僕はケーキを食べていない

トウヒ・ゲンカイ

僕はケーキを食べていない

「秀介が食べたんだろ!!」

 兄は憤慨した様子で部屋に飛び込んできた。僕は読み掛けの本から顔を上げると事の重大さに勘付き目眩を覚えた。どうにもこうにも状況は最悪のようだ。

 兄の話を聞くまでもなく事情は概ね把握出来たが、一応事の顛末を話すとその内容はこうだ。


 今日は母の機嫌が良いのか気分が良いのか、午後三時のおやつがいつものスナック菓子ではなくショートケーキだった。金色の特別なシールで封をされた白いケーキの箱を開けると優しく鼻の奥を擽ぐる甘い香りが周囲に広がり、たっぷりの生クリームで真っ白に装飾されたまるで美しい花嫁のような姿をしたショートケーキが二切れ入っていた。その頂で輝くのは真っ赤な苺。ツヤツヤとしたその表面はその甘さを約束してくれているように思えた。


 これは、絶対に、美味しいやつだ!

 

 美味しい物はそのクオリティを落としてはならないというポリシーを掲げてきた僕としてはこのケーキを冷蔵庫から出してすぐの今食べることは愚の骨頂でしか無く、冒涜に等しい行為だとフォークを握り締めた満面の笑みの兄を糾弾した。


 今の今まで冷蔵庫で保存されていたケーキは本来のスポンジの柔らかさを忘れて、生クリームもその滑らかさを失っている。しかしそれらは取り戻すことが出来るんだ!時間さえあれば!と兄に熱弁した。だが兄は愚かにも目の前の欲求に対し“待て”が出来ない犬のような顔をしてそのフォークを手放さない。これが赤の他人であれば好きにすれば良い。しかし彼は最愛の兄だ。この世界にたった二人きりの血を分けた兄弟だ。そんな兄が欲望に飲まれて間違った道へ進もうとしているのを黙って見送ることなんて出来はしない。


「十五分……。十五分で良いから騙されたと思って待っていて欲しい。そうだ、その間の時間潰しにタロの散歩でも行ってきたらどうかな?」

 ぎゅっと拳を握り締めて口から声を絞り出した。正直言って最低三十分は欲しい所だったが仕方がない。ケーキをすぐに食べたくて仕方がない兄を説得するには十五分が限界と見た僕は苦渋の決断をした。幸い今日の室温は十一月にしては然程低く無いので十五分でもある程度までは常温に近い所まで戻ってくれるだろう。ホールサイズで無いのも幸いだった。

「わーったよ、じゃタロの散歩に行ってくるよ」


 良かった。兄は“待て”が出来る兄だった。


 きっと心内では訳の分からない我儘を言う弟に付き合ってやる俺優しい兄貴、なつもりでいるのかも知れないが十五分後の未来では僕のことを少しは見直していることだろう。そして然りげ無く飼い犬タロの散歩まで引き受けて貰える利潤も得られた。それにタロの散歩は恐らく十五分では終わらないはずなので、実質二十分以上の時間を得られたようなものだった。これは僥倖。棚からぼた餅。十五分経ったら紅茶を準備しておいてあげよう。

 そして十五分のタイマーをセットした僕は散歩に出掛ける兄を見送り、自室で読書をしながら時間が来るのを待つことにした。

 


 --そうして今に至るという。



 そう、この兄の様子。

 眉と目が近くなり、犬のように歯を食いしばらせて如何にも怒っている兄とシレッとした僕との間を割くようにピピピピッとタイマーが音を立って時間の経過を告げる。僕は静かにタイマーのボタンを押した。部屋に静寂が訪れる。どうやらこの十五分の間にケーキが無くなったようだ。


 その後僕はギャンギャン吠える兄に引き摺られるようにリビングへと連れて行かれると、テーブルの上に二枚の皿を確認させられた。一枚の皿の上には食べ頃のケーキが鎮座しており、これは十五分前に僕が用意した姿のままだった。そしてもう一枚の皿の上にはケーキの受け皿であるアルミ紙がクリーム片一つ残さない状態で乗っていた。これは十五分前とは大きく異なる。


「お前!俺にタロの散歩させて先に食っただろ!」

 兄が僕を疑う気持ちは十二分に分かる。散歩に出掛けた兄と家に残った僕とでは如何にも僕の方が怪しいし、犯行も十分に可能だ。逆の立場ならまず間違い無く僕も兄を疑うだろう。

 しかし僕は知っている。

 僕はケーキを食べていないという事実を。


「食べてない」

「嘘つけ!」

「食べてないって。なんで十五分待とうって言った僕が先に食べるのさ」

 僕の言葉に兄は少し黙った。しかし少しだけ。何かの可能性を考え、それを頭に巡らせた後に意地悪そうに目を細めて僕を鼻で笑った。

「はん!どうせいつもの仕返しだろ?袋菓子の時に俺がいつも多めに食べてるからって今日も一緒に食べたら取られるとでも思ったんじゃねーの?だからあんな事言って時間稼ぎして、俺を追い出しあとに一人でさっさか食べたんだろ?」

 意地汚い奴。兄は僕のことをそう言うとケーキが乗っている皿に手を伸ばした。

 そうはさせるか!

 僕はその手を素早く叩いた。


「って!何すんだよ」

 兄は叩かれた手を引っ込め僕を睨んだ。

「僕じゃないって言ってるのに何で食べようとしてるのさ!」

「はぁ?お前じゃななかったら誰だって言うんだよ!お母さんか?」

 兄は大きな声で隣室でテレビを観ている母にケーキを食べたか訊いてみた。しかし日常茶飯事の兄弟喧嘩に興味のない母はテレビ視聴の片手間に食べてないという返事を返すだけだった。

「ほらな?やっぱりお前が犯人だ」

 勝ち誇ったかのような兄の顔。だけど犯人は僕じゃない。だけど母でもないとすれば一体誰が?

 ここで母を呼んで仲裁してもらった所で状況証拠だけでは母も僕を犯人として最悪あの食べ頃のケーキを兄に食べられてしまう。かと言ってこの膠着状態のまま時間が経過してしまえばケーキは最適な食べ頃を逃して劣化し始めてしまう。美味しいものはそのクオリティを落としてはならないという僕のポリシーが叫び声を上げる。

「まあ、別にこうして俺の分はちゃんと残ってたんだし、散歩押し付けられて先に食われたからちょっとムカッてしたけど許してやんよ」

 すでに勝敗は決したと言わんばかりに兄は再びケーキの皿へと手を伸ばした。

 僕じゃないのに!そのケーキは僕のなのに!

 何も言えず、手を拱いている僕の足に何かが触れた。視線を下に向けるとタロが僕の足に頭を擦り付けて遊んで欲しそうにアピールをしていた。こんな時でなければ構ってあげられるのだが、今はそれどころではない。

 

 今まさに白いウエディングドレスに身を包んだ美しい花嫁が悪漢に攫われそうなのだ。何とかしなければ。だけど武力では到底兄には敵わない。しかし真犯人に繋がる証拠も見当たらない。


 絶望しかけたその時、タロがもう一度頭を足に当ててきた。

 仕方なしに一度だけ頭を撫でてやるとタロの長くて垂れ下がった愛らしい耳に白い何かが付いているのが目に入った。

 僕は慌ててそれを確認すると、もうフォークをケーキに突き刺そうとしている兄の手を叩いた。


「って!だから何すんだよ!」


 怒る兄だが僕はもう構わなかった。

 兄の手からケーキの皿を取り戻しキッチンの方へと連れて行く。片目にケーキの状態を見るがクリームもイチゴも乾燥もしておらず、その艶は失われていないようでホッと胸を撫で下ろした。急いで棚からティーカップを取り出して紅茶を淹れる準備をする。ティーバッグにお湯を注げば乾燥した茶葉が開きその香りが湯気と上へと登ってくる。ああ、良い匂いだ。

「おい!なんでお前が食べようとしてんだよ!それは俺のだろ!?」

 抗議の声を上げる兄を一瞥すると、紅茶を一口口に含み味を見る。この紅茶がケーキに合うことの確証を得た僕はケーキと紅茶を持って再びダイニングテーブルに移動して席に着いた。

「ケーキ食べたの兄さんだよね?」

「え?」


 僕の言葉に兄は僅かに視線を逸らした。それどころか先程までの絶対的自信が霧散したように思えた。


 そうだ、犯人はお前だ。


「お、俺じゃねぇよ。だって、ほら、俺はタロの散歩に行ってたし」

「それにしては随分と帰りが早かったね?」

 そう、兄は十五分のタイマーが鳴る前に散歩から帰ってきたのだ。十五分以上掛かる筈のタロの散歩から。しかしそれだけなら、ケーキを早く食べたかった兄がタロを引きずって急いで散歩を終わらせてきたとも考えられる。

「早くケーキが食べたかったからさー、急いで帰って来たんだよ」

「タロ、おいで」

 予想通りの言い訳を聞き流して、僕はタロを呼んで抱き上げた。

「兄さん、これなーんだ」

 そしてタロのチャーミングな垂れ耳に付いた白いクリームを兄に見せてあげた。

「これって生クリームだよね?あれ?でもなんでタロの耳に付いてるんだろ?」

「そっそっか!!犯人はタロだ!タロがつまみ食いしたんだな!」

「あははは、残念。タロはお裾分けして貰っただけだよ。謂わば共犯?真犯人は兄さんだ」

「違うって!俺じゃ……」

「兄さん、口元に生クリーム付いてるよ?」


 僕の言葉に慌てて兄は口元を拭った。


 もちろん嘘だ。


 兄の口元に生クリームなんて付いていない。しかしこれで自供したも同然の兄は膝を床に突き観念してみせた。どうやら兄は“待て”が出来ない兄だったらしい。クリーム片一つ残ってないアルミ紙はタロが綺麗に舐めたのだろう。


 僕の美味しいものはクオリティを落としてならないというポリシーを逆手に取り、弟の我儘を聞いてやる優しい兄貴を装い僕を油断させてケーキを二つとも食べようとした兄の犯行はこうして未遂で解決することが出来た。


 花嫁は悪漢から救い出され僕の元へ--。


 しかし悲しいかな、兄にも美味しい状態のケーキを食べて貰いたいという弟の愛情が伝わらなかったとは。


「まぁ、別にこうして僕の分はちゃんと残ってたんだし、タロにも分けてあげたみたいだから許してあげるよ兄さん」


 項垂れて謝罪する兄を尻目に、僕はケーキを食べた。


 


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