6.5−7 見てほしいの

「はー……」


 自分の口から自然とこぼれ落ちたその声を、乳白色の水面から立ち昇る湯けむりが優しく包み込む。それらが渦を成しながら夜空へ舞い上がるのをぼうっと眺め、金髪を濡らした青年――リクスンは、石造りの温泉に深く身体を沈めた。


「これほど贅沢な湯殿を独り占めとは」


 ひとり言に応える者はいない。言葉通り、現在この広大な温泉に入っているのは自分だけだ。舟の甲板が見渡す限りの浴場であることにもまず驚いた騎士だったが、それらのすべてが今夜は自分たちにのみ供されると聞いた時は相当に仰天したものだ。


「逆に、落ち着かんな」


 星空が近い。いつもよりも星々が眩しく見えるのは、このユノハナという旅籠が紛れもなく空を泳ぐ舟だからだろう。甲板には舟の面影はなく、雅な石畳の踏みごこちには数百年の歴史が感じられた。丸や四角、それにどう見ても底が見えない不思議な湯まで――数えきれないほどの温泉が点在し、不思議な香りのする湯気を夜空に噴き上げている。


「しかし今は、感謝せねば……」


 中央に巨大な岩が突き出た湯殿。その縁に背中を預け、リクスンは両の指を組んで思い切り空へと伸ばした。火傷に良いと教えてもらったこの湯の効能は本物で、沁みることもなくこうしてとろりとした湯を楽しめている。包帯を外した身体のあちこちにはまだ火傷の痕が残っているものの、この温泉のいくつかに浸かっただけでそれらは明らかに薄くなっていた。


 この調子で毎日入浴を続ければ、きっと次の旅の目的地までには快復できるだろう。そう思うと知らず、安堵の息が落ちる。なにせ次は謎多き妖精たちの棲家である神秘郷――精霊たちと繋がりが深い“とある少女”にとっては、大事な経由地のひとつとなるからだ。


「……」


 乳白色の湯の中から左手を持ち上げ、リクスンは己の指を見た。剣士らしい隆起が目立つ無骨な指、その中ほどで煌めきを返すのは。


「何が“配役”なのだ、まったく……!」


 この高級旅籠に無料で宿泊できる条件のひとつとしてリクスン、そして仲間の少女エルシーに与えられた“配役”。その馬鹿げた内容を思い出すと同時に今日の出来事が次々に頭に蘇り、騎士は重苦しく嘆息した。


 仲間たちと別れ、廊下に掲示されたユノハナの見取り図を眺めていた時のこと。


“旦那様、奥様!”

“だっ……お、俺たちのことか!?”


 リクスンとエルシーは揃って硬直したが、恰幅の良い従業員は心からの祝福を込めた笑顔で礼をする。


“はい! このたびはご結婚、まことにおめでとうございまする。新婚旅行にこのユノハナをお選びいただいたこと、従業員一同感謝に堪えませぬ!”

“俺たちはただ、任務でだな”

“リンさん”


 赤茶色の羽織の袖をくいと引っ張られ、リクスンはとなりの少女を見る。緑髪をいつもの頭上ではなくゆったりと肩に流したエルシーは、ほんのりと頬を染めてもじもじと告げた。


“女将さんが言ってた、この指輪の効果よ。今のあたしたちは誰の目にも、ふ、『夫婦』として映るんだわ”

“それはそうかもしれんが……”

“じゃあ仕方ないじゃない。お役目に徹しましょうよ”


 少し気遣わしげに見上げてくる茶色の瞳には、リクスンには窺い知れない奇妙な熱っぽさが篭っている。騎士はぎこちなく頷き、期待顔で待っている従業員を見て言った。


“……こちらこそ歓迎、感謝する”

“まあ旦那様ったら、お照れになって! わたくし女将より、お二人を『ユノハナ満喫つあー』にお連れするよう言いつかって参りました。ささ、こちらへ”


 異文化であるユノハナを見て回るのは確かに楽しかった。好きに寝転んで寛げる広大な座敷や、何本もの手で器用に客の疲れを揉み解しているマッサージ室。リクスンの主君が喜びそうな巨大書架や、魔法技術で草原を模した広大な鍛錬場なども充実している。しかし――。


“旦那様、奥様がお作りになるお料理の中では、何が一番お好きですか?”

“奥様、旦那様のどのような部分をお見染めに?”

“旦那様!”

“奥様!”

 

「ええい――うるさいッ!! 連呼するな!」


 ばしゃっと水柱を立たせ、リクスンは思い切って湯の中に全身を浸ける。水泳は好きだが、ここまで豊潤な湯の中に潜ったのは初めてだ。静かな水中にいるとようやくあの従業員の浮わついた声が遠のき、平常心が戻ってくる。


 湯の中で目を開けることはできるのかとふと思い立ち、騎士は薄くまぶたを押し上げてみた。そして揺らめくそのまろやかな湯の中に、先ほどまでなかったものが出現していることに気づく。


 白く、ほっそりとした女の肢体――。


「っ!? ぶはっ」

「リンさん」

「ほ、ホワード妹……っ!?」


 額に張りついた金髪の下、騎士の琥珀の瞳が限界まで見開かれる。湯の中に立ってこちらを見下ろすのは、先ほどまで記憶の中を一緒に歩いていたエルシーその人だ。しかも大胆なことに、彼女がまとうのは白いタオル一枚。いくら細い少女であると言っても、その柔らかな身体の稜線は布地の左右からもしっかりと確認できる。


「よかった。溺れてるのかと思っちゃったわ」


 呆れたような、安堵に満ちた声。肩上でゆるくまとめられた緑髪から垂れた後毛を静かに耳の上へとかけ、エルシーはくすくすと小さく笑った。月光を背負った少女は、いつもよりも可憐に――いや、美しく見える。


 ハッと目を瞬かせ、リクスンは慌てて顔をぐりんと捻って言った。


「な、な、なぜこの湯に!? まさか、俺が場所を間違って」

「ううん、合ってるわ。あたしたちのために今夜は貸切って言ってたでしょ」

「しかし君は、甲板の反対側の湯に入ると……それも、ずいぶん前の話だぞ!」

「乙女の湯浴みは長いものなのよ、騎士さん。しかもこんなに素敵なお風呂なんですもの、全部味わいたくなるのは当然でしょ」


 弾んだその声を聞くと、出ていってほしいとは言えなくなる。しかもリクスンのタオルは、岩を挟んだ反対側に置き去りにしてしまっていた。どうやら己も浮かれていたことに気づいて呻きつつ、騎士は厳格な咳払いを落とす。


「では俺が他へ移ろう」

「どうして? 一緒に入ればいいじゃない」

「なっ、何を言っている! 年頃の婦女と同じ風呂に浸かるなど、言語道断だ」

「あなたは、ただの女の子と鉢合わせたんじゃないわ」

「ッ!」


 柔らかな手が、そっと己の肩に添えられる。リクスンは驚いて仲間を見――ようとして、彼女が裸に近い格好をしていることを思い出した。ぎゅっと目を閉じた瞬間、すぐ耳元でひそやかな声がした。


「“奥様”が一緒の湯に入ってきたのよ。なにがおかしいの?」

「ホワード妹、どうしたというのだ!? このような、誰も見ていない場所でまでそんな役――」

「あら、誰も見ていなければあなたは仕事をしないの? 意外と不真面目なのね」

「そ……それは」


 不思議と、いつもの言葉の応酬へは発展しない。火山でお互いの想いを交換しあって以来、自分達の間にはこういった一種の気まずさが居座っていた。あれほど言葉をぶつけ合っていた日々が嘘のようだ。


 ぱちゃんと湯が跳ねる音と共に、少女がぐっと距離を詰めてきたことを感じる。押し退けるために彼女の肩を掴みたいところだが、目を閉じた状態で手を突き出すことはあらゆる意味で自殺行為に思われた。


「分かったから、それ以上近寄らないでくれ!」

「そうはいかないわよ。あたし、お酌しにきたんだから」

「酌だと?」


 トプトプと、狭い容器の中で液体が波立つ音が聞こえる。酒瓶かと思うと同時に、彼女はそんなものを持って入ってきただろうかと疑念が湧いた。


「さっきの“つあー”の人に取り寄せてもらったの。ユノハナでしか味わえないお酒なんですって。リンさん成人しているし、飲めるわよね?」

「何を言っている。任務の途中に酒などと……やはり、先ほどから君はおかしいぞ」

「なんにもおかしくないわ。夫婦はこうして“月見酒”をするものだって、女将さんも言ってたし。だから……ほら!」

「ぐっ!」


 急に強い力で肩を押され、リクスンは体勢を崩した。手をついて踏ん張ろうとするも、濡れた石畳の上では虚しい抵抗である。持ち前の反射神経で後頭部を打つことは免れたが、背中を温泉の縁に押しつけられて顔を歪めた。


「な、何を――」

「力を抜いて。そのあとは全部、あたしにまかせて頂戴――“旦那様”」

「!?」


 胸部から腹部にかけてのしかかってきたのは、想像を絶する柔らかさだった。タオル越しでも伝わってくる、自分の筋肉質な身体には存在しないさまざまな凹凸。とろりとした温泉、そしてぴたりと自分に覆いかぶさる少女の肢体からは、咽せ返るような花の香りがした。これにはさすがに、青年の身体が否応なく熱を帯びる。


「あなたがお酒を飲んだら、どうなるのかしら? 興味あるわ」

「ほ、ホワード妹……ッ!」

「ねえ、あなたの全部を見せてよ。今夜、ここで」


 この少女はこんなに艶っぽい声をしていただろうか。ばくばくと暴れ回る心臓がうるさい。見透かされているかのように、それが収まっている胸板をシュッと撫でられる。指ではない――なにか、絵筆の先のような。


「目を開けて。あたしも、あなたに“ぜんぶ”見てほしいの」

「こ、断るッ‼︎ ……!」


 水っぽい音と共に、首元になにかが落ちてくる。触感からして支給されたタオルだろう。ゆらゆらと流れて湯に沈んでいくその布のイメージと共に、騎士の脳裏を決して思い浮かべてはならない少女の姿がよぎった。


 そう、想像してはならない。一糸まとわぬ想い人の身体が今、自分の上に乗っていようなどと――。


「目を開けないで、リンさんッ!! そいつは偽物よ!」

「!?」


 火照りに支配されてしまった耳を、怒りに満ちた少女の声が切り裂く。同時に胸の上から重さが消えた。思わず目を開けた騎士の視界の中、睨み合っていたのは。


「ホワード妹が……二人!?」


 まったく同じ端正な横顔を持つ緑髪の少女たちが、火花を散らして対峙している。ひとりは最後にリクスンが見かけた浴衣姿のエルシーであり、もうひとりは黒い三角耳と大きな尻尾を携えた――


「こっち見ないでってば!」

「す、すまないッ」


 浴衣姿のエルシーが放った厳しい声を聞き、騎士はふたたび首を後方へ捻った。勢いがつきすぎて火傷以外の負傷を増やしてしまったが、少女の尊厳を護ることのほうが大事だ。


「誰よ、あんた! あたしの姿で何してるの!? そ、そんな、ハダカで……っ」

「フフフッ、これも特別さーびすのひとつでございまするよ。奥様」

「何ですって」

「奥様の湯殿にも、“さーびすまん”を派遣しておいたはずなのですが。お楽しみいただけなかったのでしょうか?」

「何だと!?」


 この言葉にリクスンは湯の中で固まった。まさか少女の湯には、自分の“偽物”が現れたということなのか。


「なっ、何もされてないだろうな、俺に! いや俺ではないのだが!」

「おっ落ち着いてよリンさん。別に大丈夫よ、精霊たちがすぐにあなたじゃないって教えてくれたから」

「では現れたのは本当なのだな!? 何をしてきた」

「何もないわよ、ばか! 変な想像しないでっ」


 自分の姿形を模した何者かが少女に迫る想像は、とにかく虫唾が走るものだった。恥じらいを忘れて彼女の無事を確認しようと顔を戻すが、そこでようやく入浴者のひとりが減っていることに気づく。


「今夜は本当に、月見酒には申し分ない夜ですわ。我らが月も、お二人を祝福なさっておられるかのよう」


 湯の中央に座す大岩、その天辺に屈んでいるひとりの少女。耳と尻尾を妖しく揺らめかせ、偽物と呼ばれたエルシーは金色の瞳を輝かせた。


「いつの間に……っていうかあんまり脚開かないで! タオル巻いてっ

‼︎」

「フフフ。さあ、仕上げと参りましょう。ちょっとばかし、いとうございますよ」

「ぐぁっ!」


 偽物の意味深な言葉が切れると同時、リクスンの脳天を硬い衝撃が襲う。次いで流れ落ちたのは温かな血――ではなく、冷たく透明な液体だ。相当な年月を経て熟成されたらしい深い香りが騎士の鼻腔を支配する。


「リンさん!」


 ぱらぱらと視界を流れ落ちるのは、小さな陶器の破片。どうやら例の酒瓶が頭上に落ちてきて割れたらしいという状況は理解するが、それ以上思考は役に立たない。頬の火傷の上を伝い落ちた液体がわずかに沁みた。


「これ……は……」

「ユノハナおりじなる大吟醸、“月夜の乱舞玲陀らぶれたー”。燃え上がる夫婦の長き夜にぴったりな逸品でございまする」

「あ……」


 自信たっぷりのその解説に耳を傾けることはできない。むしろ傾いたのは自分の身体だった。星空と温泉がぐるりと反転し、リクスンは湯の中に倒れ込む。


「リンさんっ! しっかり」


 湯をかき分け、慌ててこちらへ向かってくる小さな人影が見える。温泉で自分が溺れてしまうなど、まるで彼女の兄のようではないか――回る世界の中、騎士はそんな滑稽な想像を浮かべる。


「う……」


 温かい湯の中に沈むと何もかもがどうでもよくなった。身体の感覚が消失したようなその世界の中、歌うような声が告げる。



「十分な働きには、十分な褒美が必要ですわ。貴方はこれまでずいぶん我慢し、耐えてきた――今夜くらい少し羽を伸ばしても、誰も咎めはしませぬとも」




***


あとがき的近況ノート(イラストつき):

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330653677820640

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