ラストチャンスです、金村くん

白里りこ

Поторопись!


「あわわ……」


 金村かねむらくんは椅子の上でのけぞって、天井を仰ぎ見ていた。


 恋のおまじないについて書かれたサイトを映し出していたスマホの画面が、大きく波打ったかと思うと、中からにゅうっと真っ黒い巨大な何かが飛び出してきたのだ。


「こんにちは」


 そいつはそう言って全身を表すと、ふわりと舞い上がった。

 黒く光る禿頭、ガリガリに痩せた体、見事な太い角、銀色のまなこ


「どうも、悪魔です。金村くん、こんな記事を読んでいる場合ではありませんよ」

「へー、悪魔って本当にいるんだなぁ……」


 感心して言う金村くんの肩を、悪魔はガッシリと掴んで揺さぶった。


「いいですか。キミの意中の相手である弓木ゆみきさんは、今日限りでそこのコンビニのアルバイトを辞めます」

「そうなの?」

「そうです。シフトは十七時まで。告白するなら今が最後のチャンスですよ」

「そっかあ」


 金村くんは眼鏡をかけなおし、机上の目覚まし時計を確認した。


「あと五分?」

「あと五分ですね」

「大変だ。あの店を辞められたら、もう接点がなくなっちゃう」

「手助けして差し上げますから、一緒に行きましょう」


 金村くんは椅子を蹴立てて立ち上がった。クローゼットを開いて紺色のダッフルコートを身につけ、赤い手袋を装着する。部屋を出ながら、白いマフラーを首周りにぐるぐると巻きつけた。

 トントンとスニーカーを履きながら家のドアを開けると、凍てつく冷気が吹き付けてきた。冬の日は短く、外は既に真っ暗である。

 金村くんは寒さに身を縮めながら、愛用の自転車〈ダスビダーニャ号〉に跨った。


「さあ行こう」


 金村くんは猛烈な勢いでペダルを漕ぎ出した。


「おやおや! 金村くん速いですね!」


 悪魔は翼をバサバサさせて浮遊しながら、金村くんにピッタリとついてきた。金村くんはそんな悪魔には一向にお構いなしで、シャカシャカと車輪を高速で回してゆく。


「急げや急げー」


 この辺りは人通りも車通りも滅多にないので、金村くんは遠慮なく爆走することができた。暴走族にも引けを取らない豪快な走りっぷり。人目も草も枯れ果てた寂しい冬の景色が、恐ろしい速さで次々と後方へ流れては消えてゆく。


「いやぁ、こんなに速く自転車を漕ぐ人類を私は見たことがありません。いっそ競輪の選手にでもなったら如何です? 君なら天下が取れますよ」

「遠慮するよ。僕はロシア文学の研究者になる男だからね。そのための一人暮らしだ」

「それは、失礼しました」


 悪魔はぺろりと紫色の舌を出した。


「しかし気をつけて下さいね。所々、道が凍っていますよ。そんなにスピードを出しては……」


 つるっと、自転車の前輪がスリップした。あっという間にハンドルを取られた金村くんは、コントロールを失い、そのチャンピオン級の素晴らしいスピードのまま、電柱に真正面から激突した。衝撃で金村くんは路上に叩きつけられ、ごろごろと転がった。


「ああ、言わんこっちゃない」


 スケートリンクのようになっている地面の上で、もがきながらもなかなか立ち上がれないでいる金村くんを、悪魔はヒョイと持ち上げて助け起こした。


「ありがとう、悪魔」


 そう呟いた金村くんは、一瞬にしてボロ雑巾に成り果ててしまっていた。コートは泥で汚れ、ズボンはダメージドジーンズと化している。額と膝小僧からはじわじわと血が染み出していた。吹っ飛ばされていた眼鏡を悪魔が拾い上げると、それにはヒビが入っている始末だ。

 自転車は完膚なきまでに壊れてしまっていた。前方の金属部分がぐねぐねと現代アートのような珍妙な形にひしゃげており、とてもではないが漕げたものではない。


「これでは……間に合いませんね……」

「さようなら、ダスビダーニャ号。……ねえ悪魔、自転車を道路脇に寄せておいてくれない?」


 金村くんは眼鏡をかけて、バキバキに割れてしまったスマホを拾いながら言った。液晶画面の欠片があられのようにこぼれ落ちたが、なんとか起動できるようだ。


「僕は急ぐから」

「待ってください、その状態で歩いて行かれるんですか!?」

「よろしくねー」


 怪我を負っているとは思えない足さばきで、金村くんは駆け出した。


「おやぁ! 金村くん速いですねぇ! その速さなら天下は取れなくても、地区大会で優勝できますね」


 悪魔は指をパチンと鳴らすと、自転車を丸ごと手品のように消してしまった。それから金村くんを追いかけて飛んでいった。


「大丈夫ですか、金村くん」

「大丈夫じゃないけど、あと一分しかないんだもの」


 そう言っているそばから、スマホの時刻表示が十七時に切り替わった。


「あー」


 落胆の声を上げつつも、金村くんは足を緩めない。そのまま駅前の賑やかな通りに飛び出した。


 通行人からたちまち悲鳴が上がる。無理もない。はたから見れば金村くんは、まさしくワシに襲われるウサギ。二メートルはあろうかという大きな未確認生命体に追われて、満身創痍になりながら逃走する哀れな被食者にしか見えないのである。


 恐慌状態に陥る町を駆け抜けて、金村くんは燦然と光り輝くコンビニエンスストアへと飛び込んだ。

 肩で息をしながら、よろよろとレジのカウンターに歩み寄る。お目当ての女性の姿は、やはり見当たらない。

 一方で、店内はてんやわんやの大騒ぎになった。


「お客様、どうなさいました!?」

「ギャーッ! 悪魔が、悪魔がいるぞ!」

「つ、通報だ。救急車と警察を呼べっ」


 買ったばかりの肉まんを放り投げて尻餅をつく客、後ずさって商品棚にぶつかり品物をぶちまける店員、恐怖に顔を引きつらせながらスマホで動画を撮り始める見物人。

 悪魔は「どうもどうも」と手を上げて周囲に挨拶をしている。


「あの」

 金村くんは咳き込みながらも、声を絞り出した。

「弓木さんは……弓木さんはいらっしゃらないですか?」

「弓木ならさっき退勤いたしましたが……え? い、一体どうなさるおつもりで……!?」


 金村くんはその場に膝をつきそうになったけれど、今になって擦り傷が痛くなってきたので堪えた。

「ありがとうございます」

 一礼し、足を引きずって自動ドアをくぐる。

「ではでは、お騒がせしました」

 と、悪魔も続いた。


 駐車場に出た金村くんは、さっそく辺りをきょろきょろと見回したが、弓木さんらしき人影は見えない。ふうわりと雪がちらつき始めた夜の町、黙って通る人もあれば、立ち止まって野次馬の仲間入りをする者もある。


「そんなあ……」


 思いがけずも儚い結末を迎えてしまった金村くんは、車止めの石にすとんと腰を下ろし、頭を抱えた。

 ああ、あんまりだ。結局相手のことを何一つ知らないまま終わってしまった。下の名前も、連絡先も、SNSのアカウントも。ただ、営業スマイルとは程遠いあの瞳の真摯な輝きに魅入られただけ。客に対して心のこもった丁寧な対応をしてくれていて、最近では金村くんとは世間話までしてくれるようになった……ただ、それだけ。


「あーあ。ダスビダーニャさようなら、弓木さん……」


 溜息をついて項垂うなだれる金村くんの肩を、悪魔はそっと叩いた。


「諦めるのはまだ早いですよ。顔を上げてください」

「うん?」


 悪魔がある一点を指さした。金村くんは目を凝らしたが、群衆の他には何も見当たらない。


「何もないけど」

「まあ待ってみてくださいよ」

「えー……」


 続々と湧いてくるギャラリーたち、その中に、何者かがヒョコッと顔を出した。今しがた騒ぎを聞きつけてやってきた様子の、弓木さんだった。


「あ」


 金村くんは一気に顔を上気させ、急いで立ち上がった。新たな血が額からだらりと流れ出た。


「弓木さん」


 金村くんが歩み寄ると、群衆の海がどよめきながら割れた。その先に、驚いて凍りついた様子で佇んでいるのは、弓木さん。地味な黒いコートにグレーのニット帽。私服は初めて見るが、筆舌に尽くし難いほど可愛かった。その可愛さにやられて危うく悶絶するところだった金村くんは、彼女の前まで辿り着くと、少しの間口ごもった。


「……お客様?」


 弓木さんは戸惑いがちに、金村くんと悪魔を交互に見比べながら、つややかな低音の声で尋ねた。


「あの、これは一体どういう……。というか、大丈夫ですか? お怪我は……」

「これは全くもって平気です。僕は……弓木さんをお探ししていたんです。お伝えしたいことがありまして」

「私に……? それは、そこの変な生き物のことでしょうか」

「ちっ、違います。あれは勝手についてきただけです」


 金村くんの物言いに、悪魔は痩せこけた頬をプクウッとリスのように膨らませた。

「何ですか、金村くん。折角情報を教えて差し上げたのに……」


 しかしそんな愚痴は金村くんの耳には届いていなかった。ここが公衆の面前であることをすっかり忘れた金村くんは、額から流れ出る血を拭うと、ペコリと弓木さんに頭を下げてこう言った。


「よろしければ、僕と連絡先を交換してください」


 衆目の中、ボロボロの金村くんにバキバキのスマホを差し出されて、弓木さんはしばし驚いた様子で固まっていたが、やがて、ぎこちなく笑ってみせた。


「構いませんよ」


 そしてどこか嬉しそうに、鞄からスマホを取り出したのだった。



 おわり

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