1−25 今はがんばりたい、です


 顔に優しく吹きつける風が、フィールーンの火照った頬を冷ましていく。


「ちょっとは落ち着きました? 王女様」

「あ、あの……はい。申し訳ありません、え、エルシーさん」


 木こりの妹エルシーが創り出す風は、不思議なものだった。


 まず霧のような清らかな水滴が肌を濡らすのだが、それらは流れ落ちる前に温かな風に巻き上げられていく。最後に風は心地よい冷たさに変わり、あっという間に全身を乾かしてしまった。これも精霊に愛された身ゆえの奇跡なのだろうか。


「さあ、これで身体の汚れは取れたわ。くしがないのが残念ね」


 同じことを魔術で行うとなれば、異なる属性を持つ術師が数名必要となるだろう。それらをあっさりとやり遂げてしまったエルシーは、やはり側付から聞かされた通りの“精霊の隣人”なのだ。


「そ、そんな……! すごいです」

「あたしの力というより、この地の精霊たちの計らいね。みんな、あなたが薄汚れているのは嫌だって。愛されているのね」


 そう言って笑うエルシーに瞬き、フィールーンは己の身体を見下ろした。


 侍女服の損傷は相変わらずだが、たしかに身体は清められている。少し跳ねてはいるものの黒髪からは水草や泥の影も消え去り、今はさらさらと夜風になびいていた。


「ちゃーんと、湯浴みのご用意もしておいたんですがねえ……」

「だ、だからこうして埋め合わせしてるじゃない。来て、タルトちゃんもやってあげる。尻尾にまだ煤がついてるわ」

「あ、あっしは結構! 獣人は、濡れるのが嫌いなんで」


 両手で尻尾を背に押し込めた獣人をどこか心残りのある表情で見つつ、エルシーは肩をすくめる。


 同じように風で清めてもらったリクスンが、感心したように言った。


「なんとも便利だ。風呂いらずではないか!」

「どこでも出来るわけじゃないのよ、騎士さん。その場に存在する精霊の種類によるの」

「そうなのか?」

「砂漠じゃ水は作れないし、鉄を多く含んだ建物内には精霊自体いないわ。あとは精霊の気分次第ね」

「ほう。しかし助かったぞ。姫様をいつまでも泥まみれにはさせておけんからな。礼を言う」

「……。まあ、ありがたくもらっておくわ」


 少し面食らったという表情をしつつも、エルシーは微笑んだ。フィールーンは芝の上で抱えた膝に顎をつけ、人知れずほっと息をつく。自分の側付は激しやすく頑固者だが、同じくらい素直で気の良い人物でもあるのだ。


「さて。少し皆が打ち解けたところで、大事な話に入ろうと思うのだが」

「う――打ち解けてなどッ! 俺はまだ、彼らを信用しておりません」


 義兄の言葉に笑顔をひっこめ、リクスンは急いでフィールーンの元へと駆け寄ってくる。


「リン?」


 しかし今回彼が選んだ場所は、自分の隣席だった。草の上にどっかと腰を下ろしてきつく腕組みをする側付を見、フィールーンはおずおずと尋ねる。


「い、いいんですか。彼らの、話を聞いても」

「……義兄上が関わっている以上、部下である俺も耳を傾けるべき話だと判断しました。姫様こそ、お身体の調子はいかがです。久々の竜人化に、お疲れなのでは」


 心配が濃く浮かんだ琥珀の目に、フィールーンは急いで頭をぶんぶんと振る。本当はまだ痛みと疲労が身体を蝕んでいたが、ぎこちなくでも笑顔を作ってみせた。


「だ、大丈夫です! 時間もないですし、その……今はがんばりたい、です」

「分かりました。ご無理なさらず、異変があればすぐにお知らせください」

「ありがとう」


 そこで身内の会話を切り、フィールーンは顔を正面へと持ち上げた。自分たち王城関係者と向かい合って座っているのは、今宵の騒動を引き起こした“侵入者”たちである。


「……」


 妹と並んで草地に座っている青年の顔を見ると、王女の頬がふたたび熱くなった。森で竜人となっている間の記憶は断片的だったが、それでも彼にかなりの醜態を晒したのは間違いない。彼――セイルは、どこまで覚えているのだろうか?


 そんなフィールーンの心中を置いて、年長者として場を取り仕切るカイザスがよく通る声で話しはじめる。


「では、セイル君。このような野外で申し訳ないが、君が“竜人”になった経緯を話してくれるか」

「……“ヤーク”からの手紙を見せれば」

「たしかに私が受けとった書状は信じるに値するものだが、やはり大事な話は本人から聴かねばな」


 騎士隊長の口から出た名に、自分の隣にいる側付がぎょっとした表情になる。しかし素直な彼が口を開こうとした瞬間、控えめな声が響いてきた。


「……オレは、あまり話が上手くない。それでもいいか?」

「!」


 許可を求めるその声が誰に向けられたものかを知り、フィールーンはどきりとする。


「えっと……」


 皆の視線が集まるのを察するとますます気が焦ったが、今は側付の背に隠れるべき時ではない。


 何よりも、勘付いてしまったのだ――話し手の青年が、自分と同じくらい緊張していることに。


「――はい。全部聞きたい、です。お願いします、セイルさん」

「……わかった」


 セイルが小さくうなずくと、隣の妹が励ますようにぽんぽんとその広い背を叩く。一同と同じく草の上に座っているフィールーンも姿勢を正し、一言一句聞き漏らすまいと集中し直した。


 こうして星空の下、不思議な木こりの青年は竜との物語を語りはじめた――。



「オレが“竜の賢者”――テオギスと出会ったのは、9歳の頃だった」




<第1章:ふたりの竜人 完>


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