6.5−5 素直になることね
「こっちは“藤の間”に持っていく御膳だよ。で、この魚が盛られている大皿は“菊の間”に――」
「わあっ、すごく綺麗です! この生のお魚は何という種類ですか?」
「薄氷トビウオだよ。そんなこといいから」
「透けそうなほどの厚さで切り分ける技術が巧みなのはもちろん、何よりこの盛りつけ方に相当な美学を感じます。花の形に見立てているんだわ……感動です」
「そ、そうかい? いつもやってることなのに、照れるね――って、違うよ!」
呆れた女の声に、フィールーンは頭の中で淀みなく走らせていた羽根ペンを急停止させる。しまったという思いで恐々顔を上げると、案の定柔らかそうな四本の腕をがっしりと組んだ大柄な女がこちらを見ていた。
「フィーさん、だっけ。好奇心旺盛なのは良いことだけどあんた、自分がどこに配属されたのか分かってんのかい?」
「は、はい。申し訳ありません。こんなに大きなメインキッチンを拝見するのは初めてで、すべてが素晴らしくてつい……」
「そんな小洒落た呼び名はご免だね。ここはユノハナの“板場”――食の
王女と同じ着物に身を包んだ女はそう言い、誇らしげに豊かな胸を膨らませる。彼女はフィールーンが見たこともないつるりとした肌や吸盤を持つ、海の暮らしを思わせる種族だ。この“板場”で働く者はすべて似たような見目をしている。
「戦場……!」
平和なゴブリュードとは縁遠いそのような現場に、よもや王女たる自分が立つことになろうとは。フィールーンは使命感に心を燃やしつつ、慌ただしい自分の“職場”を見回した。
「大座敷の酒が足りないよ! なんでもいい、片っ端から持っていっとくれ」
「どこ見て歩いてんだい、その邪魔な尾ひれを仕舞いな! 刺身にするよ」
「“蝶の間”の雪女さまご一行が、なんと鍋をご所望だ。相当酔っ払ってるらしいが仕方ない。乞われた料理を出せずにユノハナは名乗れん、作るぞ!」
飛び交う注文は一瞬たりとも途絶えることはなく、出された料理はフィールーンが観察する間もなく各部屋へと運ばれていく。その騒がしさの中にも統制があり、その正体が従業員たちによる客への奉仕心だと知った王女は心から感激した。
「こんなにも巨大な旅籠の食事が、すべてこの場所から生み出されているなんて……。素敵です」
「はいはい、感動は仕事上がりにしてくんな。ほら、この膳を持ってみるんだ」
艶のある黒に金箔が散らされた足つき膳をドンと渡され、王女はまごついた。美しい焼き物の皿に盛られた料理と、細い口径のボトル――トクリ、とかいったか――が所狭しと詰め込まれている。
「わっ……わわっ!」
重い。しかも磨き上げられた朱色の板の上で、食事たちはあまりにも簡単にあちこち舞い踊ろうとする。トクリのボトルに気を取られていては前方にある汁物が危ないし、かといってそちらに集中するとトクリがあっという間に傾き――
「あっ!」
「おっと。ふう、こりゃまだ危ないね。配膳車を使いな」
よろけた酒を長い腕でひょいと支えてくれた指導役の女に、フィールーンは結い上げられた黒髪頭を深々と下げた。
「すみません……お役に立てなくて」
「何だい、そんなに落ち込むこたないだろ」
「でも」
「誰もあんた自身がだめだとは言ってない。最初は誰でもそんなもんさ。周りの道具に頼ったっていいんだ、要は工夫して切り抜けることさね」
「工夫……」
それならば自分の得意分野だ。フィールーンの空色の瞳に輝きが戻り、隅に停められていた配膳車を引っ掴んで戻ってくる。もうあまり使われている様子ではないその道具だが、王女は考え込みながら提案した。
「あの私、このカートで各お部屋の膳を引き取りに回ってもいいでしょうか?」
「えっ? そりゃあ、構わないけど……いいのかい、そんな地味な仕事。あんた、“料理をお届けする”仕事がしたいって」
「はい。でも皆さんの素晴らしいお料理を無傷で運ぶことは、今の私には難しいです。だから今夜は、このカートで使用済みの膳を回収して回るほうがお役に立てると考えました」
ユノハナの食器類は独特だ。細長い皿や繊細な器が多く、フィールーンがいつも世話になっている旅のカトラリーとは勝手が違う。であれば料理が載っていない“空”の状態のものから扱いに慣れていくべきだと思ったのだった。指導役は大きな口でにっこりと笑み、吸盤つきの手で親指を立てた。
「良い根性だ、気に入ったよ! そうさね、じゃあ食事が終盤の部屋を――」
「“白狼の間”と、“梅の間”ですね。先ほど甘味が運ばれたので、間もなく“翡翠の間”も」
「!?」
「効率良く回るには、三階から右舷に沿って移動するのがいいかしら。いえ、その途中で“紫鹿の大座敷”に立ち寄るのも良さそうです」
「あ、あんたもうすべての客室の配置を覚えているのかい!? それにコース料理の内容も、お部屋にお届けした時間まで……!」
女の仰天した声が入り込む隙がないほど、フィールーンの脳内は旅籠の見取り図でいっぱいになっていた。ブツブツと計画を練っていたところで、パンと打ち鳴らされた手の音に驚いて指導役を見遣る。
「やれやれ、この子は。驚きの集中力だけど、身は軽くが仕事の基本だよ」
「す、すみませんっ!」
「……。女将はあんたのこと、ただのヒト族の“お試し従業員見習い”だって言ったけどさ。きっとなにか、あたしらとは遠い世界で生きてるヒトなんだろ」
「!」
思わず王女は、カートの冷たい銀製の持ち手をぎゅっと握りしめる。しかし女はやっかんで言ったわけではないらしく、訳知り顔でうなずいていた。
「所作を見ればわかるよ。女将はあたいらみたいな海の“混じり
「そうなんですか」
「そうそう。だからあんたやお仲間たちもきっと、何か重要な目的があって舟に乗ってくれたんだろうってね」
フィールーンの膝下にも届かない背丈のぶよぶよとした従業員が、いくつもの大皿を抱えて颯爽と板場を出発していく。彼らに道を譲りつつ目を丸くしている王女に、女はカラッとした声で告げた。
「でもそんなのカンケーないよ! ここじゃあんたはただの“見習いのフィー”だ。しっかり働いて汗かいてきな。仕事上がりの飯と風呂は最高だよ」
「――はいっ!」
力強い言葉に背を押され、フィールーンははじめての“仕事”に出かけた。
*
「うん、しょ……っ! ふう、かなり積めたわ」
「ちょっと待って」
「?」
食器類が積み重なったカートを満足げに見ていたフィールーンは、その軽やかな声に振り向いた。自分と同じ年頃と思しき小柄な少女が、腰に手を当てて立っている。同じ着物と前掛けから、彼女も従業員のひとりであることが知れた。
しかし目が留まったのは、鼻と額を覆う白い耳つきの面。それに背から覗く、見覚えのある黒い尻尾だ。王女はやや緊張した声になりつつ訊いた。
「あ……。貴女はもしかして、みちるさんの?」
「フフフ。ま、近しい者というところね。安心して、仕事ぶりを評価しにきたわけじゃないのよ。アナタ初めての“お仕事”なんでしょ? 手伝ってあげようと思って」
「ありがとうございます!」
少々傾いていた小皿の塔を整える少女の姿に、フィールーンは素直に頭を下げた。少女は小さな口をフッと綻ばせつつ、淀みなく王女の成果を検分する。
「このお皿の上にはあまり物を積まないほうが良いわ。繊細なの」
「あっ、そうでしたか。すみません」
「それから倒れやすい徳利は中央に寄せて……これは縦に置けるわ。ほら」
「わあ、これならまだまだ積めそうです!」
「熱心ね。でも重くなりすぎては事故の元よ。戻りましょ」
「分かりました」
たしかに見た目以上にカートは重くなっていた。体重をかけて押していると、少女がフィールーンと並ぶ。優雅な所作で持ち手の半分を掴むと、カートは嘘のように軽く進みはじめた。礼を述べつつ、しばらく並んで賑やかな廊下を進む。
「どう? 旅籠の“お仕事”は」
「はい! どのお仕事にも学びがありますし、とても良くして頂いてます」
「それはよかった。時にアナタ、あの蒼い髪の男の子とはどういう関係なの?」
「はい、まさか“星くず鍋”があんな状態の料理だったなん――てええぇっ!?」
「絵巻みたいな反応ね」
着物の帯の端まで飛び上がったフィールーンを見、少女は形の良い口で三日月を描いた。見かけ通りの歳にしてはあまりにも艶やかな笑み。きっとこの少女は美人女将の娘か縁者であるに違いないと王女は確信する。
「蒼髪のって、せ、セイルさんのこと……っ!?」
「そうよ、とっても素敵な太い腕を持つ彼♡ 彼、“
「え、えっと」
それはそうだろう、彼は自分と同じく人外の――竜人の力を持つ者だ。とは言えフィールーンの場合は、その怪力の一端を引き出すこともままならない。そう思うと己の情けなさが際立った。
「熟練の湯師たちが舌を巻くほど“湯もみ”が上手なんですって! キャッ、素敵ぃ!」
「ゆ、ゆも……っ!?」
「アタシの個人湯殿にも呼んじゃおうかしら? あの無愛想な表情が揺れるところを見たいわ」
「!」
ちろりと覗いた少女の赤い舌先に、フィールーンの心臓が跳ね上がる。その理由は少女がとても大人びていたからではない――その“場面”を思い描いてしまったからだ。
「そん、な……」
豪奢な秘密の湯殿。良い香りがする湯の中、魅力的な身体をたゆたわせる美少女。その熱っぽい視線の先にあるのは、湯殿の端にひっそりと控えた若き“湯師見習い”の姿だ。
『ねえ、ずっとそんなすみっこで暮らす気? こっちに来なさいよ』
『……仕事中だ』
『ここはアタシの
『! おい』
ざぱ、と小さな水しぶきを上げて少女が湯の中で立ち上がる。湯けむりだけを羽織った身体で、彼女は顔を背けている青年へと静かに歩み寄った。
『木こりなんかやめて、この先も舟にいらっしゃいな。歓迎するわ』
『オレは――』
『こっちを見なさい。見習いごときが見て良いカラダじゃないけど、貴方は特別よ』
『……っ』
少女は細い指を青年の顎に添え、クイと持ち上げた。彼の茶色の瞳が見開かれ、フィールーンが見たこともない色を浮かべて揺れる。
『イイ顔。もっと見せなさい、貴方の隅々まで』
金縛りにあったように固まっている蒼髪の青年。その頬に柔らかそうな手が這い、ふたりの輪郭が重なり合う――。
「だっ、だめです、そんなの!!」
かちゃんと食器類が触れ合う音で、フィールーンは我に返る。左右の“障子”の向こうからは賑やかな宴の笑い声だけが響いており、誰も自分が叫んだことには気づいていないようだった。
「フフッ」
「!」
鈴を転がすようなその笑い声に振り向く。先ほどまで己の想像の中で優雅に湯浴みしていた少女が、面白そうに首を傾げてこちらを見ていた。
「何が“だめ”なの?」
「あっ、あ、あのっ――。申し訳ありません私、えっと」
以前のように言葉がもつれて出てこない。喉は干上がっているのに、着物の背にはじっとりと嫌な汗をかいていた。自分はたしかに想像するのが得意だが、今の光景はあまりにも。
「どうしたの? なにか、いやなものでも見たって顔よ」
「!」
嫌なもの。その言葉に、身体の深いところがざわめきを覚える。
「……」
個人の湯殿を持つほどの役職だ、きっとこの少女は見習い程度の者になら命令する権限を持っているのだろう。その彼女に呼ばれたら、セイルはやはり湯殿へ赴くしかないかもしれない。しかし、そう想像することは――とても。
「自分に素直になることね。そのほうがずっと、気持ちいいわ」
そんなささやきを残し、少女の姿は風のように消えた。騒がしい廊下の隅に残された王女はひとり、逸る心臓を押さえてつぶやく。
「どうして……?」
***
あとがき的近況ノート(イラストつき):
https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330653112626382
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