3−15 おまじない、みたいな
「ま、待っとくれッ!!」
『“大いなる力の前に、矮小なる名は消えたり”――』
異形の言葉を紡ぎ出す主君によほど動揺したのか、彼女の側付は石像のごとく固まってしまっている。
「ひ、姫様……?」
「なんて言ってるのかしら。嫌な感じしかしないわ」
魔術に明るいエルシーでさえ、割って入るべき状況なのか判断しかねているようだった。
「わ、分かったよッ! 自首する! だから術を止めな!」
『“故に与えん。我が手足となりし者に相応しき、黒き鎖を”――』
「それともあんた、自分が王族だから好きに裁いていいって言うのかい!? こ、こんな禁術をヒトにかけるなんて、下郎以下の行いってもんだよ!」
「ば、ばーちゃん……」
その言い分はどうなのかという孫たちの呆れた視線にも気づかず、老婆は汚い言葉を撒き散らし続けた。
しかし真正面に立っている王女の集中は毛ほども揺らがず、細い息を長く吐き出している。
セイルが見た先で、王女はその横顔に上品な微笑みを浮かべてみせた。
『“これは裁きではありません。個人的な、そう……お仕置きですね”』
「はああ!? あ、あんた、王女がそんなこと言って」
『“大丈夫です。このやりとりは――奴隷になれば、すべて忘れてしまいますから”』
苦笑混じりに訳してくれたテオギスに反し、セイルは強張った表情で唾を呑んだ。この物騒な宣告の内容は、決して側付には伝えられまい。
すうと大きく息を吸い込む音に続き、フィールーンは一歩踏み出して強い口調で言った。
『“愚劣なる身に刻め! 世が黒血の海に沈むまで、汝が主の面を見ること叶わぬと! 汝の新たな名は――”』
「ひ、ひいぃッ!! ……っ」
一際大きな声の詠唱が響き渡ると同時に、老婆の頭ががくんと傾いた。
彼女の寡黙な夫も、さすがに白い眉を垂らして狼狽を見せる。
「ひゃわああ、ゼニィ!?」
「……。気を失ったらしいな」
「そう……ですか」
白目を向いて気絶する者も見慣れたのか、セイルの報告にもフィールーンは慌てたりしなかった。
「ざ、残念ですけど……ここまでにしましょう」
「そのつもりだったんだろう。けど良いのか?」
「はい。り、リンの言ったように……罪人は、皆等しく裁かれねばなりません」
恐怖で失神した老婆を見下ろし、セイルは頬を掻く。
遅れて、ハッと我に返ったのは彼女の騎士である。
「ひ、姫様! 今の禍々しい詠唱は、一体何なのです!?」
「え、ええと……。た、旅のお天気をお祈りする、おまじない、みたいな」
「どう聞いてもそんな可愛いモノじゃなかったわよ! テオさんなら通訳してくれたでしょう、お兄ちゃん? どんな魔術だったの」
「どうだかな」
詰め寄ってくる妹から目を逸らすと、ふと同じく詰問を受けている王女と目が合う。
「や、やりすぎたんでしょうか。私たち……」
反省しているような、それでいて計画完遂の誇らしさも窺える表情。セイルも共犯として、小さく肩をすくめてみせる。
(まあたまには、小さな“嘘”をついてもいいんじゃないかな。今の君たちは、ヒトなんだから)
最年長である竜の許しを得、木こりの青年は決着の息を吐いたのだった。
*
王都へと繋がる街道の脇。
荷車に元通り積み直した袋に張りついたままのタルトトが、そばに立っている魔獣を胡乱げな目で見下ろして呟く。
「テトラバブーンはそりゃ賢いっすけど……本当に任せていいんでやんすか?」
「は、はい」
「でも気が変わって、一家全員で逃げ出したりしたら厄介ですぜ」
唇を尖らして言及した商人に、ぐるりと魔獣の顔が向く。
ヒッと小さく悲鳴を上げ、獣人は分厚い尻尾を丸めて荷車内に逃げ込んだ。
「城の関係者に顔が知られたんだ。今さら逃げねえよ」
孫たちの長兄シュートは観念した呟きを落とし、一家に合図を発する。すると縄の中で背中合わせになったならず者たちも、協力して器用に立ち上がった。
いまだ気絶している小さな老婆の足は地面から離れており、不気味である。
「こ、これを」
フィールーンは一家の縄をまとめて持っている魔獣の前に進み出ると、その太い首に輪をかける。
それは首輪ではなく荷袋であり、中身は元々彼らのものである数日分の食糧と――
「タルトトさんの似顔絵と、わ、私からお父様への手紙……。それから、リンから
『ワカッタ』
「道は大丈夫ですか? ち、地図も用意した方が? あっ、それと疲れたら、ちゃんと休んで下さいね」
『オージョ』
誰の名かと目を瞬かせたが、フィールーンはようやく自分が“王女”と呼ばれたのだと気づく。荷の位置が悪く苦しいのだろうかと心配すると、魔獣は小さな瞳に静かな光を浮かべてはっきりと言った。
『アリガトウ』
「……!」
彼と語らった時間は少なく、しかもほとんどがこちらの話だった。魔獣がならず者に拾われた経緯も、これからどうするつもりなのかも聞けていない。
その程度の仲だというのに、王女の鼻はツンと痛んだ。
「あ、あのっ! ドゥム――」
彼の名を呼ぼうとして、すでにそれは失われたものだと気づく。
言い淀んだフィールーンの心中を見抜いたように、魔獣は訊いてきた。
『クレ』
「えっ?」
『ナマエ、クレ』
予想外の提案、そして重大な役目が回ってきたことに王女は驚いた。戸惑って仲間たちを見ると、意義なしといった顔がずらりと並んでいる。
「たしかに、今の名前はイマイチでやんす。言葉の感じがよくねえ」
「ええ、名前は大切よ。自分で名乗るのも良いけど、力ある人から与えられるのはもっと良いわ」
「姫様に名を頂戴するとは、世界一の幸せ者だな!」
「深く考えなくても良い。……と、賢者が言ってる」
視界の隅に立っている青年だけが、自らの意見を述べなかった。
フィールーンがもう一度彼に視線を飛ばすと、木こりは観念したようにぼそりと言い足す。
「……お前の、好きにしたらいい」
許可を得るつもりではなかったが、その一言は王女の胸を温かくした。
旅用マントの下でそっと手を組み合わせ、フィールーンは祈るように目を閉じる。
「そうですね。で、では……“ミドア”と」
「素敵な響きだわ。意味はあるの?」
「こ、古代に失われた癒しの魔術語『サリエテ』で――“優しき者”、です」
直球すぎただろうかと魔獣を盗み見ると、彼の黒い鼻面は相変わらずの無表情であった。微笑むことを期待するほうが無理な話なのかもしれない。
しかし気恥ずかしくなってうつむく王女に、魔獣は深い声で言った。
『アリガトウ、フィル。“ミドア”……ダイジニ、スル』
「! は、はいっ! どうか――どうか、ご無事で」
こうして賢き魔獣ミドアは、光ある道へ戻るために去っていった。
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