
(さて……)
エザリアがこの場に来た以上、アジェステリア公の目的はほぼ達せられたといえる。
彼女を来賓として迎えることができただけで、ユディアナ伯の権威を少なからず周囲に示すことができたからだ。
ある意味破格な祝儀ともいえる。
あとは大公姫のご機嫌を取りつつ無事に帰ってもらえればそれでいい。
ただしそこをうまくやらないとまたややこしいことになりかねず、アジェステリア公の行為は実はリスクも大いにはらんでいたといっても過言ではないだろう。
というのはこのアジェステリア公国と、隣国トルメスト大公国との関係に起因する。
これにジュリオン市国を加えてアジェステリア三国と名乗り、対外的には共同体として共栄をみせつけているものの、その実お互いの友好度はその経済の結びつきに比べてずいぶんと低いと言わざるをえなかった。
これは三国の歴史を辿ればすぐにも分かることである。
アジェステリア公国は元々大公国を名乗り、現在のアジェステリア三国の領域全てを長らく支配してきた。
ところが十九世紀に入り、その辺境貴族であったラインヴァルド家が内乱を引き起こし、大公国を滅ぼしかけた大事件があった。
ちょうどナポレオン戦争の終盤のことである。
紆余曲折があり、ラインヴァルド家はアジェステリア大公家を相手に最後まで戦争をすることなく、和議を結ぶ。
その際その間を取り持ったのが、大公国に見切りをつけたアトラ・ハシースのあった僧会であり、両国の緩衝地となることでジュリオンという都市と共に独立したのであった。
アジェステリア大公国はラインヴァルド家に対して大公位を譲り、その独立を認め、自らは公国に地位を落とした。
そうすることで自立を守ったともいえる。
臣下の礼こそとらなかったものの、以降アジェステリア公国はトルメスト大公国に対して敵愾心を抱きつつも頭が上がらなくなったのだった。
もっとも両国が大いに敵対心を抱いていたのは過去のことであり、世代が変われば事情も変わってくる。
小国であった三国はすぐにアジェステリア三国という共同体を立ち上げると、対外的に独立を守ることに苦心した。
実際二度の大戦時も、隣国のスイスと共に中立を貫いている。
ともあれそういった歴史的事情からか、お互いに重要な来賓を迎え合う場合は緩衝国であるジュリオンの者が使われることはもはや慣例となっていた。
今回その白羽の矢が立ったのがシャレムだったというわけである。
そして彼女にとって、その役は初めてというわけでも無かった。
「……どちらがユディアナ伯?」
「あちらに。アジェステリア公も御出でですわ」
「そう」
その名前に別段緊張した風もなく、エザリアは他の招待客を掻き分けて進んでいく。
そして彼女はそつなく社交辞令をこなしていった。
別段落ち度は無い。
しかし普通といえば普通だというのが、シャレムの印象だった。
凡庸とさえいえる。
アジェステリア公はずいぶんエザリアに対して気を遣っているようだが、そこまでする必要があるのかと思えるほど、平凡な印象は拭えない。
が、シャレムは油断するつもりはなかった。
そういう風に装っている可能性もあるからだ。
聞くところによれば、彼女は見た目の平凡さとは裏腹に相当なお転婆だという噂もある。
特に最近ではシャレムのいるアトラ・ハシースを震撼させるような大事件を引き起こしたらしい、との話も耳にしていた。
僧会の拠点は三国に散在しおり、もちろんトルメスト領内にもある。
その中で最大規模を誇っていたローレシア大聖堂が、突如完膚なきまでに破壊されたというのもだった。
アトラ・ハシースが常駐しているほどの歴史ある場所であったが、今ではただの瓦礫の山と化してしまっている。
生き残ったアトラ・ハシースの証言によれば、大聖堂に無断で侵入したエザリアともう一人の外国人らしい随行者を追跡中に、突如現れた第三者によって粉々に打ち壊されたのだという。
にわかには信じられない話であった。
そもそも生き残ったというアトラ・ハシースも重度の心理外傷を負っており、証言に曖昧な点も多々あったからだ。
ジュリオンは正式な調査団を派遣したものの、結果は結局原因不明で、大公国に対しても証拠不十分から抗議をすることはできなかった。
シャレムはその際のことをエザリア本人に尋ねたい衝動にかられはしたが、それを叶えることは不可能だということも知っていた。
ここで彼女の機嫌を損ねれば、ろくな結果にならないことは明白だったからだ。
ともあれ評価の難しい相手であり、油断できない相手であることは間違いないだろう。
「もし気が向いたらで構わんのだがの。できればこの甥っ子どもに、エザリア殿のピアノを贈っては下さらんか」
シャレムが控えていると、話をしていたアジェステリア公が、エザリアへとそんなことを頼み始める。もちろん予定には無かったことであり、エザリアも少々きょとん、となったようだった。
「私の、ですか?」
「左様。なんでも相当な腕前とか。あの堅物なジェセシス殿にしては珍しく、以前随分と自慢しておってな」
「はあ……」
面食らった様子のまま、エザリアは視線をシャレムへと寄越してきた。
返答に窮したのだろう。
この辺りの反応は、まあ平凡だ。
シャレムはすぐに返答した。
「もし叶いますならば、お二方にとって最高の祝辞になるかと」
エザリアの腕前など知らなかったが、さも知った風に答えておく。
一方で事の次第に緊張しているのはユディアナ伯その人のようだった。
この伯父殿はいったいいきなり何を頼んでいるんだ、とそんな心境が伝わってくるような気がして、シャレムは内心苦笑する。
「まあ……構いませんけれど」
案外あっさりと、エザリアは頷いてみせた。
すでに用意されていたらしいグランドピアノまで案内されると、慣れた動作で椅子へと腰掛ける。
ややあってから試すような音が漏れ聞こえ、そうして演奏が始まった。
自然と、会場内が静かになる。
誰もがこのサプライズに、耳を傾けざるを得なかった。
しばらく耳にして、なるほどとシャレムは納得する。
同時に大したものだと感心した。
彼女自身、たしなみ程度で楽器を扱うことはできるが、そのシャレムからみてもエザリアの腕は相当なものだと分かったからである。
この婚約パーティーにとって、悪くない演出だったといえるだろう。
ところがしばらくして会場内がざわついた。
「…………?」
入口の方からだ。
シャレムは不快げに眉をひそめてそちらを見やり、絶句した。
不躾としか言い様がない様子で、誰かが会場に入ってきたのである。
一人――ただしパーティー会場には不釣合いな赤い僧衣をまとった人物が、真っ直ぐに人ごみを掻き分けて歩いてくる。
「マスター……?」
「お知り合いかね?」
アジェステリア公に聞かれ、さすがに慌ててシャレムは首肯した。
「はい。わたくしの上司ですが、なぜこのような場所に……?」
戸惑う間にもその人物はシャレムの前までやってくると、そこで膝を折る。
「突然の無礼、ご容赦を」
その人物はまずシャレムの隣にいたアジェステリア公へと頭を下げた。
女で、見た目は若い。
髪は短く、まるで軍人を彷彿とさせるような毅然とした態度だった。
「ジュリオンの者かな?」
「はい。ジークリンデ・レアトリクスと申します。アトラ・ハシースに所属しております」
「ほう」
アジェステリア公は別段驚かなかった。
シャレムの上司という時点で、このジークリンデと名乗った者もアトラ・ハシースであることは疑いようが無かったからだ。
「ふむ。して貴公は何用で参った? 見たところ、我が甥に祝辞を述べるためでもあるまい」
「そちらの――」
そこでジークリンデはシャレムを一瞥し、言葉を続ける。
「シャレム・アーレストに帰還命令が出ておりますゆえ、その伝令に参りました」
「はあ……?」
思わぬ言葉に、シャレムはさらに戸惑った。
「それは急であるな。理由を尋ねてもよいかね?」
「私の権限ではお答えしかねます。が、急を要する事態であることはご理解いただきたく」
「急って……」
困ってしまったのはシャレムだ。
命令元は恐らくアトラ・ハシースの最高意思決定機関である
それに対し、シャレムには拒否権は無い。
しかしこの状況を分かっているのだろうかと、シャレムは疑問を抱かずにはおれなかった。
この重要な場で公務を放り出し、途中退席するなど、ジュリオンにとっても痛手になりかねない。
今回は表向きはもちろん婚約パーティーに過ぎないが、水面下では外交も行われている。
特に今回はジュリオンにとって難しい相手であるトルメストまでもが絡んでいるのだ。
関係者との会合も、随分前から予定されていたというのに、これでは……。
そして何より、アジェステリア公の顔に泥を塗りかねなくする。
彼の機嫌を損ねることは、財政の大半をアジェステリアに頼っているジュリオンにとっては致命的だ。
「さてシャレム殿、使者殿はこう申されておるが、いかがするかな?」
「――――」
普段のシャレムであれば、使者など無視していただろう。
どちらかといえば彼女は枢機会議に対して従順な方ではない。
幾度か命令無視をしたこともある。
しかし枢機会議の方もそれを分かっているようで、使者に無名な者ではなくわざわざジークリンデを寄越したことからしても、何かしら切迫した事態だということは知れた。
非常に天秤にかけずらい状況にシャレムは困惑したが、決断は出さなくてはならない。
シャレムは数歩退き、上司と同じように膝を折る。
「このような時に退席する非礼をお許し下さいませ。この場のお詫びは後日改めて」
そう告げれば、アジェステリア公は軽く笑ってみせた。
「仕方あるまいな。そなたの多忙、わきまえていたつもりであったが、こうも青天の霹靂とは恐れ入ったがの」
「申し訳――」
「いや、よいよい。急ぎとのこと、参られよ」
シャレムは立ち上がり、そこで未だ鳴り止まぬピアノの方へと視線を移した。
そこではエザリアが演奏を続けている。
こちらの騒ぎに気づかないはずもなかったが、彼女は演奏をやめることはしなかった。
「エザリア殿には適当に取り繕っておこう。急な腹痛、とでもな」
「そ、それはちょっと……」
「はは、冗談ぞ。間に受けられるな」
後ろ髪を引かれる思いではあったものの、シャレムはもう一度一礼し、ジークリンデと共に会場を後にした。
しばらく無言で通したシャレムは、やがて人目が無くなったところで立ち止まり、まるで親の敵でも見るかのような形相でジークリンデを睨み付けた。
「――いったいどういうおつもりですの!? このように堂々とわたくしに恥をかかせるなど……!」
相手が上司だろうと何だろうと、食って掛かるのはシャレムの常だ。
特に今夜のことは腹立たしい。
「あなたも事態を理解したからこそ、命令を受諾したのでしょう」
「だからいったい何事だとうかがっているのですわ!」
シャレムがいくら怒鳴ったところで、この鉄面皮のマスターは僅かにも表情を変えなかった。
余計に苛立たしくなる。
「昨夜、マスター・ダレッサンドロが殺害されました」
「な――」
驚く間もなく、ジークリンデは単刀直入に告げた。
「これでアトラ・ハシースの殺害は四人目。マスタークラスは初めてですが」
「四人、ですって……!?」
もちろん初耳だった。
アトラ・ハシースが殺害?
いったい何の話だというのか――
「わたくしはそのようなこと、何も存じておりませんわ!」
「マスター・アーレストの配慮です」
「お兄――マスターが……?」
思わず出掛かった言葉を呑み込み、確認する。
「ええ。今夜のことであなたは多忙を極めていたはずですから。煩わせたくはなかったのでしょう。ただし昨日マスター・ダレッサンドロが殺害され、そうも言っていられなくなりました。彼が情報を残したのです」
マスター・ダレッサンドロはアトラ・ハシースの中でも腕利きだった。
殺害した犯人が何者かは知らないが、ダレッサンドロもただでは死ななかったのだろう。
「情報?」
シャレムは嫌な予感を覚えながら、聞き返す。
ジークリンデがわざわざここまで来て、シャレムを呼び戻した理由――それはその情報に起因するとみて間違いない。
つまり彼女にとって、無縁ではないことが今回の事件の原因だと察するのは容易だった。
「シャラ=イスタ事件」
むしろ淡々として、ジークリンデは答えた。
「なん……ですって?」
「あの件に深く関わっていたアトラ・ハシースはあなたと、リーゼ・クリストです。彼女はもういませんから、あなただけということになりますが」
「あれが、何だというのですの……?」
それはシャレムにとっては苦い記憶だった。
そんな彼女に対し、ジークリンデはやはり抑揚無く答えた。
「まだ終わっていなかったということです」
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