6.5−14 世界は、広いですね

 大騒ぎになった『月狐杯』から数日後の夜。敷かれたばかりの美しい石畳の上を慌ただしく駆ける、ひとつの細い影があった。


「も、もうこんな時間!」


 湯けむりで満たされている浴場は視界良好とは言えなかったが、少女――フィールーンは、頭の中にしかと記録してある見取り図を頼りに迷いなく進んだ。隅に据えられた小さな湯の溜まり場で身体を清め、本命である大浴槽へ向かう。


「すごい……。本当にあの運動場が、お風呂になったなんて」


 濡れた足でひたひたと歩きつつ、あのタッキュー大会の激闘を思い出す。自分たち竜人ペアの一撃によって新たに“湯水晶”から誕生した温泉、それがこの場所である。歴史ある運動場を風呂になどしていいのかと女将に進言したものの、「面白そうでございましょう?」といたずら狐の顔で言い返されたことはいまだ印象深い。


 広大な部屋の中央に贅沢に設られた大浴槽へ到着した王女は、身体に貼りついたタオルをきゅっと握って湯を見つめた。


「……」


 淡い水色がかった、とろりとした湯。しばらくじっと見つめていると、オブジェとしていくつか置かれている大岩の陰から声がした。


「――警戒しなくても、この湯にはなんの効果もない」

「はい。たしかにそう聞いてはいますが……って、え!?」


 自然と応答したあとで、ぎょっとして王女は顔を跳ね上げる。ぱちゃん、と水音が上がった方角に目を向けると、見慣れた群青色の頭が湯けむりに揺らめく。


「せ、セイルさんっ!?」

「……被ったな。入る時間」


 先客は仲間の木こり青年、そしてタッキュー大会を共に戦った相棒であるセイルだった。刈り上げた後ろ頭を見るに、こちらに気を遣ってくれているらしい。


「あ、あああの、すみません私、この“特典”のこと、お仕事ですっかり失念していて……こんな、遅い時間に」


 この新たな湯を一番に楽しむ権利――それは女将がタッキュー優勝者、さらに温泉発掘者であるフィールーンたちに贈ったものだ。湯殿造りや水質検査が終わったからいつでも入ってくれと湯師の頭に言い渡されたのは三日前だったが、そこからは毎日仕事に忙殺されていたのである。


「オレもだ。さっきまで仕事していた」 

「で、ですよね。大会の翌日に乗ってきたお客さん、団体様でしたし……。この新しい湯のことも早くも噂になっているようで、みちるさん宛の“報せの魔法”がたくさん届いてるって――」

「入らないのか?」

「!」


 仲間の素朴な声に、王女の脳内から浮かれている女将の姿が掻き消えた。水蒸気のヴェールの向こうからふたたび、仲間の催促が届く。


「オレも湯師筆頭に急かされて入りにきた。今夜お前たちが使わないなら、明日からもう一般客に開放すると言っていた」

「そ、そうですよね。でもセイルさんが寛いでいる所に、ご一緒するなんて……」

「気にするな。どうせ混浴にする予定らしい」

「こっ!?」


 脱衣所に自分以外の着物がなかった理由に気づき、フィールーンはひとり顔を赤くする。そうしている間に、仲間の頭がスススと岩の向こうに消えていく。逞しい肩の端だけは見えていたが、またこちらを配慮してくれたのかもしれない。


「……」


 思えば、彼と顔を合わせるのは競技大会の夜以来だ。一連の騒音は一般客たちの元に届かぬよう“秘密の工夫”があったというのは本当らしく、翌日からは全員が何事もなかったかのように働いていたのだから驚きである。


 とくにセイルたち湯師は通常の業務に加えこの湯殿の建設を担っており、まったく見かけることがなかったほどだ。久々に感じる木こり青年の静かな気配に、フィールーンの胸がむずむずと甘く騒ぐ。


「じ、じゃあ、あの……。失礼します」

「ああ」


 タオルを畳んで縁岩の上に置き、そっと湯に身体を浸す。その瞬間、なんとも言えない心地よさが王女の全身を駆け上がってきた。


「ふ、あぁ……! 気持ち良いですね……」

「“コリホグシ酸、メチャキクナニカ鉱水、シミワタールリウム、ヤッパコレヤワーシリカ”――どれも疲労回復に作用する成分だ。竜人にも効くらしい」

「でも他の温泉みたいに、特殊な効能はないのですよね」

「それがかえって斬新で良いと言っていた。他の湯で妙な姿になった時、効能を洗い落とすこともできると」

「わ、すごい! もう立派な湯師さんです」


 素直な感嘆を伝えると、少し間を置いてぼそりと返答が寄越される。


「……まだまだだ。ユノハナで確認されている温泉成分は千以上ある。それを湯師は全員覚えていると言っていた」

「奥深い世界ですね」

「お前ならすぐに覚えそうだな」

「!」


 ふ、と吐息の最後に笑みが混ざったような気がして、フィールーンは思わず振り返って仲間を見た。当然岩で見えるはずもないのだが、彼もまた温泉に癒されている気配を感じてどことなく嬉しくなってしまう。


「そっちの仕事はどうだった」

「は、はい! とても楽しかったです」


 ずっと殿方の肩を見つめるもの気が引けて正面に向き直り、フィールーンは誰もいない洗い場に向けて語った。


「私、お仕事をするのがはじめてで。最初は全然、お役に立てませんでした」


 数枚の皿を持ち上げるだけでも危うかった頃を思い出し、王女はひとり苦笑する。もっとも忙しい宴会時には焦るあまり、皿を数枚割ってしまったこともあった。


「たくさんご迷惑をかけたのに、板場の皆さんはとても優しくて。自分も最初はそうだったって、励ましてくださるんです」

「……こっちも、そんな感じだった」

「はい。おかげで昨日ようやく、お皿タワー三十枚を扱うことを許されたんですよ。皿運び水色オビ、卒業です!」

「よくわからんが、よかったな」


 裸では胸を張ることもできないが、仲間の素っ気ない賞賛だけで王女の心は温かくなる。柔らかい湯を両手ですくって覗くと、黒髪を湿らせた少女の顔が見返してくる――少しは、成長できただろうか?


「きっと私が暮らした城の中にも、ここと同じくたくさんの働く方々がいて。今まで立ち寄った村や町……そのひとつひとつが誰かの毎日の頑張りによって作り上げられたものなんだって、わかった気がします」

「……そうだな。考えたこともなかった」

「ふふ。世界は、広いですね」


 言うと同時に職場の仲間たちの顔が浮かび、少し切なくなった。


「あと数日でもう、私たちの目的地――“神秘郷”に着いてしまうんですね」

「……ああ」


 新人湯師の少し小さくなった声を聞き、彼も自分と同じ気持ちであることを悟る。最初は役目のためにと必死だった“お仕事”だが、気づけば生活の一部になるまでになっていた。着慣れた仕事服に袖を通す機会もなくなるのだと思うと、素直に寂しい。


「明日が仕事納めで、オレたちには給金が出るらしい」

「えっ……ええ!? 初耳です!」

「働いて金を得るのは当然だと思うが」

「で、でも私たち、宿泊費のための“配役”で……」

「湯師と板場の連中が、女将に申し入れをしたと聞いた。自分達の給金を少し崩して構わないから、新人たちに払ってやれと」

「……皆さん」


 じわ、と目元が熱くなる。熟練の者たちに比べればまだまだの働きしかできなかった自分にも、価値を認めてくれたのだ。書物に埋もれ守られるばかりだった自分がこうして他人の役に立ったのだと思うと、王女の胸に誇らしさが込み上げる。


 気づかれないようにそっと鼻をすすり、フィールーンは明るい声で言った。


「嬉しいです、とても。はじめてのお給金です」

「何か買うのか」

「そうですね……神秘郷の前には素敵な町があるそうですし、何か探してみます。いつも世話になっているリンや先生、それにお誕生日を迎えるエルシーさんにも。タルトトさんには、うーん……そのままお渡ししたほうが喜ばれるのでしょうか?」

「どうだか……な」

「そうだ、セイルさんは何か欲しいものとか――」


 流れで訊いてしまったことに気づいて赤面したが、謎多き彼を知る好機だと覚悟を決める。しかし湯に波紋ひとつ広げずにじっと待っていても、解は返ってこなかった。


「セイルさん?」

「……」


 寡黙な仲間だとしても、あまりにも無反応すぎる。フィールーンは迷った挙句、仲間が潜む大岩へそろりと近づいた。薄目を開けて彼の肩を見、規則的に上下していることを確認する。合わせるように、静かな息遣いが聞こえた。


「寝てる……?」


 連日の仕事に、竜人といえど仲間も疲労が溜まっていたのだろう。それにこの湯の気持ちよさはきっと、どの種族にも効果抜群だ。思わず笑みを浮かべたフィールーンだったが、すぐに青ざめて呟く。


「だ、ダメです! 温泉で寝ちゃうなんて」


 さすがに寝たまま溺れることはないだろうが、このまま時間が経てば湯の熱でのぼせてしまう。大柄な彼を運ぶことはできないし、誰かを呼びに行くと一緒に風呂に入ったことが知れてしまう――。


 側付の吊り上がった金眉を思い浮かべ、王女は慌てて呼びかけた。


「セイルさん、起きてください! テオさま、聞いていらしたなら、中からも起こして……って、きっと無理ですよね。深く眠るとなかなか起きないって、エルシーさん言ってましたし」


 彼の妹が憤慨しながら訴えていた朝を思い出し、王女は眉根を寄せる。そうこうしているうちに自分の肌にもずいぶんと汗が浮かんできた。水温が高めの温泉なのだと今更気づき、ますます焦りが募る。


「こ、こうなったら――力ずくで、お湯から引き上げるしか! はあああッ」


 身体の中央に魔力を送り込み、王女は竜人の姿へと移行する。果たして気持ちの昂り無しに“成れる”かどうかと疑問を浮かべる間に、濡れた身体から乳白色の鱗がじりじりと浮き出した。


「よ、よし! 成れた! ははッ、すごいぞあたし!」


 魔力の波動は多くの湯を吹き飛ばしたものの、その湯の中で仁王立ちになった竜人王女は両の拳をぐっと握った。タッキュー戦で竜人の力を引き出すイメージをしたことが功を奏したのかも知れない。


「そういえば最近は、竜人化している間のこともちゃんと覚えておけるようになってきたな。これなら力を制御できる日も近いかもしれない」


 まだまだ仲間より時間はかかりそうだが、自分にとっては大きな一歩だ。思わぬ成果に満足していたフィールーンだったが、変身の目的を思い出して白黒頭を振る。


「じゃない! セイルをっ!」

「……おい、何してる。さっきからうるさ――……」

「はぇ!?」


 振り返った己と、岩の向こうからこちらを覗き込んだ青年の視線がぶつかる。眠そうに細められていた茶色の瞳が、みるみるうちに大きくなった。


 水かさが減った湯の中央。

 そこで固まっているのは、湯けむりひとつまとっていない竜人王女。


「みっ……見るなあああーーーーッッ!!」



 多くの客が楽しみにしていた新たな温泉はこうして、お披露目の前日になって大規模な“修復作業”に追われることになったという。




<狭間の章:幻湯旅籠ユノハナ 完> 

 

あとがき的近況ノート(お知らせつき):

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330657256876563

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