6−10 承知しないから
「はっ……はぁ……ッ!」
そうしてどれだけの時間が流れたのだろうか。リクスンは、顎に沿って流れ落ちる汗を手の甲で拭った。頬を駆ける痛みは不死鳥から受けた火傷か、それともあの山賊につけられた切り傷だったか。
「は……」
腿を切り裂いた傷は、手下共に殴られたものだったか、洞穴の地面を転がった時についたものだったか。腕の痛みは、それに肩の傷は――?
不死鳥との戦闘の合間に差し込まれる過去。あまりにも鮮やかで生々しいその映像はリクスンの精神を蝕み、確実に疲労を蓄積させていった。時折、どちらの現実が“本当”なのかわからなくなることさえある。
(耐えますね、騎士さん。貴方の過去をかれこれ、もう三度も巡ったというのに)
言い返す余裕はない。酸素を求める身体に鞭打ち、前方から飛来した火の玉を転がって避ける。不死鳥はあまり地底を歩かないのだろう、洞穴の地面は均されたものにはほど遠いものだった。針のように突出している鋭利な岩が、簡単に服と皮膚を裂いていく。
「ぐっ……!」
「そろそろ“救護係”に泣きついても良いぞ、騎士よ。この洞穴で死人が出ては困るのでな。そうじゃな、二度は許す。しかし三度目の治癒で実力不足とみなして終了にしようかの」
突き出た岩柱の上に留まっていたファレーアが忠告を寄越す。
「なん、の……これしき」
「ふむ、見上げた根性じゃ。若い火竜たちに見せたいもんじゃの。じゃが温情だけで突破できるほど、我の儀式は甘くない」
その言葉通り、不死鳥は巨大な羽を交差して炎をけしかけてきた。リクスンは魔力を通わせた剣を突き出してそれを防いだが、魔法とは思えないほどの重量に両腕が軋む。
「ッ!」
灼熱した剣の柄が掌を焼き、思わず顔を歪める。叱咤するように不死鳥が叫んだ。
「火に愛されし者が、魔力による熱などに狼狽るでないッ! 相容れずとも良い――従え、抑え込むのじゃ」
リクスンは細めた琥珀の瞳で、己の手を見た。たしかにあれほどの熱を帯びたというのに、手の火傷は軽傷の部類だ。不死鳥の忠告の意味はわかるが、疲弊した頭では冴えた考えのひとつも浮かばなかった。
(うふふ。辛い現実にお疲れでしたら、気分転換などいかがでしょう?)
「! やめろ貴様、また」
(私が一番気に入っている場面にしましょう)
嫌らしい声と共に、また強制的に視界が支配されていく。
たどり着いたのは、もっとも記憶から消し去りたい光景――。
*
「ん、なさい……」
「聞こえねえぞぉ、ガキ!」
土と血の味が口内に広がる。ぬかるんだ泥水に咽せながら、少年は地面にこすりつけていた顔を上げた。
「ごめん、なさ――うッ!」
横ざまに腹を蹴られ、ふたたびうずくまる。古びた大きなブーツの持ち主が、狂気に満ちた大声を降らした。
「もっと心から詫びろって言ってんだよ、坊ちゃん。見ろ、かわいそうなこの村をよォ。誰の手引きのせいだと思ってんだ、ああ?」
太い手で無遠慮に顎を持ち上げられ、リクスンは何度目ともわからない故郷の惨状を見た。物資を漁る男たちのほかに、見知った顔はない。家々の中はまだ鎮火していないのか、蛇の舌のような炎がいたる所でくすぶっている。
すべてが無慈悲で、悪夢に等しい光景だった。いや、悪夢であればどれほど良かったことか。
「ごめ、なさ……、おれの……せい、で」
「どんなに謝っても、てめえもこれから死ぬけどな。けどよ、家族と同じ場所へ行けると思ったら大間違いだぜ?」
喉がちぎれそうなほど、頭を上方向へと逸らされる。男の顔が逆さまに映り、その大きな口が割れんばかりに左右へと広がっているのをぼんやりと見た。
「お前が行くのは、俺たちとおんなじ“地ノ国”よ。よかったなァ、だって村のヤツらにゃ、合わす顔がねえってもんだろうが?」
「あ……」
「誰もてめぇを歓迎なんかしねえさ。ある意味、てめえだって人殺しなんだからよ! 向こうでも仲良くやろうぜ」
ちがう、と叫びたかった。しかし言葉の代わりに溢れたのは熱い涙だけだ。もう動かない村人を見ていると、それすらも嫌悪したくなる。なぜ自分はここで生きているのか。
なぜ――一緒に。
*
「ぐっ――あぁ!」
「リンさんっ!」
ひときわ大きい痛みに、リクスンの意識は強制的に現実へと引き戻された。視界に焼きついた下卑た男の笑顔を振り払うため、強く目を瞬く。剣腕に新しい火傷が走っているのを見る。今はこの痛みさえありがたい。
「治癒を施すわ、ファレーアさん! 許可して」
「許す。しかし二度目じゃぞ、娘」
「わかってる、次はないのよね。だから今回で完全に治すわ」
早口で話をまとめつつ、エルシーがこちらへと駆け寄ってくる。その揺れる緑髪を見ると、リクスンの腕から力が抜けた。膝も急に重くなり、がくりと片膝をつく。
「はっ……!」
「リンさん! もう、無茶して」
「世話を……かける」
「そうやって言えばいいって思ってんでしょ。そういうとこ、お兄ちゃんと同じよ。まったく」
リクスンの全身の傷を検分しつつ、少女はぴしゃりと言う。その明るさが頼もしく、また場違いにも思えて騎士は目を細めた。
「……」
「今の記憶、嫌な場面だったわね」
しばしの無言を破ったのは彼女のほうだった。そういえば、駆け込んできたにしては治癒を開始しない。リクスンは痛みの中で重い顔を上げ、屈み込んでいる仲間を見た。
「情けないところを……見られてしまったな」
「言ったでしょ、何を視たって大丈夫だって。でもね、これだけは言わせて」
「?」
救護係の声が穏やかになったと感じた瞬間、リクスンの肌に不思議な感覚が打ち寄せた。どの属性とも違う、独特な魔力の奔流。同時にエルシーを、目が眩むほどの光が包み込んだ。
「負けないで、リンさん。ここで折れたら、承知しないから」
「!」
もっとも見頃を迎えた花のような、鮮やかな牡丹色の光。少女の内側から溢れ出すように煌くその光は、彼女の背後で大きくふたつの羽を象っている。
「その、光は――!」
かつて自分たちが捕らえられていたバネディット屋敷の牢、そこで主君が見たという現象に違いない。少女が高い治癒術を施そうとしているのを感じたのか、不死鳥も小さな目を細めてこちらを見守っていた。
「辛かったと思うわ、本当に。理不尽なことよ」
「ホワード妹……」
「でも、自分を責めるのは間違ってる」
「!」
ゆるりと左右に首を振ると、少女の光も揺れた。こぼれおちた粒子のひとつひとつがリクスンの傷へと降り注ぎ、やさしく染み込んでいく。しかし完璧な治癒の奇跡を目の前にしても、騎士は礼のひとつも出来ずに顔を逸らした。
「……俺は」
今や人知を超えた力を発揮している彼女に、何もかもを打ち明けてしまいたい。そんな衝動のままに、リクスンは覇気のない呟きを落とす。
「俺は、何もできなかった……何ひとつだ」
「リンさん」
「せめて何もできなかったとしても、あの場に立ち……家族と運命を共にするのが筋だった」
この言葉を受け止めてくれたのは、穏やかな女神のような光をまとった少女。しかしその可憐な口が思い切り開き、リクスンの耳朶を貫く大声を発する。
「そんな筋、あるわけないじゃない! 馬鹿っ!!」
「!?」
洞穴の最上までとどろくその声に、騎士はぎょっとして顔を跳ね上げる。そこでさらに心臓を縮めることになった――少女が、ぼろぼろと涙をこぼしていたからだ。
「ホ、ホワード妹……!?」
「自分たちが死ぬなら、たとえ生き残る可能性がある家族だって死ぬべきだったって言うの?」
「!」
「悪いけど、あたしならそうは思わないわ」
泣き顔に反し、その言葉は力強い。少女の輝きはいっそう強さを増し、リクスンの身体へと降り注ぐ。あたたかな力が流れ込んでくるようだった。ほとんど意識のなかったあの冷たい牢で感じたものと、同じ――。
「自分がどうなろうと、きっと残されて辛い思いをするだろうと分かっていても――それでも大切な家族には、生きていてほしい」
「!」
わずかにだが、そのひとことは震えていた。リクスンはハッとし、彼女とその兄が経験したという幼少時の悲劇を思い出す。
「自分の無力で大切なひとたちを失う辛さはよく知ってる。そのあとさらに苦しくなって、ご飯をたべたり、ただ眠ることだって辛いのも……よく、わかってるつもりよ」
「そう……だったな」
彼女もまた、形容し難い悲劇を経験したひとりだ。父と友を一度に失い、しかしそれに挫けず研鑽を積んだ、誇り高き戦士でもある。今かけてくれているこれらの言葉は決して綺麗事ではなく、少女の苦い記憶の一粒から得たものなのだ。
「けれどどんなに落ち込んでいても、絶対に楽しいことが巡ってくるようにできてるのよ、この世界って。ひとりにさえならなければね」
「ひとり、に……」
どこか心の奥で、小さな舌打ちのようなものが聞こえた気がする。しかしそれさえも、眼前の少女が優しく遠ざけてくれた。硬く閉ざしていた記憶の蓋が、音を立てて開くのを感じる。
「あなたもそうじゃなかった? 悲劇に囚われないで――思い出して」
騎士が次に感じたのは、暗い水中に引き込まれるような絶望感ではなかった。
封じていた記憶を視たいと、はじめて願う。
「俺は……!」
柔らかな細い手が、静かに己のそれに重ねられる。その温かさに導かれるようにして、リクスンは目を閉じた。
*
「なんだ、てめえ――うああっ!」
「ひ、強っ……ぎゃああ!?」
痛みと疲労で混濁していた少年の意識に、その悲鳴が舞い込んでくる。
「……?」
最後の気力を振り絞って顔を持ち上げると同時、よく通る穏やかな声が耳を打った。
「良かった。生きていてくれたか」
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