黒い猿
早坂慧悟
黒い猿
子どもの頃の話だ。
年の瀬になると家族全員で実家に帰るのが、わが家の習わしだった。
実家は車を走らせて丸一日かかる、地方の田舎にあったが、そこで見聞きするものが都会育ちのわたしには新鮮に映り、毎年実家に帰ることを楽しみにしていた。
朝靄の森林から立ち上がる草木の香り、庭鶏餌の乾燥玉蜀黍の鼻を衝く臭い、餅をつく瞬間の搗かれたもち米の蒸気の香り、夕べの囲炉裏に鍋をかける瞬間の炭火の焦げ臭さ、田舎では、その生活のすべてに都会では味わえないこういった独特のにおいがあったのだ。
わたしはその中でも、特に甘酒の匂いが大好きだった。あの甘い独特な匂いを嗅ぐと、今年も実家に帰って来たと実感したものだ。
実家では、毎日川で釣りをしたり森で野兎を追いかけたり、朝から晩まで遊び回った。子供の頃のわたしにとって、年末はこのように実家に帰って楽しく過ごすものだったのだ。
その年の年末、わたしは実家の茶の間で夜遅くまでテレビを見ていた。
親たちはつまらない愚痴話をしていた。子供だった私は、何故かそれを今でもよく覚えている。
「だからあなたから言ってくださいよ。もうお金は貸せないって」
ふてくされた顔で母親が言った。
「ああ、シンイチにはもうこれで最後だと言ったよ。あとは家を売り払うなり、事業をやめるなりして自分で何とかするようにってね」
父親が言う。
「本当にちゃんと言ってくれたんでしょうね、もう実家の敷居は跨がせないくらい」
「ああ……、もうここには来ないよ」
以前から二人は、よくシンイチおじさんの悪口を言っていた。おじさんの拵えた借金のせいで、自分達も車を売らなくてはならなくなったらしい。おじさんは父の年の離れた弟で、昔はよく実家に遊びに来て、僕がいると必ず何かおもちゃを買ってくれた。おじさんはこの数年後、自殺した。
やがて母がわたしに、テレビを見てないでもう寝なさいと言った。わたしは眠気眼のまま立ち上がる。
父は ひとりで布団に行けるのかと、わたしをからかって言った。祖母が寝る前に炬燵の上に蜜柑の皮を剝いて置いてくれたが、わたしはそれを食べずに茶の間を出た。
廊下に出たわたしはあまりの寒さに身震いした。田舎の家は木造の大きな平屋で、夜になると渡り廊下は容赦ない冷気にさらされた。冷え切った廊下の木板を裸足で歩いているうち、わたしは急にトイレに行きたくなりトイレに向かった。
トイレの後、わたしはまた茶の間に戻ることにした。祖母が剝いてくれた蜜柑を思いだし、寝る前に食べたくなったからだ。
茶の間前に戻ると閉め切ったガラス襖の明かりに、みんなの影が見える。襖に手をかけ中に入ろうとした瞬間、襖の間から中の様子が垣間見えた。
そこに父たちはいなかった。父たちがいた場所には、2つの黒い影が座っている。大きな毛むくじゃらの猿のような生き物だった。猿たちはよだれを垂らし唸り声をあげながら、蜜柑を皮も剥かず食べている。テレビは消され、炬燵の上には血にまみれた衣類が散乱していた。そのすぐ横にボロボロに咬み砕かれたメガネがあった。シンイチおじさんがよくかけていた丸眼鏡だ。
子供心にわたしは、ここには今、入ってはいけないことを直感した。
そのまま声を殺して廊下を走り寝室の寝床に逃げこむと、布団を頭からかぶって目を閉じた。みんなあの猿に食べられてしまった・・・そう思い、恐怖に震えている内、いつしかわたしは深い眠りにおちていた。
こんな子供の頃の不思議な出来事を思い出したのは、今日あんなことがあったからかもしれない。
昼に勤め先で奇妙な体験をした。ちょうど昼前に出先から戻ると、ちょっと早いランチのため、わたしは外に出た。そしてしばらくして、事務室に財布を忘れてきたことに気付いた。
わたしはその時、正面玄関を出て建物の裏手にいたので、普段は使わぬ裏の通用口から事務室に財布を取りに戻ることにした。ここから戻ると事務室のちょうど裏口に出る。事務室フロアの裏口に着くと、そこは半ば物置き場と化し色々な備品で雑然としていた。そんな中を歩きながら、わたしは自分の机に戻ろうとした。そして事務室の裏口を仕切る衝立から社員の様子を見て、一瞬ぎょっとした。
事務室の席に座っているのは、みな黒い影だった。こっちに背を向けているので顔はよく見えないが、恐らくそれは人ではない。私が子供の頃に田舎の家の居間で見たあいつらだ。全身深く黒い毛むくじゃらのあの猿たちが何匹も事務室の机についている。真ん中の空いた席では、黒い猿が集まってギャーギャー声をあげ押し合いをしている。机の上には、乾いた生肉の欠片が転がっていて、それを取り合いしてるらしかった。肉片の下には血だらけでズタズタの真新しいスーツやシャツの切れ端が散乱していて、どうやらこの猿たちに切り裂かれた様子であった。
ぽん。
そのとき誰かが私の肩を叩いた。振り向くと総務の宮岡がいた。
「なにしてるの?」
フロア中に聞こえるような大声で、同期の彼女は私に聞いた。
「あ!」
あまりの事に取り乱したまま、わたしは言葉が無い。
「どうしたのよ。課長に書類持ってきたんだけど、いらっしゃる?」
そういいながら彼女は、衝立を越えて得体のしれない猿どもがいる事務室に入って行った。
慌てて私もまた事務室の中へ入った、しかしそこはいつもの事務室だった。さっきいた黒い猿などどこにもいない・・。
わたしは自分の席に戻ると財布を手にして、あらためて周囲を見渡した。
みな黙って黙々と仕事をしている。普通の『人たち』だ。
見間違いか・・・疲れてんだな・・・
取り敢えずまた外に出ようと自分の席からフロアを歩き始めると、ちょうど真ん中辺り、空いた席の周りで数人集まって何か話し合っていた。
「なにしてるんですか?」
その横を通り際私は聞いた。
「ああ、この席の新人君いなくなっちゃったからね。備品の整理を」
くすくす笑いながら社員の一人が言う。新人の教育係だった男だ。
「あいつ、結局電話の応対ひとつもまともに出来ないまま消えたな」
笑いながら新人の口ぶりをまねて電話に出るモノマネをする、それを見てみんな一斉に笑った。
「でも先輩、使えない奴がひとり減ったんだからいいじゃないスか。今度はまともな奴が来ますよ」
「そうだよな、今度はちゃんとした奴を頼むぜ。もうこれ以上俺の仕事を増やさないでくれよ」
そこでまたみんなでゲラゲラ笑う。
そこは一カ月前に突然退職した新入社員の机だった。傍目にも順調に仕事を覚えているように見えなかった彼は、ある日急にいなくなった。今年何人目の退職者であろうか。噂では自殺したという話まで出ていたが、退職手続きは行われていたらしく、誰も彼の退職後の行方にはもう興味を持ってなかった。
「これ、売れば少しは高くつくかな」
にやにやしながら先輩社員が段ボールに入れられた新人の残した備品を手にする。殆どが会社から支給された社員用パソコンなどの機械だったが、中には真新しい私物も数点あった。むろん新入社員用の手引きやツールが大半なため廃棄する、転売はできない。
しかし、この勢いなら新人が残した私物なんて誰かが取って売ってしまったかもしれないな、そう思いながら私はランチに向かった。
そんなことがあったのだ。
結局、昼に事務室で見た黒い猿たちの姿が頭から離れず、ランチのあと自分は会社を早退した。
あまり早い時間に家に帰っては訝しがられると思い、会社近くの喫茶で少し時間を潰したのだが、それが結果的にさらに心に悪影響を与えた。
喫茶店に着くとコーヒーフロートを飲みながら一息入れた。いつも行く大きなソファーがあるお気に入りの喫茶だ、元よりタバコは吸う気になれなかった。いつもなら座っているだけで癒される。
しかし今日はいくら新聞や雑誌を広げてここに座っていても、頭の中からあの黒い猿のことが取り除けなかった。あの、事務室にいた黒い猿の群れ、荒々しく肉片を奪い合い諍うあの野獣の姿。正面からは見えなかったが、きっと凝視することには耐えられないほどおぞましい姿なんだろう。私は座ったままブルブルと頭を左右に振って否定した。いや、あれは俺の見間違いなんだって。だって、総務の宮岡が入ってきたとき、元通りになってたじゃないか。そんなことを考えながら、私は魘されるようにしていつしかソファーの中で眠りについていた。
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ー大京王プラザホテル。
まだ赤坂にあのホテルの瀟洒な本館が現存していた頃だ。若く金のなかった私は、かなり無理してそのホテルの予約をした。なかなか取れないレストラン・トリアノンの特別ディナーの予約は知人の伝でなんとか押さえることが出来た。
妻はそこで私のプロポーズを受け入れてくれた。婚約の証に贈った装飾品の入った小箱が、照れて笑っている妻の目の前に置かれている。
妻はもじもじしながら上目遣いに「わたし、今とても幸せよ・・」と言ってくれた。なんとかプロポーズが成功した私は、その日、これまでの緊張が解けて一気に疲労感に襲われた。すかさず、気付けに目の前に注がれたワインを飲む。強い酒だ。私は酩酊状態となり、心肺機能は悪化しふらふらになった。
「ちょっと、失礼・・」妻をテーブルに残し、私は紳士用化粧室へ向かった。
あまりの緊張に気分が悪くなったが、化粧室で顔を洗い鏡の前で髪を整えると、幾分気持ちも落ち着いた。将来の妻がまだテーブルにいるんだ、今日はしっかり最後までエスコートしないと。そう自分に言い聞かせ鞭打つと、背筋を伸ばし化粧室を出た。
化粧室をでると自分はまっすぐ妻のいるテーブルに戻らず、レストランの受付に向かった。デートのマナー本で事前に学習したように、先に会計を済ませるためだ。女性が臨席するテーブルにクロークに会計票を持って来させるのは特にこんな場面ではルール違反で、女性へ失礼に当たると本で習ったからだった。会計を済ませついでにレストラン外のホテルの売店でタバコを買うと、私は妻のいるテーブルに戻った。外にいったん出ると、今度はレストラン正面から席に戻るのが億劫だった。見ると、売店の隣に業者専用と思しきレストランへの裏口があった。わたしはそこから店に入ることにした。店員も妻も自分がまさかここから戻るとは思わないはずだ。ちょうど私が帰ってきたのはさっきとは反対方向だ。だいぶ緊張も解けたわたしは、さらに悪戯心を起こし、妻を驚かせようとそっと背後からテーブルの彼女に忍び寄った。
しかし、ほろ酔い気味の自分がさっきまで座っていたテーブルにちかづくと、そこには見慣れない黒い影が座っていた。なんだか毛むくじゃらで大きな体躯をしている。まるで大きな黒い猿だ。近寄ると強烈な獣臭がした。
背後からディナーテーブルを見ると、大猿の目の前には、粉々にされた様々なブランドの小箱や手提げ袋が破片となって散らばっていた。高そうな革鞄やハイヒール、指輪、ブローチ、ネックレス、この猿がかみ砕こうとしたのか、テーブルの上には、唾液と黒い獣の毛にまみれて汚れたこれら有名ブランドの数々の物が無残に放り出されている。目の前の猿はテーブル中の料理皿をひっくり返し、なにやら生肉を引きちぎってしきりに咀嚼していた。若い男物のカバンやスーツが無残に引き裂かれ、テーブルの上に散らばっている。
「妻は!妻は、無事なのか!!」
あまりのことに呼吸も乱れたまま、わたしは黒い猿の正面に向き合った。それは大きな猿だった。それもゴリラやオラウータンなどの見慣れた類人猿ではない、不気味で危険極まりない大猿だった。目は白目を剥いて、怒りからかブルブルとこめかみが激しく震えている。涎が垂れ流し状態の半開きの口からは鋭い何本もの犬歯がみてとれる、そこから荒い呼吸で臭い息を周囲に吐きだしていた。全身を汚く油にまみれた黒い体毛が覆い、手指の先にはとがった鋭い手甲鉤のような爪を備えている。
むかし、学習まんがで見たのと同じ怪物だ。私は思った。
イエティー・・・・
ビックフット・・・・
あの不気味な怪物のイラストが頭をよぎる。
このままでは殺される。私は一瞬たじろくと他のテーブルに逃げ、周囲に助けを求めようとした、しかし見回すと周りの席はすべて黒い猿で埋め尽くされていた。遠くクラークのいた受付にも黒い猿が立っていてこっちを見ている。
なんだこれは・・・空気が一瞬揺らぐ。すると黒い猿たちが一斉に私の方を見た。
グフ、グフ・・・・・・
テーブルの妻が座っていた場所にいた猿が荒い鼻息でこっちに近付いてくる。
そして私はそのままそこに卒倒した。
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わあああああああああああああああああ!
喫茶のソファーから起き上がると、私は大声をあげた。
訝し気に周囲の客が私の方を見る。中にはあからさまに睨みつけてくる者もいた。
コーヒーフロートの氷はすでに溶けていてコップの周りは水滴だられで、テーブルの上もわたしの涎でいっぱいだった。
「お客様、どうしましたか。」店員が駆け寄ってきたが、「大丈夫です」と言うと自分は、誰へとなく周囲に向かって頭を下げて詫びた。
拠りによって、あの婚約日の失敗の思い出などを、夢で見てしまうとは・・。
あの後気を失ってから目を覚ますと、ホテルの部屋にして、そこは元の世界の朝だった。子供のときもそうだった。目覚めると朝で、猿などいない普通の世界にいたのだ。
あの時わたしは、これで婚約も終わったと思っていた、しかし、ホテルの部屋に運ばれたわたしの手を握り一晩そばにいてくれた妻は、婚約を破棄することはなかった。だが、この出来事に気を遣ってか、その後この日のことを互いに話題に出すことはなかった。婚約記念日すらその後一度も祝うことはなかったのだ。
『たまごMサイズ12。牛乳小岩井。』
妻からのメールを見て、駅に着きそのまままっすぐ家に帰るつもりだったわたしは、踵を返すと駅前のスーパーに向かった。
スーパーの棚から卵のMサイズパックと小岩井の牛乳をつかみ取ると手早くカゴに入れる、わたしは会計を済ませそのまま家路を急いだ。
妻からのお使いメールはわたしが家近くの駅に着いたときに届いたものだったが、妻はこの時間はまだ仕事中だと思っていたらしく、メールの件名欄に妻から絵文字で(。-人-。) ゴメンネと記されていた。
自宅のマンションに着いた。まだ夕刻前のいつもなら働いている時間だ。
いつもなら、妻がいる時はエントランスでインターフォンを押して開錠してもらう。そうすれば妻は私が帰ってきたことがわかるからだ。
しかしこの時早い時間に帰ってきた自分は、悪戯心を起こし妻をびっくりさせるためいつものようにインターフォンを押さず自分のカギで開錠した。そしてそのままエレベーターに乗り込み自室へ向かった。
自分の部屋の前に着くと、自分は鍵をドアノブに差し込んだ。カチッと鍵が開く。
ドアノブを回そうとして、自分は一瞬手を止めた。
中にいる妻と子は、自分がこの時間帰ってくるのを知らないはずだ、たぶん顔を見れば妻は「あら早かったのね」くらいは言うだろう。しかしそれ以前に、妻はわたしが今日早く帰ってくることを知らない。
自分は、子供の頃からよく見る、あの黒い猿の姿を思い出した。
・・・思えば子供の頃、居間にいた家族も、妻にプロポーズをしたあのホテルのレストランにいた店員や客たちも、今日の昼だって、事務室の社員たちも、わたしが違う場所から戻ってくるとは想定してなかったのだろう・・・だから『油断して』『あんな姿』を見せてしまったのだ・。
「油断して」「あんな姿」を?
自分でも言ってる意味が分からなかったが、そう説明をしないと自分でも、あの見てしまった黒い猿たちを説明できなかった。
・・・だったら今、わたしはインターフォンを押して妻に帰宅したことを知らせる方がいい・・・・。しかし、しかしだ・・さすがにここは・・・自分の家、自分の家族だぞ・・・
わたしは意を決し、静かにドアノブを回すと、ドアを開けた。
そのまま静かに中を窺う。
玄関の靴置きと鏡は朝とは様相が違っていて、完全に破壊された後だった。さらに玄関のタイル上には、何かを引き摺った血のような跡があり、ボロボロの錆びた婚約指輪と、血まみれで引き裂かれたアロハシャツのきれはしが散乱していた。
その青地のアロハシャツを見ると、過去の記憶が蘇った。それは、昔、妻の男友達が好んでいつも着ていたアロハシャツだった。わたしと知り合った当初、妻には付き合っていた彼がいて、何度か3人で会ったことがあった。結婚前の妻は彼にかなり入れ込んでいて、彼に金を工面するために飲食店のアルバイトに迄身を投じていたと聞いた。しかし、その後彼は、身を立てようとして失敗した。茅ヶ崎のサーファーショップだか湘南の海の家だかが潰れてしまい、莫大な負債を残して失踪したと聞いた。妻がこの男と一時は婚約までしていた間柄であったことを自分が知ったのは、結婚後の事だった。
もしかしたら、妻の自分との出会いが、この男の人生を狂わせたのかもしれなかった。自分はそんなことを考えていた。
グフ、グフ、グフ・・
妻のいるはずの斜向かいのキッチンフロアから、獣のような荒い鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
あの湿って重たい、黒猿特有の臭いが伝わってきた。
子供がいるはずの居間からはドスン、ドスンとものすごい音が響いていた。時折小動物が屠殺されているような、ぴぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃ、という断末魔の叫び声が聞こえてくる。
なんとなく、殺されているのは、あのサーファー男と妻との間にできた子供だろうと思った。自分の子供が、妻とあの男の子供を殺しているのだ。
・・・その情景に戦慄し、わたしはそっと玄関のドアを閉めた。
そして、項垂れたままエレベーターでまた一階のエントランスに戻ると、いつものようにエントランスの玄関からインターフォンを鳴らして妻に帰宅したことを伝えた。
「あら、早かったのね」
再びエレベーターで部屋に着くと、妻がいつもと同じように玄関でわたしを出迎えてくれた。玄関の風景は朝と何の変りもなかった。
「ちょっと今日は早引けしてね。メールにあった買い物はちゃんとしてきたよ」
わたしは妻に頼まれた卵と牛乳の入ったスーパーの袋を渡しながら言った。
妻はそれを受け取るといった。
「ありがとう。今日はシチューだからちょっと待っててね、あなた」
妻は鼻歌を歌いながらコンロの鍋に向かっていった。
スーツの上着を脱ぎながら居間に行くと、子供が静かにお絵かきをしていた。
わたしは頭を撫でてやりながら言った。
「お絵かきうまいねー。これなんだい?」
床いっぱいに開かれた画用紙には、黒いクレヨンで描かれたぐるぐるの変型体が何個もあった。
「おさるさん」
こどもは悪戯っぽい目で笑いながら言った。
ネクタイを取ると、わたしは缶ビールを取りにキッチンの台所に向かった。
妻は煮込んでいるシチューの味加減をお玉で吟味している。
「お、うまそうだな。そのシチュー、パンとご飯の両方で食べたいね」
妻は顔をあげるといった。
「だいじょうぶよ、ご飯も炊いてあるから。あなた、シチューのときはいつもそうでしょ」
ウフフと笑う。
「そうだね、いつもと同じだから相手もわかってくれる、用意もしてくれるから、ありがたいね」
わたしは冷蔵庫からビールを取り出しながら言った。
「そうよ、ひとはいつも、同じことをしてればいいのよ。そうすれば何の心配もないわ。だから、いつもと違うことはしてはいけないのよ。そんなことをすると、見なくてもいいものを見る羽目になるわ。」
妻はそう言って意味深に微笑んだ。
(村田基 作品(1989) 改題)
《終わり》
黒い猿 早坂慧悟 @ked153
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