きみのとなりにいたいぼく

indi子

きみのとなりにいたいぼく

 野菜と肉を切って炒めて煮込んでルーを入れるだけで出来上がるカレーですら、マミコは必ず失敗する。焦げて炭の味しかしなくなったり、野菜が生煮えで硬かったり。そのくせ、料理の事なんて全く理解していないのに「アレンジって大事よね」とかなんとか言いながらチョコレートやケチャップを大量投入したり。


 複雑な数学の問題や長い英文の読解はスラスラを解くことができるのに、マミコは料理ができない。きっと、料理の神様に愛されていないのだと思う。


 しかしながら、マミコは事あるごとにキッチンに立とうとするのだ。彼女が料理をするたびに呼び出されて、その様子をハラハラとした気持ちで見張らなければいけない僕の気にもなって欲しい。幼馴染という関係はいいこともあるけれど、こういった時はとても大変だ。


「フォンダンショコラぁ?」


 マミコにレシピ本を見せられた僕は、すっとんきょうな声をあげた。定期テストに向けて、マミコの家で一緒に勉強しようと誘われていったはずなのに、エプロン姿のマミコを見た時「しまった」と思った。ダイニングテーブルの上にチョコ菓子を作る材料が並べられている。マミコは懲りないところがあるけれど、僕には察しが悪いところがある。


「だって、バレンタイン近いじゃない?」


 冷蔵庫に貼られている二月のカレンダーには、マミコが書いたであろう大きな赤いハートマークがある。その日は十四日、バレンタインデーだ。


「無理だって、やめとけ」


 僕はマミコから押し付けられたレシピを見る。


 コンロの火にかけて温まった生クリームにチョコレートを入れてチョコガナッシュを作る、薄力粉とココアパウダーと卵黄と溶けたチョコを混ぜたものに、メレンゲを入れて生地を作る。レシピには「とっても簡単に作れる!」なんて書いてあるけれど、このレシピを作った人はマミコのことはひとつも知らない。超絶料理音痴のマミコに、沸騰させないように生クリームを温めるとか、角がピンと立つまで卵白を泡立てるとか、出来るわけがない。


「うん、無理だ。やめとこーぜ」



 レシピを一通り見た僕は、マミコにそれを突き返した。しかし、マミコは諦めるということを知らない。


「えー! お願いシュンちゃん! シュンちゃんだけが頼りなんだけど……」


 バレンタインデーが近づくにつれ、僕らが通う中学校でも女子たちが浮足立ってきた。休みの日にみんなで集まって作る計画もちらほら耳に入ってくるくらい。しかし、マミコはそこには決して呼ばれない。クラスどころか学年中、いや学校中がマミコの料理音痴を知っているからだ(調理実習で真っ白なクリームシチューを作るはずだったのに、マミコの手によって真っ黒な炭化シチューが出来上がった話は僕が所属しているサッカー部の先輩ですら知っていた)。


 だから、マミコは僕に頼ってくる。

 いや、マミコは料理をするときしか僕を頼りにしてくれない。


「無理して作らなくても。市販のやつでもいいじゃん」


 僕の姉や母がこの時期に買ってくるチョコはキラキラと光っていて見栄えもいいし、何よりもおいしい。フォンダンショコラは去年姉が買ってきてくれたものを食べたけれど、その味は今でも思い出すことができるくらい美味しかった。マミコが作る物よりも、絶対に既製品の方がいい。



「お願い! この通りだから!」

「もう絶対にマミコの手伝いはしないって決めたんだ、僕は!」


 僕の決意は石よりも固い。


「もし手伝ってくれたら、シュンちゃんのお願い、なんでも一つ聞くから! お願い!」



***



「それでポキッと折れたのか、シュンの決意とやらは」

「悪いかよ。笑えよ」

「いや、相変わらずシュンはちょろくていいなって」


 僕の友達のナカムラも呆れている様子だ。僕は机に額をつけて、大きくため息をつく。


 今日はバレンタインデー、普段は厳しいけれどこの日に限ってはチョコの持ち込みが解禁されている僕の中学校では朝からほのかにチョコレートの香りがする。しかし、そんなイベントごとの蚊帳の外にいる僕たちには関係のない話だった。僕もナカムラも、未だに獲得数は『ゼロ』だ。


「マミコちゃんって、マツザキ先輩にチョコ渡すんだろ?」


 マミコがマツザキ先輩にほんのりと恋心を抱いていたのは、僕は一年前くらいから知っていた。僕が初めてベンチ入りしたからといって、マミコはサッカー部の練習試合の応援に来てくれた。けれど、終わった後に感想を聞いてみたら、話題に上がったのは後半に少しだけ試合に出してもらった僕の事ではなく、エースのマツザキ先輩のことばかりだった。


 僕はこの時、二つの事実に気づくのだ。マミコはマツザキ先輩の事を好きになったという事と、僕はずっと好きだったマミコに対して失恋したという事に。それをナカムラに打ち明けたら、ヤツは僕の肩を叩いて「どんまい」と軽く慰めるだけだった。


「競争率高いよな、マツザキ先輩モテるじゃん。去年は受け取ってもらえなかった女子もいたらしいぜ。マミコちゃん、もし渡せたらすごいよな」

「それよりも、チョコ作りを無事に成し遂げることをできた僕を讃えてほしいね」


 マツザキ先輩へのフォンダンショコラ作り、本当に大変だった。


 弱火にかけているはずの生クリームはうっすら焦げ臭くなり、隙あらば隠し味を加えようとするマミコから生地を守り、果てにはハンドミキサーから煙が出て使えなくなってしまい……メレンゲは僕が泡立てる羽目になった。マミコ作のフォンダンショコラと言うより、僕が八割以上作った僕の手作りフォンダンショコラだ。そんなものをマツザキ先輩に渡すのかと思うと、僕が先輩に告白するのかととても恥ずかしくなる。


「……それに、マツザキ先輩、彼女いるんだよな」

「え? マジで?」

「マジで。僕、前見たもん」


 部活が終わった後、校門のあたりで女子と待ち合わせをして帰っていくマツザキ先輩の姿を。きっとマミコだけじゃなくてその他大勢のマツザキ先輩に憧れている女子たちがショックを受けると思って、この話は誰にもしていなかった。ナカムラは「あちゃー」と目を手のひらで覆った。


「それじゃ、失恋確定なのか、マミコちゃん」

「そうなるね」

「あんまり話した事ないけど、そう聞くとかわいそうだな」


 僕はそうだね、と頷いた。脳裏には、フォンダンショコラをラッピングするマミコの横顔が思い出されていた。ほんのり頬を染めて、何かを期待するかのような表情。それは恋する乙女そのものだった。僕の胸は焦げるような痛みを覚えていた。


「でも、俺はお前の方がかわいそうだよ、シュン」

「どうして?」

「だって、好きな子が好きな相手に渡すチョコ作り手伝わされて……こういうのを、敵に塩を送るって言うんだろ?」

「でも、僕にはそれしかできないからなぁ」


 僕だって、マツザキ先輩のためにフォンダンショコラを作るマミコの手伝いなんて、出来ればしたくはない。でも、マミコが料理をするときに頼りにできるのは、もうこの世界に一人しかない。マミコの料理は怖いけれど、マミコが僕を頼ってくれるのは嬉しい。


「バレンタインデーに逆告白でもしちゃえばいいのに。いつまでも幼馴染でいてくれるとは限らないんだしさ」


 ナカムラの言う通りだ。僕たちは少しずつ成長していて、いつかはこの単純な幼馴染という関係もなくなってしまうのだろう。


 でも、もしマミコに告白なんてしてしまえば、きっと今の関係は崩れてしまい、互いに気まずくなってしまうに違いない。それなら今は、このつかず離れずの幼馴染、マミコの都合のいい時に利用される関係に甘んじていた方がいい。その方が、マミコの側にいることができる。


 ついに僕もナカムラも一個もチョコをもらえることなく、今日も一日終わってしまった。部活のあるナカムラと別れた僕は、ぼちぼちと玄関に向かう。なんだか今日だけで、学校内のカップルがどっと増えた気がする。


「あ、シュンじゃん」

「マツザキ先輩……」


 玄関につくと、マツザキ先輩に遭遇した。首にはもこもことした温かそうなマフラー、スクールバッグを担ぐその姿は快活なスポーツ少年そのままだ。

 マツザキ先輩のいい所と言えば、ベンチを温めるだけの存在である僕にもこうやって親し気に声をかけてくれることだ。


「先輩も帰りですか?」

「そ。これから約束もあるし……」


 先輩の視線の先には、髪が長くてすらっとした女子生徒がいた。その姿、僕にも見覚えがある。いくら察しの悪い僕でも、二人の間にある甘い雰囲気に気づくことができる。「あー」と言いながら頷く。マツザキ先輩は靴箱をぱかっと開けて、「あ」と呟いた。


「あー……まだあったよ、困るんだよな」

「へ?」


 マツザキ先輩の手には花柄の便箋があった。きっと、いや、間違いなくそれはラブレターだ。……もしかしたら、マミコがマツザキ先輩に宛てた手紙かもしれない。僕はさっとそこから視線を逸らす。


「今日一日で何人も女の子がチョコ持ってきてくれたけどさ……申し訳ないけど、今日は全部受け取らないで断ったんだよ。彼女は嫌な気分になるところなんて見たくないし。でも、ここにきて手紙かぁ」


 先輩が言ってることは、とても彼女思いな優しい彼氏だ。でも、ひらひらと揺れる封筒を見ていると僕は何とも言えない気持ちになる。マミコの恋する気持ちと先輩の男前な考え、僕の中で秤にのせてどちらに傾くかなんてわかりきったことだ。


「こういうの貰っても困るんだよな。そうだ、シュン、捨てておいてよ」

「え? ぼ、僕がですか?」

「そ、俺もう行かなきゃ。またな!」


 手紙を僕に押し付けた先輩は、彼女の元に走り去っていく。


 誰かが意を決して書いたラブレター、僕が一生涯かけても貰えないもの。それをマツザキ先輩はいとも簡単に捨てて、彼女の元に向かっていく。


 お互い、手に届かないものを好きになってしまったのだと小さく笑った。僕はその手紙の主に小さな声で謝って、小さくたたんで、カバンの奥深くに仕舞いこんだ。バレンタインデーの熱が冷めた頃に捨てようと思いながら、外靴を履いた。マミコの下駄箱を見ると、もう帰っている様子だった。


 マツザキ先輩は「誰からもチョコは受け取らなかった」と話していた。マミコもきっと今、失恋のショックでボロボロになっているに違いない。……幼馴染として、ここは慰めておいた方がいいかな。そんな事を考えながら、僕は帰路についた。


 こんな時、なんて声をかければいいのだろうか?


 どんまい! とか? これじゃ軽すぎてマミコの逆鱗に触れるかもしれない。


 男なんて星の数ほどいるんだから気にすることないよ! とか? でも、その『星の数』いる男の中に僕の存在は入っていない。


 うだうだと考えていると、あっという間に家の近くまでたどり着いた。顔をあげると、僕の家の間で誰かが待っているのが見えた。その姿はもう何万回も見ているからすぐに分かる――マミコだ。


「よっす」


 僕は失恋したてであろうマミコを傷つけないように、あくまでも自然に声をかけた。


「あ、シュンちゃん」


マミコの耳が赤くなっていた。手には小さな紙袋、その中には僕とマミコが作ったフォンダンショコラが入っているのだろう。マツザキ先輩に渡せなかったものが。


「あのさ、残念だったな」

「え?」

「元気出せよ、な?」

「何の話?」

「だから、それ、渡せなかったチョコだろ?」


 僕が紙袋を指さすと、マミコは首を横に振った。


「だって、マツザキ先輩、今日はチョコ受け取らなかったって」

「マツザキ先輩? シュンちゃんのサッカー部の先輩だよね」

「そうそう」

「その人がどうかしたの?」


 僕たちはそこで、なんだか互いに食い違っていることに気づく。


「あれ? マミコ、マツザキ先輩の事が好きなんじゃ……」

「え? なにそれ! 誰がそんな事言ってたのよ!」

「だって、去年僕が出た練習試合見に来たとき、ずっとかっこいいって言ってただろ」


 だから、僕はマミコがマツザキ先輩の事が好きなんだと思ったんだよ。そう告げると、マミコは大きくため息をついた。


「シュンちゃんって、肝心なところで察しが悪いよね」

「何だよ、それ」

「私がチョコ渡したいのは、その先輩じゃないよ」

「じゃあ、誰なんだよ」


 ここで二度目の失恋をするわけか、と僕が覚悟を決める。しかし、マミコの行動は僕の想定の範囲外にある物だった。


「はい」


 僕の胸を拳で殴るように、紙袋を差し出した。


「は?」

「あげる」

「どうして?」

「ここまでして気づかないとか、シュンちゃん、バカなんじゃない?」


 マミコの耳、顔、首まで真っ赤に染まっていく。僕がそれを受け取ると、マミコは大きく長くため息をついた。


「これ、僕に?」

「そう。去年、フォンダンショコラが美味しかったって言ってたから……私も作ろうと思って」

「でも、これ作ったのほとんど僕だけど」

「私の気持ちが詰まってるからいいの!」

「マミコの気持ち?」

「全部言わないとわかんないの!?」


 いや、ここまで来たら僕だって分かる。紙袋を持つ手はかすかに震え、顔が熱くなっていく。


「む、無理に返事とかしなくていいから。ホワイトデーまで全然待てるし。じゃあ、私はこれで」


 そう言って帰ろうとするマミコの腕を、僕は気づいたら掴んでいた。マミコは驚き、目を大きく丸めている。


「一緒に食べようよ。ちょっと時間かかるけど、お茶も淹れるよ」

「……いいの?」

「だって、これ作ったとき、何でもお願い聞いてくれるって言ってたじゃん。それ、今使う。それに……」

「……それに、なに?」

「返事、ホワイトデーまで、待ってられないから」


 一緒に食べながら、僕は僕の気持ちをマミコに打ち明けそう。そう決意していた。僕の決意は、石よりも固い。

 それは、決して揺らぐこのことのない――まっすぐな気持ちだ。

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