6−27 容易くねェんだよ

 身体も心も覆い尽くしていた霧が、引き潮のように薄れていく。久しぶりに結ばれた焦点が映し出したのは、火山の雲を束ねた曇天。


「俺は……?」


 己の口からこぼれ落ちた声さえ新鮮に感じながら、青年――リクスンは辺りを見回した。赤く硬い地上は遥か下にあり、自身が空中に浮いているということに気づいてぎょっとする。


 いや、もっと驚くべきことがある――。


「俺は……竜人に」


 視界の端で風に巻き上げられているのは、跳ねがちな長い金髪だ。赤黒い角は感覚では側頭部に1本しか生えてないように思うのだが、不思議なことに肉眼が捉えているのは両側に2本である。意識しなくても背中の翼が大きくしなり、尻尾を携えた異形の身をしっかりと宙に留めてくれた。


「よお……。ようやくお目覚めかよ、狂犬」

「ホワード」


 頭上から降ってきた聞き覚えのある声に顔を上げれば、今の自分と同じ種族にあたるだろう男の姿が目に入る。隙間なく身体を覆う、強靭な紺碧の鱗。しかしその上を転がるようにして滴る幾筋もの真っ赤な液体を見、リクスンは金色の瞳を見開いた。


「貴様、なんだその傷は!?」


 竜人セイルの身体を走る傷は、すべて斬り傷だ。それも傷口の周りは焼け爛れ、思わず目を細めてしまうほどに痛々しい有様になっている。


「まさか……すべて、俺が」


 大戦斧を両手で握りしめるその姿はまだまだ戦意に溢れてはいるが、仲間の声には明らかな疲労が滲んでいる。


「この局面で、よりによってとんでもねえ剣貰ってきてんじゃねェよ……。斬られたあともヒリヒリして痛えんだぞ。傷が塞がるのもなんか遅ェし」


 セイルは肩をすくめただけだったが、リクスンは言葉を失った。無意識に力を込めた手からカチャ、と音が伝ってくる。見下ろした先にあるのは、炎の筋をまとって輝く大剣だった。握っている感覚がないほどに軽い。


「な、なぜ反撃しなかった!? 竜人になった貴様なら、俺を打ち倒すことなど」


 鈍色に輝く戦斧クレアシオを少し持ち上げた仲間は、忌々しそうな声で理由を告げた。


「容易くねェんだよ、それが。てめえは竜人の姿をしちゃいるが、治癒能力は皆無らしい。だからコイツを振るえねえんだ」

「な……!」

「俺は防御すんのが苦手なんだ。しかも無意識のはずのてめえは、的確に俺の死角や戦いのクセを突いてきやがる。毎日の手合わせが裏目に出たってこったな」


 皮肉そうに牙を見せるセイルだったが、その片頬が引きつったように震える。傷の痛みを押し殺していることを知り、リクスンはその要因となっている剣を捨てようとした――が、手は頑なに宝剣の柄を握りしめている。


「まだ身体の自由は効かんようだが、あの使用人の支配は薄れている……ホワード、今が好機だ」

「簡単に言うなよ。テオいわく、今のてめえは“戦うメランドギス”状態らしい」

「肝心なところが伝わってこないぞ!」

「あー、つまりだ……締め上げてオトそうが、得物の柄で昏倒させようが、てめえは意識の有無に関係なく反応する戦闘犬だってこった」


 血反吐をぺっと吐き現状説明を終えたセイルに、リクスンは戸惑った。そうしている間に、胸の奥に奇妙な感覚が宿る。


(うふふ。離れていて寂しかったですか? 我が僕よ)


 頭の中に鳴り響いたのは、聞き飽きた猫撫で声だ。同時に四肢がずしりと重みを増し、血が通っている感覚が遠のいていく。またあの半端竜人の支配が進みつつあることを認識し、リクスンはぎりりと歯を食いしばった。


「うッ……き、貴様、オルヴァか」

(オルヴァ様と呼ぶように躾けたほうが良いでしょうね? 貴方はもう、私のものなのですから)

「ふざけるな。俺の身体を、ヒトに戻せッ!」


 口は自由に動く。身体の実権は相変わらず向こうが握っているが、思考まで侵食されているわけではないようだ。リクスンの様子を見た仲間が、警戒しつつも神妙な顔で呟く。


「おいテオ。身体の中の誰かさんと喋ってるヤツってのは、はたから見るとちっと不気味だな?」


 不遜な呟きに反応している余裕はない。眉を寄せたリクスンの脳内に、面白がるような声が響き渡る。


(思考はできる状態なのですから、少しは考えてから発言していただきたいものですね。容易くヒトに戻る術があるなら、貴方の主君は旅になど出てないのでは?)

「く……」

(諦めてください。私の身体は、貴方の“姫様”に壊されてしまいましたが――魂のかけらはまだ、ここにしかと存在しております)

「何!?」


 歓迎していない同居人の言葉は信用ならなかったが、思わずリクスンは地上を見回してしまう。少し離れた地点の赤土の上、その異様な光景はすぐに目についた。


「何だ、あれは……」


 火山の地熱を溜め込んでいるはずの地面が、広く凍結している。土との境界では蒸気を上げながらも、分厚い氷はまるで巨大な花畑のように一帯を覆い尽くしていた。その中央から突き出ているのは、ひと際輝く氷の柱。天からまっすぐに墜とされたとしか思えないほど深々と地に刺さっているその大槍は、ひとりの青年を永遠に地に繋ぎ止めている。


「!」


 その亡骸のかたわらに、見知ったふたりの人物の姿があった。とてもヒトの目では捉えられないだろう大きさにもかかわらず、リクスンは本能的に少し目を細める。視界がぐんと近寄ると、ぐったりとしている黒髪の女、そしてその額に手を当てている優男の姿がはっきりと確認できた。


「姫様ッ!」


 女が自分の主君――フィールーンであることを認識すると同時に身体が飛び出そうとするが、その願いは叶わなかった。まるで手足に鎖をかけられたように全身が動かない。


(駆けつける必要はないでしょう。もう済んだことです)

「そんなはずがあるか! 行かねば」

「落ち着けよ、騎士。中のヤツが何て言ってるか予想はつくが、とにかくフィルは無事だ」


 その声にリクスンが振り返ると、もうひとりの竜人が黒髪をガシガシと掻いて続ける。


「俺もどこかの狂犬の相手で忙しくてちゃんと見ちゃいねェが、テオが見てた」

「姫様は本当にご無事なのか!?」

「見事な戦いぶりだったらしいぜ? 終わってからすぐにこっちへ飛んで来ようとしたらしいが、じいさんに眠らされちまったんだと」

「……。そうか」


 彼女の師の意図が、何となく分かる気がした。彼のことだ、主従である自分達がぶつかるのを良しとしなかったのだろう。彼女を傷つけるような事態が起これば、自分の何を捧げても取り返しがつかない――リクスンは小さく感謝の言葉を落とし、こちらに静かに目を向けている知恵竜に心中で頭を下げた。


 ひとつ大きく息を吸い、リクスンは分厚い雲を睨みつけて唸る。


「見えただろう。俺の主君によって貴様は滅された」

(存じていますよ。身体を手放す気はなかったのですが、彼女が予想外の健闘を見せたことは認めねばなりませんね。うふふ……まさに心躍る一戦でしたよ)

「強がっていないで、そろそろ悪あがきは止めろ。さすがにくどいぞ」

(光栄ですね。魔術師たる者、常に策は複数用意しておくものです。むしろ、これで貴方を乗っ取ることだけに集中できるというもの。こうなれば私に、この身体を完全に頂いてしまうほか選択肢はないのですから)

「貴様」


 自分の亡骸が眼下にあるというのに、オルヴァの声には悲壮感の欠けらも漂ってはいない。本当にこの身体を掻っ攫うつもりでいるのだ。相変わらずの異質さにリクスンが閉口していると、元使用人は冷静な声で語った。


(この場の戦いを手短に終わらせ、ふたたび幻影魔術を用いてヒト姿の貴方になりきる。そうすれば、あの精霊の娘から治癒の力を借りることができるでしょう。その後に我が拠点へ向かえば良いことです)

「どこまでも強欲な……!」


 リクスンが苦々しげに落とした声も、いつもの微笑に一蹴される。身体の中をふたたび、あの冷たい霧が満たしていった。腕に力を込めて抵抗するも、その意に反して宝剣から炎が噴き出す。


(それに好機ではありませんか? 貴方としても、突然湧いて出てきた彼を快く思っていなかったのでしょう)

「何を――」

(ここで斬ってしまいましょう。王に忠実な真なる騎士は、ひとりで十分です)

「貴様が騎士道を語るな! ッ、く」


 突然動き出した身体に舌を噛みそうになる。景色が後ろへ遠のき、瞬きを落とす間にリクスンの身体は前方へと飛び出していた。


「避けろ、ホワード!」

「そうできりゃ苦労はねえ――よっ!」


 ガン、と大音響と共に剣と斧がぶつかる。一拍遅れて、リクスンの剣から炎が舞い散った。セイルは身体を捻ってそれらを器用に避けたが、いくつかが剥き出しの腹を掠めたらしく顔を歪める。


「ぐぁっ……!」

「な、なぜ避けん!」


 力に物を言わせて斧を振り切り、セイルはこちらとの距離を取る。焼けて血が滲んだ腹を一瞥し、恨めしそうに答えた。


「覚えちゃいねぇだろうがな……距離を空ければ、てめえは炎の魔法を放ってくんだよ。バカみてえに魔力をたっぷり込めたヤツをな」


 その言葉にリクスンは目を丸くした。まったく記憶にない。


「ただでも竜人の身体になって魔力をゴリゴリ消耗してる状態だ。その上でそんな魔法を撃ち続けるってこたぁ、自分から天ノ国に向かって走るのと同じだぞ」

「だから鍔迫り合いを受けるというのか!? それでは貴様が」

「その剣から飛び出す火の粉も厄介だが、まあ……贅沢は言っちゃいられねえ」


 重い息をひとつ落とし、紺碧の竜人は斧を肩に担いだ。つい先ほど濃霧の中で見た姿と重なり、リクスンは知らずと身体を強張らせる。そして突然喉の奥から迫り上がってきた熱い液体の存在を感じ、思わず口元を押さえた。


「!」


 吐き気は感じないが、とにかく身体はそれを是が非でも排出するつもりらしい。口の中を満たした液体は不快な鉄の味。指の隙間から流れ出したその色は、頭の角よりも鮮やかな紅色だった。


「が……かはっ!」

「おい!?」


 咳き込むリクスンの耳朶に仲間の動揺が届く。それに応える前に、糸に吊り上げられるようにして剣腕が持ち上がった。もちろん内側に住まう者の仕業だ。こちらへ飛んで来ようとしていた竜人が空中でもどかしそうに停止するのが見える。


「近寄る、な……。俺は、何をするか分からん」


 リクスンは剣を向けたまま、もう一方の手で乱暴に口元を拭った。真っ赤な液体が橙色の鱗を彩る様はどこか毒々しい。


(ひとつ重要なことをお知らせしましょう。急がねば、貴方の身体は保ちません)

「……そのようだな」


 ずっと得物を取り回していたにしては、妙に手足が冷たい。それは多くの血を流しただけではなく、すでに大量の魔力が失われていることを示していた。普通ならば疲労が先立ち、自衛のために気絶してしまうだろう。しかし奇妙なことに、この異形の身体は今なお身体中の魔力を貪り続けているようだ。


(竜人の身体を維持するには大量の魔力が必要です。それは貴方の自衛本能を無視し、命の歯車がその回転を止めるまで求めることを止めない)

「なぜだ」

(それほどまでに、ヒトと竜人の魔力量に開きがあるのですよ。彼らが必要とする匙一杯の魔力は、脆弱なヒトの生命を枯渇させるほどに値する)


 オルヴァの論の真偽をここで判断することはできない。リクスンが黙っていると、形だけは穏やかな声が促すように続けた。


(私の拠点まで辿り着けば、それらを補充することのできる“材料”がたくさんあります。貴方も私も、ひとまずの目的はこの身体を維持すること――ようやく手を取り合って進めそうではありませんか?)

「……そうだな」


 機嫌良く語る同居人の言葉に、リクスンは小さくうなずいた。身体は消耗しきっていても、まだ思考は動かせる。竜人となった騎士は前方で滞空している仲間を見据え、しっかりとした声で告げた。



「俺を斬れ――ホワード」


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