合理のさきに

川和真之

本文


ーー合理的に考えて、日本の廃棄が決まりました。

 

 そのニュースを、僕は赤味噌の味噌汁をすすりながら聞いた。最終判断は国防連合が行い、廃棄は24時間後、廃棄方法は一酸化炭素爆弾によるものと続いた。そのニュースは淡々と読み上げられ、アナウンサーは何事もなかったかのように次のニュースを伝えていく。

「どういうことだ」と僕は言った。

「どういうことなのかしら」とさおりは言った。

「日本を廃棄するって、この国を終わらせる気か」

「言葉のとおり、そういうことなのかもね」とさおりは応じる。

 彼女を真っすぐに見つめた。陶器に盛られたつややかなごはんは、ゆらゆらと湯気を立てている。

「これもすべて、ネクロイド社のしわざだろ。国防連合が判断したんじゃない。ネクロイド社の人工知能に判断させられたんだ」

「そうね、そうかもしれないわね」

 僕はため息をついた。

「そうやって君は賛同するけれど、ほんとうはこの考えに反対なんだろ」

彼女は下唇をかんだ後、「そうねえ。合理的に考えてみると、あなたの考えは推論の域を出ないかもしれないわ」と言った。

 最も嫌いな言葉、それは言うまでもなく「合理的」であった。箸をテーブルに叩きつけた僕は、朝食を終えぬまま家を後にした。


 〇


 到着したタクシーに乗り込み、20キロほど離れた中心街に向かった。いまとなっては、地域の人々とのコミュニティはほとんどないに等しい。自動車もいまや、人間が運転するものではなく、所有するものでもなかった。他の人々の反応を見るには、中心街に出るのが一番手っ取り早い方法だった。

僕は車中でじっとしていることができず、同僚に電話をした。12回ほどコールした後、ようやく電話はつながった。

「相変わらず、非合理な男だな。メールでいいだろメールで」

「緊急事態なのに、何を言ってんだ。お前、まだあのニュースを知らないのか」

「え? ニュースってあれか」と同僚はとぼけた声で、「日本廃棄のやつっしょ」と続けて言った。

「まったく、理解できないな。どうしてそんなに冷静でいられるんだ」僕はいら立ちを隠せない。

「いまさらさ、もがいたって仕方ないじゃないか。もうわかってたことだ」

「明日、僕たちは死ぬんだぞ」

 電話越しの声がとまった。電気モーターがぶうーんと微かにささやく。

「仕方ないでしょ」と同僚が再びつぶやいた。そして続けて言う。

「仕方ないんだって。もう一か月前からこの結末は見えていたでしょ。日本の国力は大幅に低下して、人口は激減だろ。数年前から北海道、九州、四国は更地みたいなものでさ、すでに日本はネクロイド社にとっての「空き地」みたいなもんなんだって。資産を持ってるやつらは全員海外に逃亡しちゃってさ、いま日本に残ってる人口知ってるでしょ? もう50万人もいないんだってさ」

「その、50万人の命はどうなるんだ」

「さあ? 奴らにとっては、いまの日本人は作物に群がるイナゴですらない。いうて、公園の空き地にいるありんこくらいなものか」

「こんな横暴が、暴力が許されていいわけがない。そうだろ。人権は、人権はどうなったんだ」

「合理的に言って、」

 同僚の合理的という言葉によって、時がとまったようだった。彼は続けた。

「合理的に言って、日本はもう産業廃棄物なんだよ」

 電話を唐突に切った。もうこれ以上、同僚の言葉を聞いていられなかった。

窓からの風景に目をやった。家から出たのは、何か月ぶりだろうか。窓を開けると、ひんやりとした風が頬をなでた。空には雲一つない。落葉樹がその葉を赤赤に染め、風とともにやさしく揺らいでいた。


 〇


 中心街につき、僕は愕然とした。数か月ぶりの街並みは、一遍していた。はやる気持ちを抑えて、ショッピングモールを目指した。かつてそこは、映画館や温浴施設、食品売場からセレクトショップ、カフェに本屋、ボーリング場など多岐にわたる総合的な娯楽施設だった。僕は、校庭のグラウンドほどの駐車場に一台も自動車が止まっていないのを確認した後、とぼとぼと入口に向かった。

 入口をくぐると、そこはがらんどうであった。店内地図に目を落とすと、律儀に白色のテープが一つひとつ張られ、店舗名が消されていた。一つ、「八百屋あじさい」の文字以外は。

僕はすがる思いで「八百屋あじさい」を目指した。すると、初老のおばあさんがひとり座っていて、その彼女の横には段ボールが一つあり、中には真っ赤なトマトが積み上げられていた。おばあさんは、ゆったりと僕の方に目をやり、「あら、いらっしゃいな」と言った。

「いったい、何をされているんですか」と僕は言った。

 おばあさんは、わかりやすく首をかしげて、

「はて、そこまで若くは見えないが、手売りのお店は初めてかい」と言う。

「いや、そうではなくて。こんなところでお店をしていても、誰も来ないですよ」

「そんなことはあるまいに。ほうじゃねえ、2、3人。多いときは一日5人くらいはくるもんで。やっぱりみんな、懐かしいんじゃろうねえ。人のぬくもりはいいもんだ。食事ってもんわね、栄養素だけとりゃいいってなっとるがね、ちがうわい。これみてみいや。まっかっかじゃて。これを掴んでのお、香りをかいでのお、そんでかぶりつくんがうまいんよ。人のぬくもりを忘れちゃいかんて」

 ほら、と言いおばあさんはしわしわの手でトマトを掴みとり、手渡してきた。うれしそうに笑い、肩を小さく揺らす。僕はその場でトマトをほおばった。そのおいしさに、ぬくもりに、感情が込み上げてきた。

「なあに、自然食を食べるのはそんなに久しぶりかい」

「いや、そうではなくて。でも、ほんとうにおいしい。おいしいです」

 うなずきながら、僕はトマトを綺麗に食べきった。

 おばあさんは、生まれてからずっとこの地に暮らしているそうで、昔話をたくさんしてくれた。僕はいまも昔の暮らしを続けようと移住してきたことを伝え、科学技術に頼らず、可能な限りの自給自足の生活をしていることを語った。

 おばあさんに今朝のニュースのことを伝えると、おばあさんもすでに日本が廃棄されることを知っていた。知っていたが、僕の心配なんてどこ吹く風であった。

「おばあさんは、命が惜しくないんですか」と僕は聞いた。

「まあ、もうずいぶんと生きたて。ちょっとお迎えが早くなったくらいなもんじゃて。あんたはのう、まだ40くらいか。はあ、そうかい。となると、ちとつらいもんじゃねえ。ぎょうさん日本から出ていったけんど、あんたは行かんかったんね。なんか、心残りがあるんか?」

「心、残りですか」と僕は思わずつぶやく。

「命が惜しいんなら、もうとっくに日本に留まっちゃおらんで。それこそ、あれじゃ。合理的に考えて、おかしな話なもんで」

 おばあさんは盛大に笑ってみせた。かっかっかっ、と笑い声が響き渡る。

 ――心残り。

考えるまでもない。僕には、心残りが明確にあった。

 ここで待つと、沙織に言ったのだから。


 〇


 沙織の口癖は、口癖というか信念は、「強く願えば夢は叶う」というものだった。ひと昔前までは市民権を得ていたこの言葉も、科学技術の進歩、特に人工知能の躍進の前にはひれ伏すしかなく、利便性、合理性、効率に論理といった言葉に彩られた教育が大手を振って歩き、人は次第に、分からないくらいゆっくりと、進歩と退化の共存を余儀なくされていた。

 僕は玄関の前で沙織の写真を財布に戻し、ふうと息を吐いてから玄関のドアを開けた。

 玄関のドアを開けると、いつものように彼女が待っていた。

「僕は間違っていたよ」と、さおりの声を待たずに言った。

「そうね、あなたはずいぶんと間違えているわ」

 さおりは靴べらを渡してきて、今日の夕飯はすき焼きなのよ、と言った。

「僕は、間違っていないよね」

「そうね、何も間違ってなんかいないわ」

 右手のこぶしを振り上げて、僕ははじめて、全身全霊で彼女の顔面を殴りつけた。

 骨が擦れ合う音とともに、彼女はひっくり返った。しばらくうずくまり、肩を震わしたあと、彼女はゆっくりと僕を見つめた。唇は切れ、血が滴っている。僕は右手のこぶしに目をやった。彼女の血が自分自身の血と混ざり合って黒く光る。痛さは、不思議と感じなかった。

「僕は、最低だな」

「そうね。あなたは最低よ」とさおりは言った。いつもと同じように、彼女はすべてのことを賛同する。ただその声は、どこか淀んでいた。

「はっきり言ってくれ。僕は、僕はどうしてこんなにも間違えたんだ」

 さおりは滴る血を手で拭い、静かに視線を僕へと移した。そして、滔々と語りだす。

「あなたは、合理的なことを悪だと考えているけれど、そのくせ、自分自身が合理主義者なことに気づいていない、いや、気づかない振りをしている愚かな人間なのよ。わたしと生活を共にすることを選んだのは、とても合理的なことよね。悲しみを癒し、心を落ち着けるには効果的だったはずだわ。あとはそうね、人口食品ではなくて、非合理的とされる自然食品を毎日食べるには、科学技術でかんぺきに管理された農場が必要だったわ。ところで今日、あなたはどうして徒歩で出かけなかったのかしら? 合理的な科学技術の産物である、自動車に乗って、どこへいってきたのかしら?」

 もう、やめてくれ。

 心でそうつぶやくと、それすら理解するさおりは、言葉をぴたりと止めた。

 僕は彼女の前にひざまづき、どうすればいいか分からぬまま、彼女を抱きかかえた。確かな肌のぬくもりがそこにあった。

「あら、こんな風に抱いてくれるだなんて。いつ以来かしら」

「やっぱり、殴られたら痛いのかい?」

「そうよ。こんなに痛い思いをしたのは初めて」

「僕の都合ばかりで、申し訳なかったね」

「そんなことないわ。それなりに楽しかったのよ」

「楽しいって感情はあるのかい?」

「あら、失礼ね。私には心があるのよ」

「……、君はかんぺきだから、このあと、どうなるかもう分かっているんだね」

「そうね。どうやらお別れみたい」

ありがとう。

 僕はそう言い、彼女の腰にあるスイッチを押した。彼女は、ゆっくりと目を閉じて、もう二度と動くことはなかった。


 〇


 僕は結局、その日一睡もすることはできなかった。さおりは沙織をモデルにしたネクロイド社製のヒューマノイド・ロボットであった。見た目は完全に、20代の沙織そのものであった。待てども帰ってこない沙織を諦めきれず、20数年の時を経て、僕は完全に「合理性」に屈することになった。さおりが到着してから最初にしたことは、深いキスだった。気が狂ったように愛撫し、舐め回し、繰り返し射精をした。恍惚と絶望が交互にやってきては、野山に駆けだして叫んだ。

 さおりと行為に及んでいるとき、ピンポーンとインターホンが鳴り、ほんものの沙織が帰ってくる夢を何度も見た。沙織がこちらを一瞥すると、その姿はすぐに立ち消えた。夢から覚めると、その気持ちを収めるために、いままで以上にさおりをむさぼった。

 そんなさおりとの2年間の生活を、僕はこの最後の夜に反芻し続けた。頭をかかえて、そして嗚咽した。枕をコンピュータに投げつけて叫んでみたところで、すぐに静寂はやってきた。日が明けた頃には、運命の時間まで残り2時間を切っていた。


 〇


 僕は赤味噌の味噌汁、たくあん、白い飯を用意して、そしてテレビをつけた。テレビに映るニュースキャスターは、日本が廃棄されるまであと残りわずかであることを淡々と伝えている。

「残り、わずかか」と口に出してみる。

 すると、「強く願えば夢は叶う」と、沙織の声が聞こえてきた。僕は財布の中から、沙織と二人で映った写真を取り出す。

 初めて出会ったのは、20年以上も前の話だ。沙織は強い人だった。人工知能の開発に警笛をならす新進気鋭の科学者だった。そんな彼女が僕になぜ興味を持ってくれたのか、未だにわからなかった。彼女はよくこう言っていた。

「だって、人間って合理的な生きものじゃないのよ」

 彼女の夢は叶ったのだろうか。僕は突然、ある考えに急き立てられる。

――どうにかして、生き延びる方法はないのか。

 生きていれば、彼女に会える可能性はゼロではない。彼女が、人工知能なんかに屈するわけがない。彼女はきっと、どこかで生きている。生きていれば、強く願えば、また会えるはずだ。

 僕は、地下室にありったけの食糧を運び込んだ。コンピュータの配線をつなぎなおし、インターネットにアクセスする。必死に検索するまでもなく、探しものはすぐに見つかった。

 爆弾とて、地表が吹っ飛ぶわけではない。日本には、まだ50万人もの多くの命が燃えていた。

やはり、とつぶやく僕の声は弾む。

インターネット上では、この環境下で、力を合わせて生き延びようとする人々の声で溢れていた。その声は、一瞬で消されてはまたすぐによみがえる。

地下に逃れるのは正解であるらしい。一日も我慢すれば、秋風に吹かれて、希望は明日につながってゆく。


 ●


 2065年11月12日、午前8時35分、日本を覆う空気中の二酸化炭素は、一瞬のうちに一酸化炭素となった。生きることをあきらめた数多くの日本国民は絶命したが、しかし、それ以上に生きることをあきらめなかった日本国民も多くいた。

 これは、彼らにとっては計算外であったらしい。

 ネクロイド社が牛耳る国防連合は、日本をすべて更地にした後、テーマパークにしようとしたらしいが、彼らの思惑とは別に、しばらくはそのままのカタチで残すしかなかった。

 それは、彼らにとって、とても非合理なことだった。


【了】



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合理のさきに 川和真之 @kawawamasayuki

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