6.5−6 でも君もオトコだ

「おーっし、ちょいと休憩だァ! みんな集まってくれい」


 湯けむりの中に響き渡ったどら声に、セイルは作業の手を止めて振り向いた。むさくるしい返事をしつつ、仕事の“同僚”たちがぞろぞろと湯殿の奥へと集まっていくのが見える。


(僕たちも行こう、セイル)

「オレはまだ疲れてないが……」

(大勢で働く時は、決まった休憩時間を設ける場合が多いんだ。息抜き時に交わす仲間との会話も、仕事の醍醐味のひとつだよ)

「そういうものか」


 今までひとりだけで木こりの仕事をこなしてきたセイルにとって、心中の友からの言葉は初めての情報であった。青年は“湯もみ”――熱すぎる温泉に大きな木の板を差し入れ、上下させて湯の温度を調節する仕事らしい――で使っていた板を近くの岩に立てかけ、仲間たちの元へと足を向ける。


(いやあしかし、噂通りのすごい温泉だね。良質な魔力に溢れている)

「仕事が終わったら入っていいらしいぞ」

(楽しみだね)


 ここはまだ客を通す前の湯殿だ。誰も入っていないと湯の水温は上がり続けるものらしく、こうしてセイルたち“湯師とうし”が先に湯の温度や水質の管理に派遣されるのである。


 皆の元へ着くと、湯師筆頭の男――頭のてっぺんから魚の背ビレのようなものが突き出している――が、汗だらけの顔をニカッと綻ばせて細い瓶を差し出してきた。シュワシュワと小さな泡が絶えず湧き上がる、透明の飲料だ。


「よゥ、新入り! 仕事は順調か?」

「分からん。とりあえず混ぜている……湯気は立たなくなったぞ」

「おう、最初はそれで十分だ! って、そりゃ混ぜすぎじゃねェかい? 普通そこまで冷ませないもんだがなァ、おもしれー男だ」


 がっはっはと威勢よく笑い、男は瓶を豪快に傾けて口をつける。セイルもならって飲んでみるが、実に美味かった。甘いのに、ちりちりと舌を焼いていくような淡い刺激が楽しい。


「ラムネルが気に入ったか? 何本でも飲んでけ、喉が渇いてるとぶっ倒れちまうからよ」

「全部もらう」

「遠慮って言葉は辞書にねェんだな、最高か? まったく、ヒトの小僧がこのユノハナの花形である“湯師”に加わるなんざ、女将から言われた時ぁ腰を抜かしたもんだが……なかなかどうして、骨のあるヤツが来たもんじゃねえか!」


 水掻きらしきものを備えた大きな手にバンバンと背中を打たれ、セイルは二本目のラムネルを吹き出しそうになる。しかし筆頭はかまわず、わしゃわしゃと青年の蒼髪を掻き回した。


(なんだか懐かしいね)

「うるさい」


 賢者が楽しそうに漏らしたその言葉に、セイルは誰にも聞こえない声量でむっつりと言い返す。粗野ながら親愛が込められた筆頭の扱いはたしかに、遠い故郷の森にいる養父を思い出させた。


「新たな仲間、セイルに!」


 筆頭がラムネルを盃のように掲げると、めいめい座って休んでいた同僚たちも献杯した。湯けむりの中、あちこちで薄青い瓶が宝石のようにきらきらと輝く。


「いやほんと助かるよ。“湯師”はキツい仕事だ、なかなか新人が来ない」

「さっき“もみ板”を十枚も運んでるのを見た時はたまげたよ。おれだって三枚が限度なのに」

「ワシは食べっぷりが気に入った。明日から彼の弁当は三倍増しでと“板場”に注文しとかにゃ。やはり若もんはこうでなくちゃのう」

「筆頭。こりゃあきっと、あと数日で肩書きを譲らにゃなりませんぜ!」

「何をぉ!?」


 セイルは黙々とラムネルを飲みつつ、その賑やかな談笑に耳を傾けていた。どうやら自分の仕事は良い方向に評価されたようだ。


(お疲れさま。君が誉められていると、僕もうれしいよ)

「……。そうか」


 自分は今までひとり仕事をこなしてきたが、確かにこのユノハナの温泉をすべて把握するのは不可能だろう。それぞれが仕事を分担し、協力し、ひとつの大きな役目を果たす――そういう働き方も悪くはないのかもしれない。


(せっかくの機会だ。もう少し君も、誰かと話してみるのはどうかな)


 新人の歓迎は済み、今はそれぞれが近場の者と適当な会話を交わしている。セイルはテオギスのアドバイスに従い、自分の近くにいる者を探した。


「やあ、新人君」

「!」


 すぐ近くで上がったその声に、思わずラムネルの瓶を握りしめる。ぴしりという音と共に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。


「ああごめん。驚かせちゃった? ここ、湯気がすごいもんね」


 濃霧のような蒸気を割って現れたのは、すらりとした長身の男だった。まったく気配がなく近づいてきた男を警戒してセイルは目を細めたが、ふと見覚えのあるものの存在に気づく。白い狐の面に、背で揺れる黒い尾――。


「……お前、女将の」

「そんなに警戒しなくてもいいじゃん、傷つくな。ボクだって一応、君と同じ舟の仲間なのにぃ」


 主張通り、男は自分と同じ紺色の従業員着物を身につけている。他の誰も彼に驚いていないところを見ると、舟の一員であることも確かなのだろう。掃除用のデッキブラシにすがってめそめそと泣くフリをする優男に、ようやく警戒を解きつつセイルは挨拶した。


「悪かった。怪しいヤツにしか見えなかった」

「ボクを女将ボスと繋がりのある者と認識したにしてはひどすぎる挨拶だね? まあいいや。どうだい、仕事のほうは。何か困っていることがあれば聞くよ」


 ブラシの柄に手と顎を置き、男は形の良い口元を小粋に持ち上げた。新人の様子を見るために女将から遣わされたのかもしれない。セイルはこれまでの仕事を振り返りつつ、ぼそりと意見した。


「飯が少ない。ここはわずかな飯で働かされる過酷な仕事場なのか」

「ちょ、そんな危ない言い方しないで!? ヒトには二食分に値するほどの弁当のはずなんだけどな……。ま、板場に話しておくよ」

「空を飛ぶ舟なのに、どうやって温泉が湧いてくるんだ」

「話が突飛だね? さてはそういう一族?」


 これは自分というよりもテオギスがずっと呟いている疑問だったのだが、もちろん説明する気はない。こほんとわざとらしく咳を落とした面の男は、慣れた調子で語り始めた。ほとんど歌っているかのようだ。


「舟の最下層にある“源泉水晶室”。世界各地の土を集めてしつらえた苗床からにょきりにょきりと生えまするは、世にも奇妙な“湯水晶”の数々!」

「湯水晶……?」

「数百年のまどろみの末、彼らはさまざまな奇跡の湯を生み出しまする。怪我万病を払い退け、老いを嘆く者には若きを、若きを恥じる者には老いを与え。まるで美と癒しの大海のごとく、この“ユノハナ”を潤わせるのでございます」

「潤うのはお前たちの懐だろう」

「それ絶対他の仕事場で言わないようにね!? お兄さんとの約束だよ!」


 黄金の雲に乗って現れた時の女将もそうだったが、ユノハナの住人たちの語りは独特だ。心中で親友の竜はくすくすと嬉しそうに笑みをこぼしているようだが、そういった雅さはセイルには理解できない。


「やれやれ、とんだ正直者だ。とてもヒトとは思えないね」

「……」


 大袈裟に嘆く狐面の切れ目から、するどい金の光が覗いたような気がした。セイルは無表情を貫いたが、眼前の男が他の従業員とは格が違うらしいことを理解する。


「もっとも――その割れた腹の中まではだ、素直じゃないみたいだけど」

「腹は下してないぞ」

「フフフ」


 首を傾げたセイルを見下ろしたまま、男の薄い唇が静かに開く。湯師見習いはそこでようやく、この熱気の中にいながら彼が汗ひとつ浮かべていないことに気づいた。


「君の仲間の、黒い髪の子。彼女、かわいいよね」

「!」


 セイルの心の奥で、黒い何かがむくりと起き上がるような気配がした。ラムネルの甘さが口の中から消え去る。


「美人なのはもちろんだけど、奥ゆかしいっていうかさぁ。守ってあげたくなるカンジっていうのかな。ギュッとしたくなるよね」

「したら殺す」

「秒で本性出してくるじゃん」


 言われてハッとし、セイルは己が無意識に放った言葉を検分した。従業員に扮しているものの、あくまで自分達は女将の“客”だ。この男にしても、きっと本気で言ったのではないことぐらい承知している。なのになぜ、これほど強い警告を発してしまったのだろうか。


「あーあ、うっらやましー! ボクもあんな美人ちゃんと旅して、あんなコトやこんなコトしたーい」

「なんだそれ」

「フッフーン、成る程? でも君もオトコだ、そりゃ色々と想像しちゃったりするんじゃないのぉ? たとえばさ……」


 男の顎に添えられた細い指を眺めていたセイルだったが、次の瞬間に軽く目眩を覚えた。頭の中に、どこかの客室の光景が浮かぶ。不思議な草の香りがする床の上に敷かれた白い寝具――そこに膝を揃えて座っているのは。


『あ、あの……私、お仕事に戻らないと』


 白くて薄い客用の浴衣に身を包んだフィールーンの姿を捉えると、強靭であるはずの竜人の胃が奇妙に揺れた。浴衣の裾元と同じく、王女の頬は桃色に染まっている。彼女の視線の先から、浴衣姿となった狐面の男がスイと現れた。


『これも“お仕事”だって言ったら?』

『えっ……』

『君、王女なんだって? なのにすごいなあ、こうして旅をしているなんて』


 フィールーンの傍に膝をついた男が、音もなく彼女の黒髪をすくい上げる。びくりと怯えたかのように見えたが、王女はどこか熱っぽい光を浮かべた眼差しをしていた――そう気づいた瞬間、セイルの心中にいる黒いものが唸り声を上げ始める。


『でもね、ここで旅を終わりにするのもいいと思わない?』

『そんな』

『この舟には使命も苦痛も、時間さえ存在しない。あるのは癒しと、いいコトばかりだよ』

『いい、こと……』


 楽しむように黒髪を梳いていた男の指が、滑らかな蛇を思わせる動きで王女の頬を這う。それでも抵抗せず、むしろ蕩けるようにぼうっとした表情を浮かべた仲間の顔を見、セイルはどこに存在するのかさえ不明瞭な己の拳を握りしめた。


『大丈夫。ボクがゆっくり教えてあげる』


 王女の背に手が回される。

 二人の男女はゆっくりと、白い布の海に沈んでいく――。


「――やめろ!」

(セイル?)


 それが自分が放った言葉だと気づくのに数秒かかった。賢者の驚いたような声に、セイルは目を数度瞬かせる。あれだけラムネルを流し込んだはずの喉が渇ききっていた。


「……今の、視えたか。テオ」

(いいや、僕には何も。何を視たんだい?)


 白昼夢というにしては、あまりにも強烈な感覚だった。部屋に漂う甘い香の匂いさえまだ思い出せる。湯殿の熱気がもたらすものとは違う汗が着物の背を濡らしていくのが分かり、セイルは眉を寄せた。


「フフ。あのまま“やめ”にしなかったら、君はどうしたのかな」

「!」


 湯気の中、どこからか涼しげな声だけが響く。周囲を見渡してみても呑気に休息を取る仕事人たちの姿があるだけで、あの飄々とした狐面は見つからなかった。


「その口のように、心も素直になることだね。力が強いだけでは、守れないものもある」

「お前……」

「君はもっと、かたわらにある“宝”の価値を自覚するべきだ」


 渦巻くように一部の湯気がゆらめき、それきり静かになる。同じように気配を探っていたらしい賢者が、小さな息を落としてささやいた。


(行ってしまったね。彼はもしや――ああそれより、ちょうど休憩が終わるようだよ)

「……」

(セイル? 大丈夫かい)


 仕事場に、ふたたびがやがやとした活気が満ちる。それでもセイルは、最後に狐面を見た場所から目が逸らせなかった。


「なんだ、これは……」


 黒い感情を宿した見知らぬいきもの。賢者にも感知できない“それ”は、消え去ったのではない。きっとまた、自分の心の隅で眠りこんでしまったのだ――そう思うと、湯師見習いの手の中でラムネルの瓶がついに真っ二つに砕け散った。



***


あとがき的近況ノート:

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330653371960556

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