5−27 変よね

「うぅ……ん」


 湿った空気に、冷たい石の匂い。

 どこか嫌な記憶と重なるその不快感に、フィールーンは重いまぶたをこじ開けた。目を開けたはずなのに視界は暗い――しばし横ざまになったその光景を凝視して、ようやく自分の居場所に見当がつく。


「ここは、牢……? あ」


 手をついて身を起こそうとして感じた違和感に、フィールーンは手元を見た。両手首が鉄の錠できっちりと拘束されている。足は自由だったので奥の壁までゆっくりと移動し、背中をこするようにして上体を起こした。


「フィル? 目が覚めたの」

「え、エルシーさんっ! そこにいらっしゃるんですか!?」

「ええ……。通路を挟んで、向かいの牢よ」


 壁につけたばかりの背を浮かせ、フィールーンは危なっかしい動作で駆け出した。ガシャンと音を立てて鉄格子に額をつけ、暗闇に目を凝らす。向がいの牢には小さな窓があるらしく、わずかな月光が差し込んでいた。


「!」


 仲間の無事を喜ぶ用意をしていた心が、一瞬にして不安の色に塗りつぶされる。


「り……リクスンっ!!」


 エルシーの膝の上に頭を預けた状態の側付――リクスンの身体は、いまだ血塗れだった。顔色は場所の暗さを引いても蒼く、血の気がほとんど無いと言ってもいい。


「落ち着いて、フィル。リンさんはまだ、生きているわ」

「ま…………?」


 静かにうなずいたエルシーに視線をやって、フィールーンはハッとした。


「エルシーさん!? だ、大丈夫ですか」

「その言葉は、あなたの側付にかけてあげて」


 エルシーは疲れ切っていた。いつもの元気のかけらも感じられず、実際に顔色もかなり悪い。優雅に結い上げたはずの髪は乱れて背中へと落ちており、月光ににぶく輝いている。


「あたしは……まだ、全然平気よ」


 騎士に膝を提供してはいるが、自身は硬い壁に肩を預けている。体力も魔力も限界のように見えた。


「出血のひどい傷は、あらかた塞がったと思うわ。けど、この肩の傷が……」

「あ、あの獣人さんに、最後に刺された箇所ですね」


 リクスンの肩に当てがった少女の手からは、不思議な光が漏れ出ている。それもずいぶんと弱々しく思え、フィールーンは心配に眉を寄せた。


「ええ。どうも……刃に毒が塗ってあったみたいなの」

「!」


 仲間の暗い声に、フィールーンの心臓がぎゅっと縮こまる。急いで臣下の顔をもう一度見つめれば、たしかに額に浮かんだ汗が確認できた。


「あたしは……あたしの治癒は、解毒向きじゃないの」

「エルシーさん」

「今は治癒の力を強めて、重要な臓器に毒が溜まらないように守っているだけ。でも、毒を消すことはできないわ……いずれ、あたしの魔力が尽きれば……うっ!」


 ぐらりと上体を傾けたエルシーは、もう一方の手を石造りの床に突いた。しかし負傷者の肩に置いた治癒の手は揺るがない。その気丈な姿勢に圧倒されつつ、フィールーンは鉄格子越しに呼びかけた。


「エルシーさん! まさか、あれからずっと治癒を」

「……ごめんなさい。あたしが治すって大口叩きながら、このザマよ」

「そんな……そんなこと!」

「まだ悲観しないでいいわ。今日だけは、このひとの体力の多さに感謝しなくちゃ……。いつもの“修練”が今、こんなにも彼の命を支えてる」


 沈みながらも優しげなその声に、フィールーンは奇妙な違和感を持った。今まで、少女が側付に向けていた声とは明らかに違う。毒に関する知識を絞り出そうとするのを止め、王女は向かいの牢に見入った。


「……どうしてこのひとって、無茶ばかりするのかしら」

「エルシー、さん」


 少女自身も熱に浮かされているかのように、その茶色の瞳は潤んでいる。意識を失ったままのリクスンの胸に手を置き、血塗れの紳士服をきゅっと掴んだ。


「世界樹のところで、あたしの代わりにお兄ちゃんを助けてくれた時も……さっきの闘技場でもそうだった。本当に、絵に描いたような“騎士”、よね……」

「そ、それは……」


 咎めているのか称賛しているのか判断がつかず、フィールーンは曖昧な言葉を挟むしかなかった。それには気を留めず、エルシーはまるで独り言のように喋り続ける。


「お兄ちゃんも無茶するほうだけど……それとも違うのよ」

「ち、違うって……?」

「そう。お兄ちゃんはああ見えて、ちゃんと良い決着を描いて行動してる。あたしを守るってお父さんと約束したから、絶対に本当の“無茶”はしない。そうなる前にあたしを抱えて、飛んで逃げると思うわ」


 これが旅の道中で交わされた会話ならば、笑う場面だっただろう。しかし交友関係に疎いフィールーンでさえ、ここで笑みを浮かべる気にはならなかった。


「けどこのひとは……リンさんは、違う。すぐ飛び出すのはお兄ちゃんと一緒なのに、リンさんはなんだか――そのまま遠くへ走り去っちゃう気がして、すごく怖いの」

「……っ!」


 フィールーンは息を呑んだ。その所感には覚えがある。この側付が自分たち王族に絶対の忠誠を誓っていること――その信念の強さは時として、こちらに恐ろしさを抱かせるほどにまっすぐなのだ。


“俺は一度、死にました。ですから、この命は――”


 遠い日の側付の声が脳裏をよぎる。しかしこの場で彼の身の上を少女に語ることは相応しくないだろう、とも直感した。フィールーンは拘束による手首の痛みを忘れ、少女を――友を、見つめた。

  

「どうして……そこまで、怖いんですか」

「え? さあ……どうして、かしら。ホントね、言われてみれば……」


 フィールーンの言葉に、少女は久しぶりに顔を上げる。

 その頬に、一筋の光が伝った。


「あ、あれ……っ? やだ、どうして」


 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙の量を見、フィールーンは喉の奥ににぶい痛みを覚えた。この少女はまだ、泣いていなかったのだ。


 暗く寂しいこの牢で、大怪我人の看病を続けて――不安に折れる暇もないほど、ひとり頑張っていたのだろうか。


「……っ、エルシーさん!」


 王女は鉄格子に黒髪をこすりつけ、叫ぶように言った。


「あの、言ってください――何でも!」

「ふ、フィル……?」

「わ、私っ、これでも、あなたよりも年上で……! 元引きこもりだし、頼りないかもしれませんけど……でも今、あなたのどんな言葉も、聞いてあげることはできます。だから」

「……ッ」


 押し殺したような嗚咽が、たしかに聞こえた。唇を震わせたエルシーは、そのままうつむいてしまう。ぽた、と水音を立てて涙が紳士服へと落ちた。


「失いたくないって、思うの……」


 魔力がすり減り、そして不安に震える手が静かに動く。血でくすんだ騎士の金髪の前でためらうように動きを止め――やがて、慈しむようにその髪に触れた。


「またいつもみたいにしゃんと背筋を伸ばして、立っている姿を見たいの。まっすぐで澄んだ、琥珀色の目が見たいの。いつもうるさいって思ってたはずの、あの小言が聞きたいのよ……変よね」


 目覚めを期待するようにじっとリクスンの顔を見つめた後、少女は一度固く目を閉じた。今度はフィールーンの聴覚を総動員しなければ聞き取れないほどの声を落とす。


「フィル、どうしよう。きっと……きっとあたし、このひとのこと」

「え、エルシーさん……!」


 この場にそぐわない気持ちだとは認識していた。しかしそれでもフィールーンの心に、言い知れぬ明るさが広がっていく。彼女の口から聞きたいと願っていた言葉をついに今、自分は耳にしたのだ。


「バカ、よね……ほんと。あれだけ毎日一緒にいて、あんなに毎日ひどい言葉ばかり投げ合っていたのに。やっと全部わかった時が、こんな牢の中でだなんて」

「エルシーさん! そ、そんな、全然遅くなんてないですっ!」

「あなた、さっきから何か喜んでない?」

「えっ!? あ、あの、えっと……それは私の勝手な妄想というか願望というかその」

「忘れてない? あなたの騎士なのよ、このひと」


 困ったような、しかし一握りの不安が混じった声。フィールーンはその意図に気づき、慌ててぶんぶんと頭を振った。


「わ、私のことはお気になさらず! リンはなんというか、私にとっては兄や、家族みたいなものでっ……! エルシーさんにとってのセイルさん、といいますか」

「ふふっ。もう、あなたが慌ててどうするのよ。こっちが冷静になって恥ずかしいじゃない」

「ごご、ごめんなさい……!」

『ふふ』


 顔を真っ赤にして狼狽していたフィールーンだったが、最後に飛んできた笑い声に引っ掛かりを感じた。エルシーの声ではない――もっと落ち着き払った、大人の女性の。


 やがて、ようやく赤みが差していた頬をふたたび蒼白にしたエルシーが叫ぶ。


「ふぃ、フィル……うしろ!」

「!?」


 自分以外、誰もいないはずの詫びしい牢。

 その薄闇の中で、ひとりの女が静かな笑みを浮かべて立っていた。



「あ、あなた様は……!?」



 いや、女は立っていない――その透明な細い素足は、すでに冷たい石床を踏んではいなかったのだった。


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