5−28 失えないのよ
「ごっ……
明らかな狼狽を浮かべる仲間をよそに、フィールーンは冷静な――というには、いささか目に好奇心の輝きを浮かべて――顔つきで半透明の女を眺めた。
「いいえ、エルシーさん。きっとこのお方は、幽霊ではありません」
歳はフィールーンよりもずいぶん上に見える。ゆるやかに揺れる亜麻色の髪から突き出ているのは、特徴的なとがり耳――エルフのものだ。
ドレスの質素さは屋敷の使用人かと思うほどだが、よく見れば精霊の祝福を込めた刺繍も散見される。身分の高い者であることは間違いない。
「幽霊族特有の凍えるような冷気をまとっていませんし、なんだかお顔つきも穏やかだと思いませんか? 怨念や殺意といったものがまったく……」
「だ、だ、だって浮いてるじゃない! 身体も透けてるし、気配もなかったわ。絶対にお化けよ! そうだわ、きっと昔この牢屋で死んだ囚人の――!」
取り乱したエルシーの膝から側付の頭が滑り、ごつんと痛そうな音を立てて石床に墜落する。半透明の女は驚いたように華奢な手を口に当て、憐みのまなざしで騎士を見た。
「お、落ち着いてください。エルシーさん」
フィールーンは拘束された両手を器用に駆使して横髪を耳にかけ、警戒と怯えを強めている少女をなだめる。彼女の兄が語っていたとおり、“そういうもの”が苦手なのだろう。ここはつとめて冷静に、現実的な説明が必要となる。
「シーザー様一家がこのような牢を必要としていたとは思えません。鉄格子のさび具合から見ても、おそらくここはあの夫妻が追加で建設した場所なのだと推測できます。であれば、仮に死んだ囚人さんとやらの身体が朽ちて魂がさまよいはじめ、いわゆる幽霊として蘇るのは、早くても――」
「あなたが落ち着いてよ、フィル! 話す内容と表情との落差がすごいわよ!?」
側付の頭を引き上げつつ、エルシーはぎょっとした顔で叫ぶ。いつの間にか持ち上がっていた口角を両手で引き戻し、フィールーンは咳払いした。
「ええと……」
改めて、自分たちのやりとりを興味津々といった様子で眺めている女を見上げる。
「はじめまして。フィールーン・シェラハ・ゴブリュードと申します。あちらは仲間のエルシーさんと、私の側付騎士リクスンです。こ、この度はたいへん、お騒がせしております」
ぺこりと黒髪頭を下げ、心からの礼儀を尽くす。すると女はハッとしたような顔を浮かべ、短く太い眉も驚きに持ちあげられた。しかしそれも一瞬のことで、女は胸に手を添えてすぐに優雅な一礼を返す。その仕草にもやはり品があった。
「あの……?」
また穏やかな微笑を浮かべている女を見、フィールーンは困惑した。どうやら言葉を交わすことができないらしい。先ほどはたしかに、鈴のような笑い声を聞いたと思ったのだが――。
「そうね……。落ち着いてよく見ればたしかにその人、幽霊じゃないわ。たぶん精霊に近い存在だと思う」
いくらか警戒を解いた声で言うエルシーに、女は嬉しそうにうなずいた。正解だと言いたいのだろう。彼女の周りには黄金色を帯びた光が漂っている。
「彼女の強い意思と、この地の精霊が結びついてできた幻影……かしら。あなたはもしかして、この家のひと?」
ふたたび優しくうなずいてみせる女に、フィールーンは恐る恐る訊いた。
「も、もしや……シーザー様のご息女、ムクファ様ですか?」
その名を耳にしたのは久方ぶりだなのだろうか。女――ムクファ嬢は、形の良い目を細め、どこか哀しみのにじんだ微笑みを浮かべた。
『……』
静かなその肯定に、フィールーンの繊細な心は揺れた。彼女はきっと、我が家で起こった“悲劇”をきちんと理解している。その上で、こうして自分たちの前に姿を見せてくれたというのなら。
「な、なにか私たちに教えてくださるのでしょうか? でしたら――!」
「ぐ……ッ! が、ごほっ」
「リンさん!!」
苦しそうな声と悲鳴にフィールーンは振り向き、戦慄した。リクスンが大きく吐血し、咽せ込んでいる。彼の血で膝を真っ赤に染めつつも、エルシーが心配の声で言った。
「少しずつだけど、毒が勝ちはじめてる……! このままじゃ」
「そんな!」
「……ねえ、精霊さん――いいえ、ムクファさん」
さきほどまでの怯えた様子が嘘のように決然とした表情になり、少女が牢ごしに女を見上げる。そのするどさにドキリとしつつ、フィールーンは黙って友を見つめた。
「あなたも精霊となった身なら、あたしがどういう“存在”なのか分かるでしょう。だから――力を貸してくれない?」
「エルシーさん」
「あたしは、今すぐこのひとを救いたいの。失えないのよ」
迷いのない申し出に、フィールーンは戸惑いながらムクファを見た。彼女は少女と騎士に交互に目を走らせ、考えるように顎に手を添えている。
「彼は毒に冒されてる。あたしの得意な風の力じゃ解毒は無理だけど、地精霊であるあなたの力を借りれば中和ができるかもしれない。ううん――やってみせるわ」
『……』
たしかに師である知恵竜からも、地精霊はあらゆる毒の扱いにも長けていると聞いたことがある。少女の主張は悪くないものに思えたが、考えるより前に懸念が口から飛び出した。
「エルシーさん、そ、それは……危険なことではないんですか?」
「ええ、無茶を言ってるのは承知してる。正直、あたしは地の精霊とはあんまり関わりがなくて。相性もそこまで良くはないの」
広く精霊に愛されているという“精霊の隣人”だが、エルシーにだってヒトとしての属性傾向というものがある。身体に馴染んでいない力を行使することは、かなりの負荷を伴う行為になるはずなのだ。
「でもこのひとだって無茶をしたんだもの。あたしだけ、安全な橋を悠々と渡るわけにはいかないわ。だからね……フィル」
「?」
少しだけ声が震えたように聞こえたのは、気のせいだろうか。フィールーンはひと言も聞き逃すまいと、鉄格子にめり込むようにして身を押し付けた。
「先に言っておくわ。――ごめんなさい」
「エルシーさん……?」
いつも快活な少女が浮かべたのは、曖昧な笑顔だった。はじめて目にするその表情にフィールーンが戸惑うと同時に、一筋の悪寒が背を走る。
「ま、待ってください! エルシーさ――」
「“精霊の隣人”の願いは、どんな場でも最優先される。“森の盟約”を違わぬというならば、さあ――力を貸してちょうだい、地精霊ムクファ!」
「きゃあっ!?」
エルシーの言葉に導かれるようにして、暗い牢に光が生まれた。光の発生源は、胸の前で両指を組んだムクファだ。ヒトとしてのかたちが揺らぐその様はたしかに精霊のものであり、フィールーンはあまりの眩さに顔を背ける。
黄色味を帯びた光の粒がエルシーに向かって吸い寄せられ、彼女を覆うようにして張りついていく。やがてその色は、鮮やかな牡丹色へと変化した。どの属性とも判じがたい、見たことのない力の輝きだ。
「これが、“精霊の隣人”の力……!?」
エルシーの背で、音もなく光の束が持ち上がる。呼吸するようにゆっくりと左右に開くのはまるで大きな蝶、あるいは物語の挿絵で見た――妖精の羽。
『――またひとつ、“花”が咲く。喜ばしいね』
「ッ!?」
かすかにだが耳に届いたその声に、フィールーンはびくりと飛び上がった。ムクファではない。世界樹での“時渡り”で会った、あの白い少年のものでもない。はじめて聞くその声は悪戯っぽく――そして、どこかひやりとさせられる冷たさを含んだ声だった。
『優しい子だね、エルシー。君の願い、もちろん今日も叶えよう』
声と気配が消えた瞬間、すべての光が弾け――牢はふたたび、闇の静けさで満たされていった。
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