1−8 主な仕事は兄の通訳です
「――ちゃん、――お兄ちゃんっ!!」
甲高いその声が自分の妹のものだと理解した瞬間、青年の頬に鋭い痛みが走る。
「!」
おそらく彼女の秘儀であるビンタだろう。しかしまぶたは重く、意識もまだ身体に馴染んでいない。
「もう、起きてってば! 状況がややこしいんだから!」
ぱん、ぱぁんと高らかな音を響かせ、痛みは頬を往復した。さすがに目を開けた青年――セイルは、腹に馬乗りになり手を振りかぶっている家族に訴える。
「ッ……痛い。エルシー、もう起きている」
「あ。ごめん、いつから?」
「2発目から」
頬を掻いて「あらら」と小さくこぼした少女は、ひらりと身軽な動作で横へ飛び退く。
「!」
柔らかな水草に手をつき身を起こしたセイルは、自分を取り囲む人物の多さにぎょっとした。
「やっと起きたか、賊め」
「あ、あの、大丈夫ですか……?」
「姫様、お退がり下さい!」
「大丈夫よ。うちの兄貴は子猫みたいに大人しいんだから」
「信用できるかッ!」
吠えるように言った騎士らしき鎧男。とある人物の話によれば彼はセイルより年上で成人しているというが、今は落ち着きのかけらもなく警戒だけを露わにしている。
では、そんな彼の背後に匿われている細身の少女は――
「……“モグラ姫”」
「え、えっと……。はい」
「モグラというより、その髪は……“カラス”だな」
「あ……! た、たしかに」
真剣に意見したセイルに、王女もハッとした顔でうなずいた。そんな気の抜けた挨拶に割り込んできたのは当然、彼女の側付騎士である。
「無礼な! 大体、貴様も先ほどまでは同じ髪色だったではないか」
そう指摘しつつも、騎士はセイルを見下ろして不可解だという表情を浮かべている。
それもそのはずだろう――今の自分の濡れた頭は、群青色をしているのだ。どちらも暗い色とはいえ、とても珍しい“黒髪”とは見間違うはずもない。
しばし降りた静寂を破って次の問いを仕掛けたのは、意外にも王女だった。
「ほ、本当に……先ほどのお方、なのですか……? そ、その、雰囲気も……ずいぶん、違う気が」
「……」
「もう。王女様が訊いてるのに、お兄ちゃんてば。ごめんなさい、兄は口下手で」
長い尾を引く頭を優雅に傾け、妹はいつもと変わらぬ元気な声で告げる。
「あなたを“お
「……!」
「あたしは妹のエルシー・ホワード。弓と精霊を扱いますが、主な仕事は兄の通訳です」
「お前……」
軽く睨むも、妹は「本当のことでしょ」と小さく鼻を鳴らす。しかし彼女の丁寧な挨拶は、城の者たちにきちんと届いたらしい。
「わ、私は、フィールーン・シェラハ・ゴブリュードです。お、王女です」
「姫様っ!」
「お、お話するなら、お名前を知らないと不便でしょう? 良ければリン、貴方も……」
泥だらけの顔で騎士を見上げる少女を、セイルはじっと観察した。
「王女……」
仏頂面の護衛をなだめている彼女は、正直に言ってとても王女には見えない。
侍女姿というのもあるが水草が絡まった黒髪は素朴で、毎日不自由なく食べられる身にしては細すぎる。腰も低すぎるほどに低い。
王女が話し込んでいる間に、セイルは誰の姿もない虚空へ小さな声を向けた。
「……間違いないんだろうな、テオ」
(ああ、もちろんだとも。もう17歳とはねえ。本当に、お美しくなった)
「そうか……?」
しみじみと述べる心の声に、セイルは太い眉を寄せる。そうしている内に、ついに折れたらしい騎士が逞しい腕を組んでぼそりと呟いた。
「……リクスン・ライトグレンだ。王国近衛騎士ならびに、王女フィールーン様の
「あーあ、やっぱそうなの。なんか、思ってた“騎士さま”とはちょっと違うかも」
「どういう意味だ!」
エルシーの不敬な発言に、リクスンが不服そうな表情を浮かべる。慌てて彼の後ろから、ひょこと黒髪が覗いた。
「あ、あの! おふたりは、どうして城に……?」
「友の頼みで、お前を連れ出しに来た」
「ふん、ものは言いようだな。拐いに来たと訂正すべきではないのか?」
リクスンが皮肉たっぷりに言い返すのを見、セイルは自身の行動を振り返った。
「紹介状はなかったから、城には勝手に入った。王女を探したが、突入してきた“奴ら”に横取りされた。奪い返したが正門には護衛が集まっていたから、そのまま屋上から飛ぶことにした」
「……」
事実を淡々と伝えると、わずかな審議時間を置いて護衛が身を乗り出す。
「やはり一点の曇りもなき誘拐行為ではないか! そこに直れ、不届き者ッ!」
「り、リンっ! 落ち着いてください」
「どうして奴らを
腕にしがみついてくる王女に、リクスンは歯痒さからかほとんど呻くように訊いた。そんな騎士の護衛対象は空色の瞳を歪め、たどたどしい言葉で答える。
「か、彼らは……悪い人では、ないと思います」
「
「誘拐にしては暴力や、ね、眠り薬も使われていません……。誘拐を失敗と見なすなら、口封じのために湖に落とすことも、できたはず……」
「うッ!」
「そして最後は、護衛の貴方さえ助けました。あ、悪人のすることでしょうか?」
「それは……」
その点は自らも疑問に思っていたのだろう、騎士の肩が明らかに強張る。狼狽する王女の姿しかまだ目にしたことのないセイルは、筋が通った説明をしてみせる彼女に少し驚いた。
「そ、それに……これまで彼は何度も、“テオ”と。彼の“誓いの
「なっ――!」
セイルにとっては馴染みのある名が飛び出すが、騎士には衝撃そのものだったらしい。抗議するようにその口が開かれるのを見、隣から緑色の影が躍り出る。
「あー、ちょっと待って! その話はけっこう複雑なの。できれば落ち着いたところで、じっくりと――」
「テオ……“テオギス・ヴァンロード”は、オレの友だ」
「お兄ちゃんっ!」
騎士に負けないほど渋い顔をして空を仰いだ妹を横目に、セイルははっきりと主張する。
王女の顔が一瞬固まり――そして、興奮と歓喜に輝きはじめた。
「よかった! テオさま……い、偉大な“竜の賢者”は、ご無事なのですね!」
「本当か!? “あの時”以来、どこにもお姿を確認できずにいたというのに!」
先ほどまでの険しい表情をかなぐり捨て、リクスンもまた主君に劣らぬ熱っぽさを見せる。近くに竜の巨体が見えはしないかと、暗い森に目を走らせてさえいた。
焦らすつもりもないセイルは、2人を見据えて事実を告げる。
「ああ。一緒に連れてきている」
「お、お会いしたいです! 私、たくさんお話ししたいことが」
「俺もだ! 彼には幼い頃から、大変世話になっている」
「そうか。なら話せ」
「えっ?」
期待に満ちた王女の顔が、きょとんと呆ける。セイルは妹からいつも「言葉が足りない」と指摘されることを思い出した。
「話したいことを、オレに話せ。それでテオに伝わる」
「え……ど、どういう……?」
「貴様、何を言っている! 姫様は、テオギス殿と直接お言葉を交わすことをお望みなのだ。勿体ぶってないで、早く会わせんか」
「会うのは無理だ」
「!」
王女の細面に悲痛な表情が広がる。しかし彼女は胸を押さえて訊いた。
「セイル……さん。お、教えてください。賢者さまは、今……?」
静まりかえった聞き手たちを前に、青年は己の胸を指差して告げた。
「あいつは死んだ。オレに――自分のすべてを預けて」
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