1−13 良い子で待ってな


(いけない。彼女ルナのことを話題に挙げたのは、少し早すぎたか)


 肌を打つような魔力の脈動に手をかざしたセイルは、そんな呟きを耳にする。心中に宿る友、テオギスの声だ。


「く、ああぁっ!」


 絶叫した王女フィールーンは己の腕をかき抱き、よろよろと数歩退がっていく。侍女服の質素なスカートが溢れ出る魔力にはためき、その熱量に足元の水が霧となって舞った。


「こんな場所じゃまずいわ! 止めないと」


 妹の手は素早く背にある長弓へと伸びたが、彼女の前に躍り出たのは鈍色にびいろの鎧姿であった。


「待て、何をする気だ!」

「ちょっと! 射られたいの!?」

「君こそ、俺の後ろに退がれ。それに姫様は傷つけさせん!」


 盾は城壁塔の上に置いてきたはずだが、騎士は臆することなく両手を広げて立ちはだかる。セイルにも、彼が前後の女性をどちらも守ろうとしていることが知れた。


 言い合っている妹と騎士を横目に、セイルは自分の身体へと意識を集中させる。


ぞ、テオ。あとは頼む」

(もちろんだとも、親友)


 普段は均一に手足まで巡る魔力を集め、胸のあたりに押し込める。


「……ッ」


 髪が漆黒を帯びて背中へと流れ落ち、爪先が押し出されるようにして伸びていく。友の身体を彩っていたのと同じ群青色が、翼と鱗となって異形を象った。


 大きく心臓が脈打つと共に、意識の奥からもうひとりの自分が顔を出す。



「――手荒なデートになりそうだな、こりゃ」





 高揚感。

 竜人に“成った”感覚を一言で表すのなら、その言葉が適しているだろう。


 くまなく身体を巡る魔力を感じながら気分よく笑んでいたセイルに、朗らかな声が話しかけた。


(やあ、世に恐れられし“竜人”殿。調子はどうだい?)

「絶好調。湖のそばってのは気に入らねえがな――よっと」


 翼を一度羽ばたかせ、セイルは宙へと浮き上がる。水面に波紋が広がったが、すぐに鏡面のように静まった。


 この翼は鳥のように、常忙しく羽ばたかせる代物しろものではない。急な方向転換や加減速の際、少しだけ動かしてやるだけで十分なのである。


「ちょっとお兄ちゃん、何とか言ってよ! この人、頑固すぎっ!」

「君も淑女の心得があるならば、もっと大人しく――待て貴様、いつの間に竜人に!?」


 悲しいかな、観客たちはこちらの華麗なる変身を見逃したようだった。突如姿を変えたセイルに驚き、騎士は琥珀色の瞳を迷わせている。苦しむ主君の助けとなるか、ふたたび現れた狼藉者を捕らえるべきか――そんな逡巡しゅんじゅんが見えた。


 その刹那の間に行動を起こしたのは、半身を異形姿に変えた王女だった。


「があぁっ!」


 鋭利な白い爪を振り上げ、臣下の背に襲いかかる――わけではなく、彼女はくるりと方向転換すると暗い森へと駆け出した。


「……ッ!」


 数歩駆けたところで、彼女は飛び方を思いついたらしい。白い翼をぎこちなく震わせると全身がふわりと浮き、透明な階段を駆け上がるかのごとく宙を踏んだ。


 突っ込むようにして木立の間に消えた主君に、護衛の叫びが虚しく追従する。


「お待ちください、姫様ッ!」

「走って追いかけるつもりかよ。ったく、お元気な騎士さまだな」

「なんだと、貴様――!」


 水を跳ね上げて走り出した鎧青年を見下ろしつつ、セイルは滑るように空中を進む。悔しそうな護衛の表情を見とめると、口の端を持ち上げて告げた。

 

「お前の姫さんは必ず連れてきてやる。だからここで、良い子で待ってな」 

「俺は彼女の護衛だ、任せられるか!」

「竜人の対処にゃ竜人だろ。ただのヒトに、“アレ”が捕まえられんのか?」


 セイルの忠告に重なったのは、重量物がぶつかり合うような大音響。ほぼ同時に、暗い森がにわかに騒がしくなる。それは寝ていたはずの鳥や小動物たちが一斉に起き出す音だった。


 その有り様を目撃し、ヒトの護衛はさらなる渋面じゅうめんを浮かべる。


「……っ、傷つけるのは許さん。あれは、彼女の本心ではないのだ」

「わかってるさ。約束する」


 セイルの言葉に、疾走を続けつつもリクスンはその速度を徐々に落としていく。城の頂上からの落下に、湖への潜水――ヒトにしては、十分な健闘をしたと言っていいだろう。

 

 しかし彼は足を止めず、声を張り上げた。


「心ない言葉を向けることも許さん! 貴様と違って、非常に繊細なお方なのだ」

「へいへい」

「もちろん王家の淑女であるからして、丁重な扱いを心がけろ! 不必要な接触は、断じて認めんッ」

「わーったよ。騎士っつーより、過保護な親父みたいな奴だな」

「それから、森の中には毒虫や蛇も多く生息している! 城暮らしである姫さまのお肌がどんな反応を示されるか予想できん。決して小さな虫ひとつ近づかぬよう――」

「……訂正させてくれ。立派なお母さんだよ、お前は」


 大声を出すことで疾走のための息が底をついたのか、リクスンはようやく足を止めた。セイルはやれやれとツノ頭を振り、後続の人物へと声を投げる。


「エルシー、“アレ”の用意はできるか?」

「ええ、大丈夫だと思う! 水で濡れちゃったから少し時間はかかるけど、火の精霊に協力してもらうわ」


 頼もしい返事をした妹が、軽やかに騎士を追い抜いていく。まるで水上を走っているかのような速度だが、実際にこの湖の精霊たちの加護を得てそれに近いことをしているのだからなんとも面白い。


「俺が姫さんを捕まえる。その隙に頼むぞ」

「任せておいて! ……お兄ちゃん、あんまり調子乗っちゃだめよ?」

「そりゃ保証できねえなあ。なんたって今の俺は大悪党、“竜人”さまだ」

「それでもダメ。相手は王女さまなのよ? 芽を出したばかりの樹よりも優しくしてあげなくちゃ」

「はいよ。じゃ、また後でな!」



 只人たちに軽く手を挙げる頃には、竜人は暗い森へと突入を果たしていた。


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