デイ・ラフター・トゥモロー
埴輪
The Day Laughter Tomorrow
『命を粗末にするな』
……そんな定型文すら、誰も教えなくなったのだろうか? ──自らの危険を
私だって、教わったことはない。身をもって、知っただけだ。……いや、知っていた、と言うべきか。今は、命が何かすら──
『ヒーラーさん、オーバーヒール気味ですから、もっと攻撃してください』
戦いが終わると、手厚い回復を褒められるわけでもなく、捻は仲間に注意された。だから捻は、『ごめんなさい!』と、笑顔で応じるのだった。……オンライン・ゲームの中で。
昔は──ゲームの序盤は──、こうじゃなかったのになぁと、捻は思う。ゲームとはいえ、死ぬのは嫌だと思っていた気持ちは、間違いだったのだろうか? いや、死んではいない。ただ、戦闘不能になっただけだ……うん、そうなのかもしれない。
ただ、それでも、何よりも優先すべきは、生き延びることではないだろうか? 捻はそう思っていたのだが……最近の戦いを見るにつけ、どうやらそうでもないらしいということが、捻にも分かってきた。大事なのは時間。一分、一秒でも早く、戦闘を終わらせること。
結局、本当に死にかけたことがないんだろうなぁと、捻は思う。生きていて当たり前なのだ。だから、命がなんだとか、考える必要もない。少なくとも、今は生きているんだし。
だが、人はいつかは必ず死ぬ。生まれた瞬間から、余命はたった百年足らずなのだから。
──
学校には通っていない。不登校、という奴だ。
……理由は簡単、誰も捻と一緒に暮らしたいと思わなかったからだ。ただ、どうして暮らしたくないのかは曖昧で、共通しているのは「何だか
ただ、臭いからといって身寄りのない少女を放り出すこともできない……という
日付が変わり、即席の集いは解散となった。捻は日課の金策──もちろん、ゲームの中での──をすることもなく、ゲームを終了。喉が渇いたので、冷蔵庫へと足を向ける。
──冷蔵庫は空っぽだった。周囲を見渡しても、予備の水は見つからない。近所のコンビニが次々と閉店したものだから、買い出しが
捻は蛇口を
吐き出しても口は湿るが、体の渇きを癒やすには十分ではない。湯を沸かそうにも、鍋や電気ポットはない。仕方がないと、捻は児童指導員から支給された、電子マネーのカードをジャージのポケットに突っ込み、サンダルを履いて、夜の町へと繰り出した。
※※※
──風が冷たい。凍えるほどではないが、サンダルを履いた素足には少々、
自動販売機を見つけても、捻が持っている電子マネーは非対応だった。小銭はない。必要なものは電子マネーで調達する……それが、児童指導員から言い渡されたルールだった。
それでも、何の不自由もなかった。近所に電子マネーが使えるコンビニがあったからだ。それなのに……捻は足を止め、つい最近まではコンビニだった場所を眺めた。看板もなく、ガラス張りの外観から、きっとそうだったのだろうなぁと、推測できるぐらいである。
──だが、あんなことがあったのだ、仕方が無いのだろうと、捻は再び歩き出す。
自動販売機を見かける度に落胆しながらも、歩き続けること二十分余り。捻は、待望のコンビニへと辿り着いた。闇夜に煌々と浮かび上がる、青と白のコントラストが美しい。
自動ドアが開いた瞬間、酷い悪臭が漂ってきた。──またか。店内を見渡すと、人が倒れていた。その
何しろ、手の平サイズなものばかりだったので、こんなに大きく、見上げるほど大きな妖精さんを目にするようになったのは、つい最近、一人暮らしを始めてからのことだった。
そして、その妖精さんが、どういう理由か、人の命を奪うようになってしまったのも。
──初めてその現場に居合わせた時、捻は大いに驚いた。人がコンビニの床に倒れているところを見る機会なんて、そうあるものではない。それに、巨大な妖精さんの伸ばした腕が、倒れた人の背中をまさぐっていたとあっては、走って逃げ出すより他になかった。
捻は妖精さんに危害を加えられたことはなかった。ただ、臭いだけだ。それでも、これからもそうであるとは限らなかったし、一言で言えば、恐かったのである。……とっても。
翌日、コンビニはなくなっていた。なぜそうなったのかという情報はどこにもなく、捻は不思議だと思う以上に、安堵した。これで良かったのだと。逃げ出して、正解だったのだと。
……捻は思う。もし私が通報するなり何なりしていたら、事態は変わっていたかもしれない、と。良くも悪くも、そのどちらかに。
だが、何も変わらなかった。それは、変わってしまったものを変えないようにと、何らかの力が働いたということであり、それならば、ただ黙って生きていけばいい。こんなことは、滅多に起こることではないのだから。
──しかし、二度、三度と、滅多に起こることではないはずのことに遭遇する度、恐れも消え、捻は逃げることもなくなった。
それでも、通報しようという気にならず、倒れている人を見ても、一度だけ、その身に触れた時の冷たさを思い返しては、蘇生の魔法が使えたらなぁと思うぐらいで、ただ、秘めたる力を持たない私に出来ることは、その冥福を祈ることぐらいだと、両手を合わせるのだった。
そして、今──捻は両手を合わせつつ冷蔵庫へ向かい、ミネラルウォーターをカゴに入れ、セルフレジで会計を済ませると、レジ袋を片手に妖精さんへと顔を向ける。
「ほどほどにしとけよ」
これ以上、コンビニが減ってしまってはかなわない……そう考え、捻は命よりもコンビニが大事なんてねと、苦笑する。でも、そういうものなのかもしれない。たとえ通勤電車で人身事故が起きたとしても、まず心配するのは自身の予定だろうし、ね。
捻が店を出ようと足を向けた途端、自動ドアが開いた。パーカーにジーンズ、短い黒髪からスニーカーに至るまで、びしょ濡れの少女が入店し、さらなる悪臭が店内に満ちていく。まるで、ドブ川から上がってきたかのような……余りの悪臭に、捻は口元を手で抑えた。
少女が手にした木刀を正眼に構えると、捻の体を妖精さんが背後から透り抜けた。少女は弾き飛ばされ、店外へ。自動ドアが閉まる。
捻は口元を抑えたまま、立ち尽くしていた。心臓が早鐘のように鳴り、渇ききった体のどこに潜んでいたのかと思うほど、大量の汗が吹き出していた。
でも、生きている……捻はレジ袋からペットボトルを取り出し、キャップを取って口にした途端、それを吐き出した。黒い液体がフロアに
口一杯の不快感に、捻は
……そうだ、あの子は? 捻はジャージの袖で口を拭いつつ、店を出た。すると、そこには少女だけが立っていた。何かを拾って、肩に提げたポシェットの中に入れている。
「良かった! 無事でしたか!」
少女が捻に気付き、駆け寄ってくる。捻は悪臭にたじろぎ、それに気付いた少女は「すいません!」と足を止め、「えっと、何から話せばいいのかな……」と独りごちる。
「ちょっと待ってて」
捻は店に引き返し、商品棚からタオルに消毒用アルコール、ゴミ袋、ミネラルウォーターをカゴに入れて回ると、セルフレジで片っ端から会計を済ませ、店を出ながらタオルの入った袋を破り、中身を少女に向かって放り投げる。
そして、500ミリリットルのミネラルウォーターが入ったペットボトルをレジ袋から取り出し、キャップを開け、口をつけてゴクゴクと飲み干す……ぷはぁ、生き返るっ!
捻がちらりと少女の様子を窺うと、投げたタオルを手にしたまま、立ち尽くしている。
「濡れたまんまじゃ、風邪ひくぞ?」
少女がきょとんとしたままなので、稔は息を止めて少女に近づくと、その手からタオルを抜き取り、少女の黒髪を拭った。
びしょ濡れのパーカーは脱がせたものの、シャツやズボン、下着はそうもいかないので、水気だけでもと拭っていく。少女は捻のなすがままとなっていたが、捻が右手首の傷に目を留めると、さっと左手で覆い隠すのだった。
稔は汚れたタオルとパーカーをゴミ袋に突っ込み、口を閉じる。そして、ジャージのチャックを下ろして脱ぐと、それを少女に
少女は小柄だったので、マントを羽織っているような格好となる一方、捻は汗で濡れた肌が外気に晒され、「へっくしょん!」と何度もくしゃみをしてしまったが、今更、寒いから返してとは言えないので、我慢する。
「目をつむってて」
捻はそう言って、最後の仕上げにと消毒用のアルコールを噴射する。こういう使い方をしていいものかどうか分からなかったが、やらないよりはマシだろうと、捻は噴射を継続。
やがて、捻は余った消毒用のアルコールを、少女用にと買っておいたミネラルウォーターが入ったレジ袋に入れ、少女に手渡した。
「早く帰って、風呂に入った方がいいぞ」
──そう言った直後、「へっくしょん!」盛大なくしゃみをした捻は、しばらく考えた後、ゴミ袋をゴミ箱の脇に置くと、少女に軽く手を振って歩き出した。
「あ、あの!」
捻は足を止め、振り返る。
「助けてください!」
そう言って、少女は深々と頭を下げた。
※※※
──少女の名は
陽は「
人が生きていく上で生じる穢れ。それは自然に消えてしまうものではなく、祓わなければこの世に留まり続ける。そうした穢れが月日を経て形を成したものが穢れ人であり、それは人の気(
……陽からそんな話を聞きながら、捻が案内されたのは小さな神社だった。といっても、神社らしいものは入り口の鳥居ぐらいで、
やけに明るい月明かりの下、陽は白い折り紙を取り出すと、その場に
捻は陽から量産された鶴を手渡される。すると、鶴は見る見るうちに黒く染まっていった。
「どうすんだ、これ?」
「空に向かって放り投げてください!」
「……ほらよ!」
捻がすくい上げるように投げ放った鶴は一斉に羽ばたき、夜空へと溶け込んでいった。
「……これでいいのか?」
「はい! 後は待つだけです!」
捻が陽から依頼されたのは、
捻には穢れ人を惹きつける力があるという。そんな捻が、穢れ人に集合の号令をかけたとしたらどうなるか……陽は必死だった。祓っても、祓っても、次々と現れる穢れ人。出現場所を特定することは困難で、結果、対応は後手後手となり、犠牲者も増える一方である。
これ以上、誰も死なせたくないんです……そう訴える陽の言葉に、捻は自分が責められているように感じた。もちろん、陽にそんなつもりはないことは分かっていたが、実際、責められても仕方がないと感じたからこそ、協力……囮になることを承諾したのだった。
──鶴を放り投げてからしばらく。
「捻さん」
「ん?」
「何も聞かないんですね」
もう十分聞かせて貰ったような……首を傾げる捻に、陽は
「なんだか、その、よく信じてくれたなって」
「まぁ、ずっと見えてたからなぁ」
それに、その原因についても心当たりがあった。自分には、それしかないのだから。
「私は両親に捨てられたんだ。死んでもおかしくなったけど、水道水で生き延びた」
水道水に栄養らしい栄養はない。水分は必要だとしても、飲み過ぎれば衰弱する。それでも当時三歳だった捻は、流し台へと這い上がり、水道水を飲み続けた。生き延びるために。
「……そうだったんですね」
そう呟く陽の表情を見て、捻は聞いて欲しかったんだと悟る。
「陽は、どうして穢れ祓い師に?」
「日向家は昔から、穢れ祓いをしている一族なんです」
「なるほど。由緒正しき
「いえ、それほどのものでは……」
「学校は?」
「行ったことがないんです。捻さんは?」
「あるっちゃあるというか……」
捻は言葉を濁した。日向の羨望の眼差しを見てしまったから。……正直、捻は学校に思い出らしい思い出はなかった。虐められることもなかったが、近づくものもいなかった。生徒も、先生も。自ら近づこうともともしなかった。もし近づいて、拒絶されたら──
「学校、行きたい?」
捻の問いに、日向は頷く。ふと、捻は日向の手首の傷を思った。あれは、やはり──
「きました」
陽が告げる。だが、捻にも分かっていた。漂う悪臭は紛れもなかった。見渡すと、四方八方から穢れ人が集まっていた。夜の闇よりもなお暗く、悪臭……いや、死臭をまとう存在。それにしても、十、二十、狭いとはいえ、境内を埋め尽くさんとする、この数の多さは──
「さすがに、やばくないか?」
「罪と言う罪は
陽は臆することなく
だが、数が多い。
理不尽だ、と捻は思う。こんな戦いが夜な夜な行われているなんて、全く知らなかった。同い年の少女が、学校にも行かず、そういう一族だからだと、化け物と戦い続けている。しかもその化け物は飛びっ切り臭いのだ。当然、命を失うリスクもある。それなのに、彼女は。
何のために? 誰のために? ……私だ。私たちだ。何も知らず、のうのうと生きている人たちのためだ。それはおかしい、と思う。本当に生きるべきは、命を知る、彼女の方だ。
陽の手から木刀が飛んだ。駆け出す捻。倒れた陽の前で、両手を広げて叫ぶ。
「私の命を持っていけ!」
だが、穢れ人は捻には目もくれない。捻が殴りかかっても、拳は
気付け、気付け、気付け、私はここにいる、ここで、生きているんだ! 私は! 私は!
「あはははははははははははは!」
──捻は笑った。大声で。あの時のように。気味が悪いと言われても構わない。それで私は見つかり、生き延びることができたのだから。捻は
穢れ人の動きが止まった。陽は立ち上がって木刀を拾い直し、穢れ人を祓っていく。笑いが治まってきた捻は、大きく深呼吸。涙で
捻は駆けだした。渾身の拳はなおも手応えがなく、万策尽きた捻は、穢れ人に噛みついた。口一杯に汚水が溢れ、捻はすぐにそれを吐き出す。だが、汚水は止めどなく溢れ続け、永遠とも思える時間の後、何か硬い塊が飛び出たことで、汚水はようやく打ち止めとなった。
──頭がくらくらする。捻は陽から差し出されたペットボトルの水で何度も口を
ぼんやりと周囲を眺めると、陽が境内を歩き回っては、何かを拾い上げている。やがて、陽の手は捻が吐き出したものにまで及んだ。丸い宝石のような、漆黒の塊。
「それ、何?」
「穢れ玉です! 穢れ人の心臓に当たるもので、朝になったら太陽の力で浄化させます!」
「なるほどね」
「あ、あの!」
「ん?」
「助けて頂き、ありがとうございました!」
深々と頭を下げる陽。捻が頷くと、陽は「ちょっと失礼しますね!」と断りを入れてから、携帯電話を取り出した。捻は
「本当ですか!」
陽の声で、捻は目を覚ました。通話を負えた陽が捻に駆け寄り、手を伸ばす。
「さぁ、捻さんも行きましょう!」
「どこへ?」
「天国です!」
捻はきょとんとしつつ、陽の手を取った。
※※※
──洗面器に満たした熱い湯を頭から被り、捻は「あーっ!」と声を上げた。その背後では、同じく陽が「あーっ!」と声を上げている。それはもう、声が出ないはずもなかった。
全身の汚れが、排水溝へと流れ落ちていく。捻は再び湯を被り、気持ちよさを噛み締める。
──まさに天国だった。銭湯。しかも、貸し切りである。日向家と親交のある店主が提供してくれたのだという。遠慮せずに……とのことだったので、捻は新品のタオルにボディーソープを大量投入し、これでもかと泡立て、全身を磨き上げていく。続いて髪も、口もと、汚れという汚れを洗い流しながら、捻は前回、風呂に入ったのはいつだったかと思い返す。
自宅にはユニットバスこそあるものの、湯船の横に便器が鎮座しているのだ、入浴の意欲が削がれてしまうのも無理はないだろう。こんな銭湯が近所にあれば、毎日のように通うだろうし、それだけで幸せな人生となるだろう……電子マネーは、使えそうにもないけれど。
何度目とも知れぬ湯を浴びた後、捻がふと振り返ると、金髪の少女が座っていた。
「……陽?」
「はい?」
振り返った少女……陽は、青い瞳をしていた。張りのある肌に湯が気持ちよく滑り、ほんのりと上気した顔は天使のよう……同性の捻が見ても、溜息が出るほど可愛かった。
「……外人だったの?」
「えへ……これでも、ハーフなんですよ!」
捻と陽は、並んで湯船に浸かる。捻は手足をゆっくり伸ばした。これも、狭いユニットバスでは味わえない贅沢である。捻が高い天井を見上げると、窓から朝日が差し込んでいた。
捻はふと陽に目を向ける。陽はじっと手首を見ていた。遠目にも分かる傷。捻は口を開く。
「それ、自分で?」
「はい!」
明るい返事。捻はそれ以上、何も聞かなかった。……色々あったのだろう。だが、今はこうして生きている。それだけで、十分だろうと思う。捻は陽の視線に気付き、首を傾げる。
「どうした?」
「捻さんって、美人さんですね!」
ぽかんとする捻。言葉の意味を理解するにつれ、顔が赤くなる。そんなことを言われたのは、生まれて初めてのことだった。ぶくぶくと、捻は湯船に深く沈んでいく。
──風呂上がり。腰に手を当て、牛乳瓶を傾ける陽を横目に、捻はそりゃ発育もよくなるだろうなぁと思う。捻も勧められたが断り、ミネラルウォーターを口にする。うん、うまい!
脱衣所には陽だけでなく、捻のために新品のジャージと下着が用意されていた。そのサイズも、ブラ以外は測ったようにピッタリだった。
着替えを済ませ、銭湯の外に出ると、革の鞄を提げたスーツ姿の女性が待っていた。
巴は捻に封筒を差し出した。捻は封筒に手を伸ばす代わりに、ジャージのポケットから電子マネーのカードを取り出し、巴に振って見せた。巴は頷き、封筒を鞄に仕舞うのだった。
「捻さん、ありがとうございました!」
陽は捻に頭を下げると、ワンボックスカーの後部座席に乗り込んだ。捻が手を振ると、ウィンドウ越しに陽も両手を振って返す。車が出発し、見えなくなると、捻は手を止めた。
捻は両手を上げて伸びをすると、家に向かって歩き始めた。寝る前に、部屋の掃除でもするかなぁ……捻はふとそんなことを考え、我ながら現金なものだと、小さく笑うのだった。
デイ・ラフター・トゥモロー 埴輪 @haniwa
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