6−11 君の剣となろう
「あがあぁぁッッ!!」
「!」
頭上で突如上がった野太い悲鳴に、リクスンはびくりと身体を震わせた。次いで頬に降り注いだのは、生暖かく紅い液体。水溜りの中で泥と混ざって渦巻くその量に驚いたが、うつぶせの少年の身体はまだ鉛のように重かった。
「……?」
かすむ視界の中に、泥道の中をこちらへと向かってくる足が見える。かちゃ、と涼やかな金属音が追従するその長い脚は、立派なグリーヴを履いていた。
「手荒で悪いが、そこを退いてもらおう」
「クソッ、腕が……俺の腕がぁっ!」
静かな水音しか立てないその脚とは逆に、山賊の汚らしい両足が飛び退くようにしてリクスンから離れた。しばらくして、ゆっくりと腹部に長い手が差し込まれる感覚に気づく。背中を支えつつ上体を起こされ、少年は呻いた。
「うっ……!」
「辛いだろうが、状態を確認させてくれ。少年よ」
痛みと絶望から狭まっていた視界が、さっと鮮明さを取り戻す。雨上がりの森にかかった虹を見つけた時のような驚きに、リクスンは琥珀の目を見開いた。
「あ……あなた、は……」
その男はとても美しかった。夜空の星を紡いで創られたような銀髪は肩に触れる程度の長さで、染み込んだ雨粒に艶めいている。歳は20代半ば頃だろうか、もっと若いかもしれない。顔立ちは、たとえ創造神でもこれ以上の傑作は作れなかっただろうと言いきれそうなほどに整っていた。
「ひどいものだ。しかし致命的なものがなくて安心したぞ」
男の海のごとき蒼い瞳がリクスンの負傷箇所を捉え、痛ましそうに細められる。たしかに身体のあちこちが痛んだが、動かせない箇所はなかった。少しの間じっとしていれば、歩くことくらいはできそうだ。
「悪いが、ゆっくりと挨拶を交わすのは後にしよう。今はこの場を」
「そうしてくれよ、お綺麗な騎士さんよォ!」
恨めしそうなその大声に、少年の感動が掻き消される。助けてくれた男の肩越しに見えたのは、悪魔のような形相となった山賊の頭が得物を振り上げる姿。
「あ、あぶな――!」
大男の影に呑まれるほどになっても、騎士と呼ばれた男は振り返りもしない。代わりに美しい所作で片手を上げた。その中で輝くのは、黄金の光をまとった剣だ。
「負傷箇所を動かすのは関心しないぞ」
「ぐ、うぅ……っ、てめえ!」
重厚な音を立ててぶつかった得物は、火花を散らして鍔迫り合いへと持ち込まれる。しかしリクスンの目から見ても、2人の実力差は明らかだった。血を流しているとはいえ両手を使って打ち込んでいる山賊に対し、騎士が差し出したのは銀の装甲に覆われた細腕1本のみ。しかも凶行に及んだ者を見てもいないのだ。
「ああ、そうか……。知ってんぜ」
これ以上は打ち込めまいと悟ったのだろう、忌々しそうに吐き捨てながら大男が飛び退く。しかし腕に傷を負った暴君に駆け寄る仲間はいない。すでに取り巻きたちが全員地に伏しているという状況に気づき、リクスンはまた言葉を失った。この数を、ひとりで――?
「そのピカピカ光る剣。あんた最近着任したっていう、天才騎士隊長サマだろ」
「!」
威嚇と共に放たれたその言葉に、少年は慌てて救世主を見た。たしかに男がまとう鎧は細かな意匠が散らされた豪華なものだったし、瞳と同じ蒼いマントにも威厳が感じられる。それでもこんな片田舎に、そのようなたいそうな役職の人物が単独で現れたなどという現実は信じ難かった。
「き、騎士隊長……!?」
「ふむ。紹介されては名乗らずにはいられまい」
痛みも忘れて前のめりになるリクスンに爽やかに微笑みかけ、男はゆっくりと立ち上がった。天が祝福を授けるように雲が裂け、合間から光が降り注ぐ。
「私はカイザス・ライトグレン。ゴブリュード王国近衛騎士隊長だ」
その堂々たる姿を見上げ、リクスンは目を瞬かせた。子供たちの憧れの職である王都騎士隊――中でも近衛騎士隊は優秀な者しか所属を許されない、針の穴のごとく狭き門だ。そして彼は、その部隊の隊長なのだという。
「数十年の間、ゴツいトカゲが着任してたはずだろ。今度のはまたずいぶんと綺麗どころを選んだみてえだな、おい?」
「先代隊長のことを指しているのなら、声を控えるべきだな。彼は地獄耳だ」
おどけて肩をすくめるカイザスの顔には、不快そうな表情は浮かんでいない。少し怯えたように周囲を確認した山賊だったが、やがて変わらぬ憤怒の目を向けて唸った。
「それで? 出世街道まっしぐらの若き隊長さんが、こんな田舎へ何の用だ」
「もちろん任務だとも。部下から君たちのことについて、報告を受けたのでな」
「!」
さらりと告げられた内容に、リクスンも山賊もぎょっとして硬直した。しかし先に驚きから抜けたのはならず者のほうで、彼は醜い顔をさらに歪めて低く笑う。
「あー、こう言っちゃ何だが。使えねえ部下に仕事をさせちゃいけねえぜ、美人さんよォ」
「うん?」
「そいつらは嘘の報告をしたんだ。このあたりでただの山賊が暴れてるってよ。けどな、そりゃ致命的に間違ってんぜ――見ろよ、俺たちのこの斑点を!」
太い親指をぐいと自身の顔へ向け、黄色い歯を剥く大男。しばらくじっとその顔を見つめていた騎士だが、納得したようにうなずいた。
「ふむ、たしかに報告にあがっていた紫の斑点だな。報告を受けた日よりも進行しているとお見受けする」
「なっ……!? お、お前、病気のこと、知って」
「私の部下は嘘をつかない。実に正確で有益な情報を持ち帰ってきてくれたと思っている」
満足そうに笑む騎士に、リクスンも急いで言葉を投げた。
「や、病のことを知っていて、おひとりで――!?」
「だからひとりで赴いたのだ、少年よ。しかし案ずるな、城のエルフたちが作った薬も、ほどなくして到着する予定だ」
「馬鹿なのかよ、てめえ! 自分の命が惜しくねえってのか」
信じられないといった少年の気持ちを代弁してくれたのは、皮肉にも山賊の頭だった。
「病に苦しむ君たちが、手当たり次第に村々を襲っていると聞いてな。まずは現場の鎮圧に入らねばと考えたのだ」
「だからって……! 隊長ってもんは、そういう仕事をする奴じゃないだろ」
「私も先代も、長く椅子に掛けていると足が疼いてくるという不思議な病持ちでな。まあ、部下を困らせているのはたしかだ」
彼が苦笑して顔を傾けると、銀のきらめきがさらりと揺れる。威厳よりも親しみを感じさせるその細面を穴が開くほどに見つめていたリクスンだが、形のよい口はさらに驚きの言葉を発した。
「ここまでに打ち倒した君の仲間だが、全員急所は外してある。希望者には薬を支給しよう。もちろん城での牢暮らしを受け入れる気がある者だけだが」
「は……はァ!?」
「快復後にどのような処罰が下るかはわからないが――とりあえず、生きてこの集落を後にすることはできよう。だから大人しくしていてくれ」
しばらくその場に、沈黙が落ちた。頭が真っ白になった少年を置いて、やはり山賊が口を開く。しかし今度の声は震えていた。
「お、俺たちを助けようってのか、てめえ……?」
「捕縛したと表現したほうがお互いのためかもしれんな。エルフたちに即処刑の判断を下させぬよう、城では協力的な姿勢を見せて欲しい」
「――して、ですか」
「うん?」
爽やかに微笑む騎士の顔が、途端に憎く思えた。煮えたぎる感情が駆け上るまま、生き残りの少年はあらん限りの声で叫ぶ。
「どうしてですかッ、騎士さま!? ここで全員、こ――殺してください!」
冗談でも口にするなと、父に固く禁じられていたその言葉。はじめて、それもはっきりと対象者を定めて発したその言葉には、呪いを増幅させるような黒い力が宿っているように感じた。
「……病に侵された者というのは、恐怖にかられたゆえに大胆な行動を起こすことがある」
しかし子供の戯言とでも思われたのか、若き騎士はまったく動揺を見せない。それが歯痒く、リクスンは身体の痛みなど忘れて故郷を指し示した。
「見てください、おれの村を! 病のせいだけじゃない。こいつらはきっと、普段から悪いことばかりして生きてる!」
「だからここで、できるだけ惨たらしく全員殺す必要があると――そう言うのだな、少年よ」
「っ!?」
騎士の言葉を皮切りに、明らかに場の空気が変わった。まるで突然冬が訪れたかのような冷気。触れることができそうなほど重いその気配が、目の前の男から溢れ出している。これが殺気だということを、少年はまだ知らなかった。
「君の想いは承知した。たしかにこの村の惨状を思えば、それもまた妥当な処遇とも言えるやもしれん」
「あ……」
剣を包む黄金の輝きさえ、今はどこか恐ろしいものに見える。騎士は静かに得物を構えると、明らかに怯えを見せている山賊の前に立った。細身だったが彼の方が背が高く、異様な迫力と共に言葉を紡ぐ。
「さて、どう殺す? 一本ずつ手足を落としていくか? それとも爪を剥ぎ、声が枯れるほどの謝罪をさせてみるか。死ぬよりも辛い痛みというのは、驚くほど多い」
「えっ」
「なに、城にはこう報告しよう――全員、病によって気がふれていたのだと」
獅子に射竦められたウサギのように、大男は言葉を失って凍りついている。少年の心臓が、抗議するように早鐘を打ちはじめた。
「ふむ、ではひと思いに首を刎ねるか。さあよく見ているがいい、少年よ。君の故郷を、そして家族を奪った男の末路を」
「な、なんだよ、待ってくれよ! 俺たちクズにだって、生きる権利はあんだろ!?」
太い首筋に添えられた剣先を見、ようやく我に返ったらしい男が喚く。
「俺たちだって、好きで山賊なんぞに堕ちたわけじゃねェ。知らねえ男が急に村に来て、みんなさらわれちまったんだ。俺たち数人だけは逃げ出したが、旅続きでみんな具合が悪くなっちまった。こんな病じゃどこも雇っちゃくれねえし、住むところもいる……こっちだって、崖っぷちなんだよ!」
「……。まことと取るかは君に任せよう」
剣を微塵も動かさずに、騎士は蒼い目だけでリクスンを見た。
「しかしこの話が真実であっても、もはや君には関係のないことだな、少年? 彼らを生かそうが殺そうが、君の失ったものはもう取り返せないのだから」
「!」
「心が決まれば、合図してくれ。私は君の剣となろう」
どくん、と大きく心臓が脈打った。リクスンは荒い息をしながら、騎士とならず者を見つめる。
「おれは……」
もちろん慈悲をかけるべき存在などではない。そう思っていても、勝手に父母の姿が脳裏に浮き上がってくる。
“リクスン。どんな時も、誇りと優しさを忘れるな。決して、どちらかが欠けていてはならん”
“ひとは間違えるものよ。だからどんなことでも、許してあげるの。気にしないでって、肩を叩いてね”
「父上……母上っ……!」
ふたりの無念の魂はまだ、この場に止まっているのだろうか? そうだとしたら、他人の力を借りて復讐を為そうとする息子を見てどう思うのだろう。あの厳格で優しかった両親なら――きっと。
「だとしても、おれは――!」
しかし倫理も正義も、今の少年の前ではちっぽけな存在にしか感じられなかった。
「うあああーッ!!」
ただただ、悔しい。このような蹂躙をした相手がこの先も空気を吸って生きていくという現実など、認められるものではない――そんな激情のままに、泥水の中に沈んでいたならず者の得物を拾う。しつらえたように手に合う、小ぶりの短刀だった。
はじめて人に刃物を突き立てる鈍い感覚が、少年の顔を歪ませていった――。
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