第1話 日常の終わりは突然に①


 授業終了を告げるチャイムが、秋を彩る山々にこだました。

 自称進学校であり、そこそこの偏差値と最悪の立地、そして最高の景色を誇るここ都立滝ノ沢高校は、生徒の自主性とやらを最大限に尊重する教育方針だ。その自由な校風は、地元中学生のちょっとした憧れであり、毎年まあまあの倍率になっている。年を追う毎にレベルは上がっているらしく、この前ふと思い立って偏差値を調べたところ、目を疑うほどの数値が出てきた。おかしいなぁ。体感もう少しおバカなイメージなんだけど。あれかな、受験で縛られてきた欲望がこの開放感で一気に解き放たれちゃってんのかな。

 ともあれ、元気があるのは悪いことではない。うちのクラスメイトたちも自由な校風にあやかり、部活やら塾やら遊びやら、思い思いの放課後を過ごすためにさっさと教室を出て行った。おかげでこの教室の開放感まで爆上がりしている。

 ━━やっぱ開放感あり過ぎなんじゃないのこの学校。

 今日とて誰と話すでもなく頭をフル回転させながら、俺も放課後の解放感とともに教室を出た。

 この場所、東京の外れにあるだけあって土地だけは有り余っている。そのため敷地面積はめちゃくちゃ広い。校舎はホームルームメインの本棟と特別教室がある特別棟に分かれており、二棟は二階にある職員室の前から伸びる渡り廊下で繋がっている。それぞれ五階建てになっていて、本棟三階が一年生、四階が二年生、五階が三年生となっている。ちなみに俺は、二年だから四階の教室を使っている。この広い学校で、およそ千人の生徒が日々青春しているのだ。

 ま、俺みたいな青春のせの字もないような奴もいるけどな。俺とか熟れ過ぎててむしろ赤いまである。しんど。

 四階の教室からやっとのことで下駄箱に辿り着き、靴に履き替えようとした時、何かを忘れているような気がして何となくエナメルバッグの中を覗いた。いつも通りなら筆記用具以外は特に何も入っていないはずだけど……、今日は一枚のプリントが入っていた。その紙切れを見て、先程出された課題のことを思い出した。

 そう言えば、数学の課題が出たんだった……。

 授業をちゃんと聞いている優良な生徒であれば、何も持っていなくても課題に出される程度の簡単な問題なら屁の河童だろう。しかし、俺は違う。何だかかっこつけて言ってしまったが、普通にわからないし苦手だし、その上授業も聞いてない不良生徒だから教科書がないと解けない。

 また四階まで戻るの面倒だなぁ。

 こんなにも開放的な学校なのに、心なしか束縛されているような気分になって来る。いやまあ、あれもこれも全部自分のせいなんですけどね。知ってます。

 重い足取りで教室の近くまで戻ると、教室内から話し声が漏れていることに気付いた。俺が帰る頃には、もう生徒はほぼほぼいなかったのに……。ちょっと気まずいなぁ。

 急に開けて変な空気になっても困るので、一旦外から覗いてみることにする。

 身を隠しながらちらりと見ると、窓際付近に男女が向き合って立っていた。何やら深刻そうな雰囲気だ。がらんどうの教室に真っ赤に燃える斜陽が注ぎ込み、まるで彼らの檜舞台のようだった。自然が作り出す最高級の演出に、思わず息を呑んで見入ってしまう。

 「好きです。俺じゃ、……ダメか?」

 何だか少し弱気な、けれど覚悟のある声が教室の外までよく通った。彼は唇をわななかせ、拳に力を入れる。

 「……ごめんなさい」

 そんな全身を紅潮させた彼を一瞬で凍り付かせるほど冷たい声で、彼女は答えた。

 彼のことを一直線に見つめる目は冷え切っていた。開かれた窓から吹き込んだ風が、ドアの隙間を塗って肌を撫でる。俺は思わず身震いした。

 「……んでだよ」

 そろそろ寒いし、手っ取り早く教科書を獲得して帰りたいなぁなんて思っていた手前、彼がわなわなと震え出した。みるみるうちに顔面が赤くなっていく。あー、これあれだ。ちょっとまずいやつなんじゃない?怒っちゃってるよあれ。うわぁ、面倒なことになりそう……。

 俺のそわそわなど露知らず、予想通りというか何というか、彼は女の子の腕を強く掴み、声を荒げる。

 「あんなに好意的だったじゃねぇかよ! 思わせぶりなことしやがって!!」

 自分の勝手な勘違いを棚に上げ、理不尽にも彼女を責め出した。あちゃー、逆ギレしちゃってるよ恥ずかしい……。しかしこれはまずい。女の子のことは傷つけちゃいけないって、幼稚園で習わなかったのかしら?

 ただでさえ広い学校内を行ったり来たりしてうんざりしているのに、厄介ごとに巻き込まれてしまって気分は沈む一方だ。いや、助ける義理なんてないけど。

 「っ!? 辞めてってば!! 痛いっ!」

 彼女は身をよじり、必死に抵抗している。気が強そうではあるが、やはり女の子。力の差は歴然だった。あー、ほんと、面倒くさい。

 意を決し、俺は教室の戸を開いた。

 空気がピリついているのを肌で感じる。空気が重い。胃がキリキリする。

 「あー、いや、ごめん。ちょっと忘れ物……」

 最悪の状況だ。場が凍り付いている。彼が空気読めよ的なオーラをふんだんに纏って、ギシギシ歯ぎしりしている。そんなカリカリすんなよ……。禿げるぞ。

 さて、どうしたものか。目の前には手首を掴まれた女の子、男は興奮状態。今にも取っかかってて来そうな雰囲気で睨み付けてきている。穏便に済ませる方法ないかなぁ……。何とかしないとなぁ……。俺忘れ物取りに来ただけなんですけど。

 突然訪れた静寂が実体を持って首を絞めつけて来るような、そんな感覚だ。次第に口渇感も強まり、なかなか声が出ない。そんなカラカラに干からびた喉を絞り、言葉を発す。

 「あと、その、えー……」

 女の子の方、名前何だっけ……。確か一年の時も同じクラスだったはずだけど、全然覚えがない。まさか名前覚えてないことがこんなところで仇になるとは……。

 「あの、その彼女の方、なんか清瀬きよせ先生が呼んでたぞ」

 名前がわからないので、一旦三人称で代償する。わからないもん。仕方ないね。

 というか、言って気付いたけど、名前わからないのに先生からの伝言を正確に本人へ伝えられてるって変な話だよな。

 「え、ほんとですか? ごめん、私行かないと」

 その言葉を聞いてようやく、彼は手を離した。彼女は手を離されるとすぐに彼から距離を取り、そそくさと準備をすると、教室を出る。

 廊下から、逃げるように去る足音が聞こえてきた。

 よかったぁ。取り敢えずは何とかなった。

 はてさて、教室には男二人だけが残され、夕暮れ時の冷気が流れ込む。このまま二人でいるのも気まずいことこの上ないし、俺もさっさと教科書取ってここから脱出しよう……。

 放心している彼をよそに、窓際にある自分の机から教科書を探す。そして、無造作に放り込んであった数学の教科書を見つけると、俺もさっさと教室を後にした。息詰まりそうだし。

 その帰り際、魂を抜かれたように一人佇む彼を、俺は振り返ることが出来なかった。

 乱暴は良くないが、彼も必死に前に進もうとしたのだ。その決意だけは、尊重したい。同時に、何もない自分がとてつもなく空っぽな人間に思えた。

 木枯らしが、鮮やかな葉を地面に振り落としていく。

 今年もまもなく、冬がやって来るのだろう。

 そう言えば、清瀬先生が呼んでるって大嘘なんだけど、事後処理どうしようかな。まあいっか。明日は明日の風が吹くって言うし。出来れば南風が吹いて欲しいなぁ。


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ヒーローになれなかった主人公 三越 銀 @Gin_Mitsukoshi

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