2−25 世話になった

「泣かないでってば、ヤーク。出発し辛くなるでしょう?」


 幼い兄妹が暮らす森に、騒がしい武人が転がり込んできてから7年。


 よく晴れた日の朝、小屋の前には成長したヒトの兄妹と逞しい竜の武人の姿があった。


「うぅ、ずまぬッ……! じがじ、ごれが泣がずにいられようがっ……!?」

「何を言ってるのか分からないぞ……」


 困ったように呟いた背の高い青年――セイルは、泣き腫らす武道の師を見上げて頬を掻いた。


 旅装に身を包んだ妹も、まだ華奢な線が残る肩をすくめている。


「そうよ。これが今生の別れってわけじゃないんだから」

「むう……無論だ……! そうだな、ここは師として義父ちちとして、笑って見送らねばいかん」


 ずずっ、と鼻水をすすり、武人らしい胴着姿のヤクレイウスは自分たちを見下ろした。鱗の皮膚には出会った時よりも少したるみが見られたが、まだまだその姿は力強い。


(しかし、あれからもう7年とはねえ。ぼくにとっては短い年月だけど……君たちにしてみれば、なかなか感慨深いものがあるんじゃないかい?)

「……」


 セイルは賢者の言葉通り、これまでの7年間を思い出していた。


“甘い、甘いぞセイルッ! もっと脇を締めて、腰を落とすのだ!”


 まったく拳闘の心得のない少年に対し浴びせられた、『愛』に満ちた激励。


“避けるために宙に跳び上がってはならん! 仕留めてほしいと言っているのと同義であるぞッ!”


 青アザをこしらえた箇所を的確に、そして容赦なく突いてくる逞しい拳。


“倒れてからが戦いの始まりだ、立て立てーッ!! ぬっ、竜人になるな、飛んで逃げるつもりであろう!?”


 森の奥地まで飛んで逃げようが嗅ぎつけられる、恐ろしいほどに冴えた勘。


 セイルは清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み――はっきりと宣言した。


「ああ――後悔はない。早く発つぞ」

(君のそんなに晴れやかな声、はじめて聞いたよね)


 青年の心中など知らない師が、誇らしげな声を上げる。


「おお、見よ――我の弟子らは、なんと立派な若者に育ったことか! どこへ出しても、我は鼻が高いぞ」

「……そうか」

「セイル、こんなに背が伸びて! まるで大樹ではないか。エルシーも……その、女子らしい色香や出っ張りはまだ見られぬが……そう、まるで軽やかな蝶のような」

「ムリにたとえてくれなくて結構よ!」


 ぷいと顔を背けると、鮮やかな若木の葉色をした髪束が揺れる。

 妹が背負った大量の旅荷をちらと見、セイルは青年らしく低さを増した声で静かに訊いた。


「本当に来るのか、エルシー」

「何度も言ったでしょ。あたしは、お兄ちゃんの旅についていくって。そのためにヤークに弓やナイフを習ったんだし、精霊術にも磨きをかけたわ。あたしの力が役に立たないとは言わせないわよ」

「だが……」


 危険だと分かっている旅路に、たったひとりの妹を巻き込んで良いものか。セイルは強く拒絶するべきかと最後に悩んだが、15になりますます聡明さを増した妹を説得できるほどの舌は自分にはない。


「ふはは! 諦めるが良い、セイルよ。お主の妹の追跡術は本物だ。ここで撒こうが、地の果てまでも追従してくるであろうよ」

「そういうこと。さ、はりきって行きましょうね、お兄様? 実はあたし、王都に行くのすごく楽しみなの!」

「……それが目的じゃないだろうな」


 諦めの息を落としながらも、セイルはどこか心が温まるのを感じていた。

 妹は頼りになるだけではない。心身を鍛えた今でもやはり、自分を支える大きな柱のひとつなのである。


 そしてもうひとつの柱――心に住まう竜の賢者テオギスが、昔と変わらぬ澄んだ声を響かせた。


(さあ、セイル。名残惜しいけど、王都ゴブリュードは遠い。出立しよう)

「ああ……」


 その通告を聞くと、セイルの胃が奇妙にねじれた。


 17年暮らした故郷の森を離れることによる緊張か――それとも、新しい世界へと旅立つ興奮か。


「テオギス! 若者らを頼んだぞ」

(もちろんさ。セイル、僕の分も含め、彼に挨拶を)

「……ヤーク」

「ぬ?」


 色々な謝辞を考えていたセイルだったが、結局は群青色の頭を垂れ深く一礼をした。


「世話になった。あんたに会えて、その……オレは強くなれた、と思う」

「……!」

「あたしもよ。それに“あんなこと”があってもこの森で安心して暮らせたのは、貴方のお陰だわ。本当にありがとう、ヤーク! 帰ってきたら、また好物の山菜ご飯を――きゃっ!?」

「ぬぅおおぉーッ!!」


 ヒトの目には追えない速さで竜の腕がしなり、セイルと妹の背に回り込む。

 まとめてがしっと抱きしめられると、頭上から轟くような師の泣き声が落ちた。


「我は――我は、今ッ! 人生の愛おしさを噛み締めておるッ!!」

(その前に弟子を絞め殺そうとしてるけどね)

「ぐっ……!」

「ちょ、ちょっとヤーク、くるしい」

「老竜の戯れ言と思って、最後に聞くのだ……弟子らよ」


 腕の中でもがく若者たちを見下ろす黄色い目は、“豪傑”とはほど遠い涙に彩られていた。


「辛い旅路になるやもしれぬ。世の理不尽さや生ける者の醜さを目にし、失望する時も来るやもしれぬ」

「……」


 師の太い腕に刻まれた、いくつもの古い傷痕。


 平和な世でも小さな争いの芽は絶えず蔓延はびこり、彼はその戦禍に何度も身を投じてきたのだという。セイルは圧迫に喘ぐ妹からその腕を退かしてやりつつ、師を見上げた。


「しかし諦めるな! 己が道を見出すまで、決して歩みを止めるでない。どんなことがあろうと、そのすべてが――お主らの人生を象る、眩き鱗となろう」


 体温が低そうに見える竜の目からこぼれ落ちた水が、セイルの頬を打つ。

 それは想像以上に熱く、心の奥にまで滲み入るようだった。


「……それでも、傷ついた翼を休めることもまた戦士の務め。その時は――ここに帰ってくるが良い」

「ヤーク……」

「お主らの冒険譚が聴けることを楽しみに、畑で桑を振るって待っておるぞ」


 妹が鼻をすする音が耳を打つと、セイルの喉の奥も熱くなった。

 見慣れた老兵の顔をしっかりと見据え、青年は誓う。



「必ず帰ってくる。オレたちと――あんたの、森に」



 こうして若者たちは、木々に囲まれた温かい巣を飛び立った。


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