デイ・ラフター・トゥモロー

埴輪

The Day Laughter Tomorrow

『命を粗末にするな』


 ……そんな定型文すら、誰も教えなくなったのだろうか? ──自らの危険をかえりみず、戦いに身を投じる仲間たちを癒やしながら、ねんはそんなことを考えていた。


 私だって、教わったことはない。身をもって、知っただけだ。……いや、知っていた、と言うべきか。今は、命が何かすら──


『ヒーラーさん、オーバーヒール気味ですから、もっと攻撃してください』


 戦いが終わると、手厚い回復を褒められるわけでもなく、捻は仲間に注意された。だから捻は、『ごめんなさい!』と、笑顔で応じるのだった。……オンライン・ゲームの中で。


 昔は──ゲームの序盤は──、こうじゃなかったのになぁと、捻は思う。ゲームとはいえ、死ぬのは嫌だと思っていた気持ちは、間違いだったのだろうか? いや、死んではいない。ただ、戦闘不能になっただけだ……うん、そうなのかもしれない。 


 ただ、それでも、何よりも優先すべきは、生き延びることではないだろうか? 捻はそう思っていたのだが……最近の戦いを見るにつけ、どうやらそうでもないらしいということが、捻にも分かってきた。大事なのは時間。一分、一秒でも早く、戦闘を終わらせること。


 結局、本当に死にかけたことがないんだろうなぁと、捻は思う。生きていて当たり前なのだ。だから、命がなんだとか、考える必要もない。少なくとも、今は生きているんだし。


 だが、人はいつかは必ず死ぬ。生まれた瞬間から、余命はたった百年足らずなのだから。


 ──四宮しのみや捻。十四歳。中学二年生にして、達観した思考でゲームに興じる少女。背は高く、痩せている。長い黒髪はぼさぼさで、身にまとうは、朝から晩までねずみ色のジャージ上下。


 学校には通っていない。不登校、という奴だ。理由わけあって天涯孤独。児童養護施設に引き取られたが、今は築三十年のアパートの一階で一人暮らしである。


 ……理由は簡単、誰も捻と一緒に暮らしたいと思わなかったからだ。ただ、どうして暮らしたくないのかは曖昧で、共通しているのは「何だかくさい」の一点だったが、それだけでも、忌避きひされるには十分だった。


 ただ、臭いからといって身寄りのない少女を放り出すこともできない……という世間体せけんていによって、捻の生活は守られているのだった。


 日付が変わり、即席の集いは解散となった。捻は日課の金策──もちろん、ゲームの中での──をすることもなく、ゲームを終了。喉が渇いたので、冷蔵庫へと足を向ける。


 ──冷蔵庫は空っぽだった。周囲を見渡しても、予備の水は見つからない。近所のコンビニが次々と閉店したものだから、買い出しが億劫おっくうになり、まだ大丈夫、まだ大丈夫と繰り返していたツケが今、回ってきたのだった。捻は溜息をつき、流し台に目を向ける。


 捻は蛇口をひねり、コップに水を満たした。──水道水が飲める国は、世界でも珍しい。そのお陰で、私も……そう思いつつ、コップの水を口に含んだ途端、捻は流し台にそれを全て吐き出した。味か、記憶か、稔の口は、水道水を受け付けなくなっていたのである。


 吐き出しても口は湿るが、体の渇きを癒やすには十分ではない。湯を沸かそうにも、鍋や電気ポットはない。仕方がないと、捻は児童指導員から支給された、電子マネーのカードをジャージのポケットに突っ込み、サンダルを履いて、夜の町へと繰り出した。


※※※


 ──風が冷たい。凍えるほどではないが、サンダルを履いた素足には少々、こたえる。かといって、引き返すのも面倒な捻は、とにかく水が飲めればいいと、首を巡らせ歩き続ける。


 自動販売機を見つけても、捻が持っている電子マネーは非対応だった。小銭はない。必要なものは電子マネーで調達する……それが、児童指導員から言い渡されたルールだった。


 それでも、何の不自由もなかった。近所に電子マネーが使えるコンビニがあったからだ。それなのに……捻は足を止め、つい最近まではコンビニだった場所を眺めた。看板もなく、ガラス張りの外観から、きっとそうだったのだろうなぁと、推測できるぐらいである。


 ──だが、があったのだ、仕方が無いのだろうと、捻は再び歩き出す。


 自動販売機を見かける度に落胆しながらも、歩き続けること二十分余り。捻は、待望のコンビニへと辿り着いた。闇夜に煌々と浮かび上がる、青と白のコントラストが美しい。


 自動ドアが開いた瞬間、酷い悪臭が漂ってきた。──またか。店内を見渡すと、人が倒れていた。そのかたわらで、悠然ゆうぜんと立ち尽くす黒い妖精……目も、鼻も、口もなく、ただ黒いばかりの人形ひとがたをしたが、「妖精」と呼ぶべき存在なのかはともかく、捻は幼少からを「妖精さん」と呼んでいた。


 何しろ、手の平サイズなものばかりだったので、こんなに大きく、見上げるほど大きな妖精さんを目にするようになったのは、つい最近、一人暮らしを始めてからのことだった。


 そして、その妖精さんが、どういう理由か、人の命を奪うようになってしまったのも。


 ──初めてその現場に居合わせた時、捻は大いに驚いた。人がコンビニの床に倒れているところを見る機会なんて、そうあるものではない。それに、巨大な妖精さんの伸ばした腕が、倒れた人の背中をまさぐっていたとあっては、走って逃げ出すより他になかった。


 捻は妖精さんに危害を加えられたことはなかった。ただ、臭いだけだ。それでも、これからもそうであるとは限らなかったし、一言で言えば、恐かったのである。……とっても。


 翌日、コンビニはなくなっていた。なぜそうなったのかという情報はどこにもなく、捻は不思議だと思う以上に、安堵した。これで良かったのだと。逃げ出して、正解だったのだと。


 ……捻は思う。もし私が通報するなり何なりしていたら、事態は変わっていたかもしれない、と。良くも悪くも、そのどちらかに。


 だが、何も変わらなかった。それは、変わってしまったものを変えないようにと、が働いたということであり、それならば、ただ黙って生きていけばいい。こんなことは、滅多に起こることではないのだから。


 ──しかし、二度、三度と、滅多に起こることではないはずのことに遭遇する度、恐れも消え、捻は逃げることもなくなった。


 それでも、通報しようという気にならず、倒れている人を見ても、一度だけ、その身に触れた時の冷たさを思い返しては、蘇生の魔法が使えたらなぁと思うぐらいで、ただ、秘めたる力を持たない私に出来ることは、その冥福を祈ることぐらいだと、両手を合わせるのだった。


 そして、今──捻は両手を合わせつつ冷蔵庫へ向かい、ミネラルウォーターをカゴに入れ、セルフレジで会計を済ませると、レジ袋を片手に妖精さんへと顔を向ける。


「ほどほどにしとけよ」


 これ以上、コンビニが減ってしまってはかなわない……そう考え、捻は命よりもコンビニが大事なんてねと、苦笑する。でも、そういうものなのかもしれない。たとえ通勤電車で人身事故が起きたとしても、まず心配するのは自身の予定だろうし、ね。


 捻が店を出ようと足を向けた途端、自動ドアが開いた。パーカーにジーンズ、短い黒髪からスニーカーに至るまで、びしょ濡れの少女が入店し、さらなる悪臭が店内に満ちていく。まるで、ドブ川から上がってきたかのような……余りの悪臭に、捻は口元を手で抑えた。


 少女が手にした木刀を正眼に構えると、捻の体を妖精さんが背後から透り抜けた。少女は弾き飛ばされ、店外へ。自動ドアが閉まる。


 捻は口元を抑えたまま、立ち尽くしていた。心臓が早鐘のように鳴り、渇ききった体のどこに潜んでいたのかと思うほど、大量の汗が吹き出していた。


 でも、生きている……捻はレジ袋からペットボトルを取り出し、キャップを取って口にした途端、それを吐き出した。黒い液体がフロアにね、取り落としたペットボトルからも、それがドクドクと流れ出ていた。


 口一杯の不快感に、捻は嘔吐おうとを抑えられない。空っぽの胃から出るのは酸味のある胃液ぐらいだったが、その味や臭いの方がマシだと思えるぐらい、黒い液体は酷いものだった。


 ……そうだ、あの子は? 捻はジャージの袖で口を拭いつつ、店を出た。すると、そこには少女だけが立っていた。何かを拾って、肩に提げたポシェットの中に入れている。


「良かった! 無事でしたか!」


 少女が捻に気付き、駆け寄ってくる。捻は悪臭にたじろぎ、それに気付いた少女は「すいません!」と足を止め、「えっと、何から話せばいいのかな……」と独りごちる。


「ちょっと待ってて」


 捻は店に引き返し、商品棚からタオルに消毒用アルコール、ゴミ袋、ミネラルウォーターをカゴに入れて回ると、セルフレジで片っ端から会計を済ませ、店を出ながらタオルの入った袋を破り、中身を少女に向かって放り投げる。


 そして、500ミリリットルのミネラルウォーターが入ったペットボトルをレジ袋から取り出し、キャップを開け、口をつけてゴクゴクと飲み干す……ぷはぁ、生き返るっ! 


 捻がちらりと少女の様子を窺うと、投げたタオルを手にしたまま、立ち尽くしている。


「濡れたまんまじゃ、風邪ひくぞ?」


 少女がきょとんとしたままなので、稔は息を止めて少女に近づくと、その手からタオルを抜き取り、少女の黒髪を拭った。


 びしょ濡れのパーカーは脱がせたものの、シャツやズボン、下着はそうもいかないので、水気だけでもと拭っていく。少女は捻のなすがままとなっていたが、捻が右手首の傷に目を留めると、さっと左手で覆い隠すのだった。


 稔は汚れたタオルとパーカーをゴミ袋に突っ込み、口を閉じる。そして、ジャージのチャックを下ろして脱ぐと、それを少女にかぶせた。


 少女は小柄だったので、マントを羽織っているような格好となる一方、捻は汗で濡れた肌が外気に晒され、「へっくしょん!」と何度もくしゃみをしてしまったが、今更、寒いから返してとは言えないので、我慢する。


「目をつむってて」


 捻はそう言って、最後の仕上げにと消毒用のアルコールを噴射する。こういう使い方をしていいものかどうか分からなかったが、やらないよりはマシだろうと、捻は噴射を継続。


 やがて、捻は余った消毒用のアルコールを、少女用にと買っておいたミネラルウォーターが入ったレジ袋に入れ、少女に手渡した。


「早く帰って、風呂に入った方がいいぞ」


 ──そう言った直後、「へっくしょん!」盛大なくしゃみをした捻は、しばらく考えた後、ゴミ袋をゴミ箱の脇に置くと、少女に軽く手を振って歩き出した。


「あ、あの!」


 捻は足を止め、振り返る。


「助けてください!」


 そう言って、少女は深々と頭を下げた。


※※※

 

 ──少女の名は日向ひむかいひなた。同い年だと知って、捻は大いに驚いた。同じ十四年でも、こうも違うものなのか……背は低くて小柄だけど、ふっくらと健康的で、胸だって大きい。


 陽は「けがばら」だった。捻が呼ぶところの妖精さんは「けがびと」と呼ばれる存在で、目にするには修練が必要なのだが、中には、捻のように見えてしまう人もいるという。


 人が生きていく上で生じる穢れ。それは自然に消えてしまうものではなく、祓わなければこの世に留まり続ける。そうした穢れが月日を経て形を成したものが穢れ人であり、それは人の気()を枯らそうとする。そんな穢れ人を祓い、浄化するのが、穢れ祓い師なのだ。


 ……陽からそんな話を聞きながら、捻が案内されたのは小さな神社だった。といっても、神社らしいものは入り口の鳥居ぐらいで、境内けいだいには神殿も、拝殿も、手水舎ちようずやもなかった。


 やけに明るい月明かりの下、陽は白い折り紙を取り出すと、その場にかがんでせっせと鶴を折り始めた。数が必要らしく、捻も挑戦してみたのだが……結果は、惨憺さんたんたるものだった。


 捻は陽から量産された鶴を手渡される。すると、鶴は見る見るうちに黒く染まっていった。


「どうすんだ、これ?」

「空に向かって放り投げてください!」

「……ほらよ!」


 捻がすくい上げるように投げ放った鶴は一斉に羽ばたき、夜空へと溶け込んでいった。


「……これでいいのか?」

「はい! 後は待つだけです!」


 捻が陽から依頼されたのは、おとりになることだった。もっとも、陽は穢れ人を集めるために力を貸して欲しいと、捻に頭を下げたのだが……物は言い様、という奴である。


 捻には穢れ人を惹きつける力があるという。そんな捻が、穢れ人に集合の号令をかけたとしたらどうなるか……陽は必死だった。祓っても、祓っても、次々と現れる穢れ人。出現場所を特定することは困難で、結果、対応は後手後手となり、犠牲者も増える一方である。


 これ以上、誰も死なせたくないんです……そう訴える陽の言葉に、捻は自分が責められているように感じた。もちろん、陽にそんなつもりはないことは分かっていたが、実際、責められても仕方がないと感じたからこそ、協力……囮になることを承諾したのだった。 


 ──鶴を放り投げてからしばらく。大欠伸おおあくびする捻の横顔を、陽がじっと見上げる。


「捻さん」

「ん?」

「何も聞かないんですね」


 もう十分聞かせて貰ったような……首を傾げる捻に、陽は躊躇ためらいがちに言葉を続けた。


「なんだか、その、よく信じてくれたなって」

「まぁ、ずっと見えてたからなぁ」


 それに、その原因についても心当たりがあった。自分には、それしかないのだから。


「私は両親に捨てられたんだ。死んでもおかしくなったけど、水道水で生き延びた」


 水道水に栄養らしい栄養はない。水分は必要だとしても、飲み過ぎれば衰弱する。それでも当時三歳だった捻は、流し台へと這い上がり、水道水を飲み続けた。生き延びるために。


「……そうだったんですね」


 そう呟く陽の表情を見て、捻は聞いて欲しかったんだと悟る。


「陽は、どうして穢れ祓い師に?」

「日向家は昔から、穢れ祓いをしている一族なんです」

「なるほど。由緒正しき名家めいかって奴か」

「いえ、それほどのものでは……」

「学校は?」

「行ったことがないんです。捻さんは?」

「あるっちゃあるというか……」


 捻は言葉を濁した。日向の羨望の眼差しを見てしまったから。……正直、捻は学校に思い出らしい思い出はなかった。虐められることもなかったが、近づくものもいなかった。生徒も、先生も。自ら近づこうともともしなかった。もし近づいて、拒絶されたら──


「学校、行きたい?」


 捻の問いに、日向は頷く。ふと、捻は日向の手首の傷を思った。あれは、やはり──


「きました」


 陽が告げる。だが、捻にも分かっていた。漂う悪臭は紛れもなかった。見渡すと、四方八方から穢れ人が集まっていた。夜の闇よりもなお暗く、悪臭……いや、をまとう存在。それにしても、十、二十、狭いとはいえ、境内を埋め尽くさんとする、この数の多さは──


「さすがに、やばくないか?」

「罪と言う罪はらじと祓いたまい清め給う……いきます!」


 陽は臆することなく祝詞のりとを上げ、淡く光った木刀を振るう。それが穢れ人を打ち抜くと、水風船が割れるが如く、その身が液体となって弾け飛んだ。陽は汚水を直に浴びても怯むことなく、次の、また次のと、一太刀ごとに穢れ人を祓っていく。


 だが、数が多い。さばききれず、穢れ人の一撃を受けた陽は横倒しになったが、すぐに立ち上がって、木刀を構え直す。一方で、穢れ人は捻には目もくれなかった。捻は舌打ちし、知らず知らずに貧乏揺すりをしていた。


 理不尽だ、と捻は思う。こんな戦いが夜な夜な行われているなんて、全く知らなかった。同い年の少女が、学校にも行かず、そういう一族だからだと、化け物と戦い続けている。しかもその化け物は飛びっ切り臭いのだ。当然、命を失うリスクもある。それなのに、彼女は。


 何のために?  誰のために? ……私だ。私たちだ。何も知らず、のうのうと生きている人たちのためだ。それはおかしい、と思う。本当に生きるべきは、命を知る、彼女の方だ。


 陽の手から木刀が飛んだ。駆け出す捻。倒れた陽の前で、両手を広げて叫ぶ。


「私の命を持っていけ!」


 だが、穢れ人は捻には目もくれない。捻が殴りかかっても、拳はくうを切るばかり。畜生!


 気付け、気付け、気付け、私はここにいる、ここで、生きているんだ! 私は! 私は!


「あはははははははははははは!」


 ──捻は笑った。大声で。のように。気味が悪いと言われても構わない。それで私は見つかり、生き延びることができたのだから。捻はかがみ、腹を抱えて、笑い続ける。


 穢れ人の動きが止まった。陽は立ち上がって木刀を拾い直し、穢れ人を祓っていく。笑いが治まってきた捻は、大きく深呼吸。涙でにじんで見える光景は、陽の背後に近づく穢れ人。


 捻は駆けだした。渾身の拳はなおも手応えがなく、万策尽きた捻は、穢れ人に噛みついた。口一杯に汚水が溢れ、捻はすぐにそれを吐き出す。だが、汚水は止めどなく溢れ続け、永遠とも思える時間の後、何か硬い塊が飛び出たことで、汚水はようやく打ち止めとなった。


 ──頭がくらくらする。捻は陽から差し出されたペットボトルの水で何度も口をそそいだが、臭いは中々とれない。それでも何とか吐き気は治まり、捻はその場に座り込んだ。


 ぼんやりと周囲を眺めると、陽が境内を歩き回っては、何かを拾い上げている。やがて、陽の手は捻が吐き出したものにまで及んだ。丸い宝石のような、漆黒の塊。


「それ、何?」

「穢れ玉です! 穢れ人の心臓に当たるもので、朝になったら太陽の力で浄化させます!」

「なるほどね」

「あ、あの!」

「ん?」

「助けて頂き、ありがとうございました!」


 深々と頭を下げる陽。捻が頷くと、陽は「ちょっと失礼しますね!」と断りを入れてから、携帯電話を取り出した。捻は胡座あぐらをかいて項垂うなだれ、目を閉じる。いっそ、このまま───


「本当ですか!」


 陽の声で、捻は目を覚ました。通話を負えた陽が捻に駆け寄り、手を伸ばす。


「さぁ、捻さんも行きましょう!」

「どこへ?」

「天国です!」


 捻はきょとんとしつつ、陽の手を取った。


※※※


 ──洗面器に満たした熱い湯を頭から被り、捻は「あーっ!」と声を上げた。その背後では、同じく陽が「あーっ!」と声を上げている。それはもう、声が出ないはずもなかった。


 全身の汚れが、排水溝へと流れ落ちていく。捻は再び湯を被り、気持ちよさを噛み締める。


 ──まさに天国だった。銭湯。しかも、貸し切りである。日向家と親交のある店主が提供してくれたのだという。遠慮せずに……とのことだったので、捻は新品のタオルにボディーソープを大量投入し、これでもかと泡立て、全身を磨き上げていく。続いて髪も、口もと、汚れという汚れを洗い流しながら、捻は前回、風呂に入ったのはいつだったかと思い返す。


 自宅にはユニットバスこそあるものの、湯船の横に便器が鎮座しているのだ、入浴の意欲が削がれてしまうのも無理はないだろう。こんな銭湯が近所にあれば、毎日のように通うだろうし、それだけで幸せな人生となるだろう……電子マネーは、使えそうにもないけれど。


 何度目とも知れぬ湯を浴びた後、捻がふと振り返ると、金髪の少女が座っていた。


「……陽?」

「はい?」


 振り返った少女……陽は、青い瞳をしていた。張りのある肌に湯が気持ちよく滑り、ほんのりと上気した顔は天使のよう……同性の捻が見ても、溜息が出るほど可愛かった。


「……外人だったの?」

「えへ……これでも、ハーフなんですよ!」


 捻と陽は、並んで湯船に浸かる。捻は手足をゆっくり伸ばした。これも、狭いユニットバスでは味わえない贅沢である。捻が高い天井を見上げると、窓から朝日が差し込んでいた。


 捻はふと陽に目を向ける。陽はじっと手首を見ていた。遠目にも分かる傷。捻は口を開く。


「それ、自分で?」

「はい!」


 明るい返事。捻はそれ以上、何も聞かなかった。……色々あったのだろう。だが、今はこうして生きている。それだけで、十分だろうと思う。捻は陽の視線に気付き、首を傾げる。


「どうした?」

「捻さんって、美人さんですね!」


 ぽかんとする捻。言葉の意味を理解するにつれ、顔が赤くなる。そんなことを言われたのは、生まれて初めてのことだった。ぶくぶくと、捻は湯船に深く沈んでいく。


 ──風呂上がり。腰に手を当て、牛乳瓶を傾ける陽を横目に、捻はそりゃ発育もよくなるだろうなぁと思う。捻も勧められたが断り、ミネラルウォーターを口にする。うん、うまい!


 脱衣所には陽だけでなく、捻のために新品のジャージと下着が用意されていた。そのサイズも、ブラ以外は測ったようにピッタリだった。


 着替えを済ませ、銭湯の外に出ると、革の鞄を提げたスーツ姿の女性が待っていた。ともえ。陽のサポーターだという。捻は巴の顔を見て思う。本当の美人さんというのは、こういう女性のことを言うのだろうなぁと。


 巴は捻に封筒を差し出した。捻は封筒に手を伸ばす代わりに、ジャージのポケットから電子マネーのカードを取り出し、巴に振って見せた。巴は頷き、封筒を鞄に仕舞うのだった。


「捻さん、ありがとうございました!」


 陽は捻に頭を下げると、ワンボックスカーの後部座席に乗り込んだ。捻が手を振ると、ウィンドウ越しに陽も両手を振って返す。車が出発し、見えなくなると、捻は手を止めた。


 捻は両手を上げて伸びをすると、家に向かって歩き始めた。寝る前に、部屋の掃除でもするかなぁ……捻はふとそんなことを考え、我ながら現金なものだと、小さく笑うのだった。

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