1-16 だから、俺も本音を言っておく


 歴史研究家でもあった、竜の賢者夫妻。


 人懐っこく誰もの心を開かせてしまう夫のテオギスに、淑女の鏡とも評判高い妻のルナニーナ。

 自分が生まれるよりも前から城に住んでいた夫妻は、フィールーンにとって第二の親も同然の存在であった。


“おや、フィル。うまく字が書けるようになったね”

“ありがとう、テオさま! でも、おしえてくれたのはルナなの”

“えっ。あ、あれ、僕も教えたよね?”

“アナタの字は文字としては認識されなかったらしいわね、賢者さん? 良ければ一緒に教えてあげましょうか”

“手厳しいねえ、ルナ……”

“いいのっ! もじがヘタでも、テオさまだいすき!”


 そんな夫妻は城の一画に、広大な住まい兼研究室を有していた。いくつもの歴史にかかわる重要な資料や、分厚い書物――ふる叡智えいちの香りに満たされたその部屋を、幼い自分はとても気に入っていたものだ。


「なのに――」


 甘酸っぱい思い出が、一気に黒く塗り潰される。他人のもののように耳を貫くその絶叫は、数年が経った今でも色褪せることがない。


“いやあああーっ!! ルナっ……ルナニーナッ!! なんで、なんで”


 嘘であってほしいと自分の頬に突き立てた指さえ、生ぬるい血で汚れていたことを思い出す。


「――自分の悲鳴と、倒れた彼女から流れ出す血溜まり。真っ赤に彩られた壁や本や、床に転がったカップ。それくらいしか、記憶にないんだ」


 次に幼い王女が目覚めた場所は、冷たい石造りの部屋だった。見張りとおぼしき兵が自分と目が合った途端、恐怖に顔を引きつらせたことをよく覚えている。


「訳もわからず“竜人”に成ったあたしは、見境みさかいなく暴れて……。騎士隊も使用人も、たくさん傷つけた。さすがにお父様も庇いきれなくなり、エルフたちの魔術で取り押さえられたんだそうだ」


 それからの日々は、幼い王女にとって地獄となった。


 短ければ数時間ごとに竜人の魔力に呑まれ、手近にある物を破壊する。さらに対象物が無い時は、己の身体を傷つけた。

 すさまじい痛みに涙するも、徐々に塞がっていく傷を見ると自分への嫌悪が増すばかりだった。


“フィールーン様……今日は一段とご乱心召されたようですな”


 城の大臣であるエルフの長、レイモルド――彼の態度はとくに幼いフィールーンを苦しめた。

 いつも目に冷厳な光を浮かべた男は、フィールーンの身体の事情を知りつつも王族としての責務を果たすようにと追い立てたのである。


“竜人、か……。愚かなヒトを、王に育て上げるだけでも手間だというのに。まったく面倒が増えたものだ”


 長命なエルフであるこの男は、三代に渡りゴブリュードの王を支え続けてきた教育係だった。本心では自種族こそ世界一の知恵者だと確信しているので、民の信頼を獲得し続けているのがいつの世でもヒトと竜であることに不満を抱いている。


 その歯痒さが、日の当たらない場所で生きるフィールーンへと向けられていた。


“この程度の問題がお分かりにならない、と。ハァ、今代でこの王国はしまいですな”

“あ、あした! あしたまでには、きっと”

“ええ、待ちますとも。……貴女様に平穏な明日が訪れるかは、分かりませんがね”


 自分を保てる間は短い。

 幼い王女は涙を拭いながら、夜遅くまで書庫を歩き回った。


“うっく……ひく、お、おとうさまぁ……”


 知識を与えてくれる書物は好きだが、そういった辛い思い出もたくさんある。それでも心配する父や献身的な側付のお陰で、なんとか暗がりの中でも生きながらえてきたのだった。


「――誰も、当時九歳だったあたしを犯人だとは考えなかった」


 情けないほどに全身が震えている。

 自分を押さえつけているセイルの手はすでに緩んでいたが、フィールーンは抜け出すことも忘れて呟き続けた。


 まるで、呪いに侵された者のように。


「けれど結局、誰が彼女を討ったのか……それはいまだ不明のままだ」

「……」

「い、今でも怖いんだ。もし――もし、あたしが、ルナを」


 その続きは、とても口に出来なかった。


 王城関係者の誰もの脳裏を掠めながらも、誰も口にしなかったひとつの可能性。いまだに好奇心でその考えを噂しようものなら、騎士たちから厳しく注意を受けるほどの禁忌。


「“君は、ルナを殺してはいない”」

「……!」


 青年が静かに放った言葉に、フィールーンはハッとして顔を上げた。

 覚えている賢者の声音とはまったく異なるというのに、彼の口から紡がれる言葉はあの聡明な竜のものだと分かる。


「“可愛いフィル姫。そんな不安を抱えながら、ひとりでよく頑張ってきた”」


 冷え切っている侍女服の胸の奥に、熱いものが宿る。


「テオ……さま……っ!」


 それは、叫び出したいほどの懐かしさ。

 そして同時に押し寄せてくるのは、もう二度とあの美しい紺青こんじょうの竜姿を拝むことはできないという、現実。


「“来るのが遅くなってしまったが、もう大丈夫だ。君は決してひとりじゃない”」

「で、でも――!」

「……ああもう、心配性の姫さんだなほんと!」

「!?」


 口調が羽のように軽くなると同時に、竜人の青年がずいと顔を近づけてくる。こんなにも間近で側付以外の異性を見たことがなかったフィールーンは、その迫力にたじろいで舌を噛んだ。


「いいか、ここには俺たち竜人だけだ。だから、俺も本音を言っておく」


 葉の間からこぼれ落ちた月光が、木立に溶けてしまいそうな黒色をすくい出す。

 その頬を覆う鱗は、先ほど記憶に蘇ったのと同じ群青色。


 フィールーンの目と鼻の先で、その鱗が歪な形を作った。



「俺だってな……死ぬほど怖ぇんだよ」


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