1−6 連れてこいと仰るんでしょう


「ぷはっ!」


 空気がこんなにも美味いと感じたことはない。

 王女フィールーンは鉛のように重くなった侍女服の腕を伸ばし、ぬかるんだ湖のへりに縋りついた。


「はあ、はぁっ……!」


 湿った草と土の匂いに、自然と涙が湧き上がる――生きているのだ。

 続いて自分の背を力強く押し上げつつ、見慣れた顔が隣に現れた。


「ひ……姫、さま……っ! ご無事、ですか」

「リクスン! あ、貴方こそ無事で」


 自分の護衛を務める騎士は、水を滴らせた金髪の下で悔しそうに眉を寄せる。泥ごと水草を握りしめ、青年は絞り出すようにして詫びた。


「俺のことなど……。申し訳ありません、無様を晒しました」

「い、いいえ」

「たったひとりの姫君を、このような恐ろしい目に遭わせてしまうとは……! 近衛騎士の名折れです。陛下や義兄上あにうえに合わせる顔もありません」

「そんなこと! あの、き、来てくれて……嬉しかったです」


 王女としてはもっと威厳ある態度を取るべきなのだろう。しかしそれがいつも自分には難しい。書物や絵画とばかり語らってきた17年の人生において、あまりにもその機会は少なかった。


「あ、あのお方は……?」

「……まさか、あの賊のことを仰っているのですか? 貴女が案ずることなど!」

「け、けれど」


 リクスンの憤慨はもちろん理解できる。しかしフィールーンは勇気を出して彼の琥珀色の瞳を見つめ、訴えかけた。


 思い出すのは、暗い水中で垣間見た侵入者の蒼白な顔。


「彼は、その……水を、怖がっていたようでした」

「……たしかに湖に突入した途端、様子が一変していましたが」


 実直な護衛と意見が一致し、胸を撫でおろす。王女は月明かりに踊る水草の陰をぐるりと見回したが、他に人が這い出したようなぬかるみは発見できなかった。


「溺れて、しまったんでしょうか……?」

「わかりません。湖底で奴の魔法が弾けたあと、俺は重石を外して貴女を引き上げるので精一杯でした」


 護衛の選択は正しい。だというのに、フィールーンは身体の奥からはじまった震えが全身に広がっていくのを感じ、うつむいた。


「……リン。あの」

「奴を連れてこいと仰るんでしょう?」

「! え、えっと」


 また上手く言葉が出ない。情けない気持ちで顔を上げると、そこで自分を待っていたのは諦めを滲ませた苦笑だった。


「俺が何年、貴女にお仕えしていると思っているのです」

「よ、四年……です。四年と五ヶ月、今日で十六日目」


 問いに対しもっとも正確な解を示したはずなのに、これがさらに彼の微笑を誘ったらしい。


「そんなにお仕えしても、まだ正式な命令ひとつ下さったこともない。貴女はまた、“迷惑じゃなければ”なんてひと言を付け加えるのでしょう」

「だ、だって……!」

「だからこそ俺は――どんな小さなものであれ――貴女の願いを聞き逃すわけにはいかないんです」

「リン……」


 白い歯を覗かせて笑う側付そばつき。その顔にはフィールーンの前に初めて現れた少年騎士が有していたのと同じ、澄んだ瞳が揃っている。


 その輝きに、白刃のような鋭い光を重ねて護衛は唸った。


「奴には訊きたいことが山ほどあります。貴女への狼藉も、必ず償わせないと。それに……」

「は、はい」

「無礼ながら、貴女にも問いを向ける必要があります――何故そのような侍女服をお召しになっているのか、など」

「! こ、これはその」


 フィールーンが慌て出す前に、律儀な青年ははっきりとした声で告げた。


「それはまた後ほど。まずは行って参ります」

「き、気をつけて!」


 今度ばかりは、なんとか喉が仕事を果たした。若き騎士はぐっと親指を立て、再び水中へと沈む。金の揺らめきは、あっという間に黒い水に呑まれていった。


「よい、しょ……」


 水の鎧と化した侍女服のスカートを引きずり、フィールーンはなんとか湖から脱する。


「あっ」


 額に張りついた長い前髪を掻き上げたあとで、手が泥だらけであることに気づいた。相変わらず、自分の要領の悪さには虚しくなる。


「……」


 水が縁に打ち寄せるかすかな音の他に、動くものはない。その静寂に不安が膨らみを増していく。


「お願い……!」


 気づけば漏らしていた願いに反応を示したのは、ぴょんと手の甲に乗ってきた蛙だ。普通の女ならば、悲鳴を上げてひっくり返る場面だろう。しかしフィールーンは、空色の瞳を瞬かせて笑んだ。


「“サカズキガエル”!? ほ、本物だ、初めて見たっ……!」


 色白の手が興奮に震えたが、肝が据わっているのか小さな生物はのんびりと喉を鳴らしている。王女は頬に泥が付着することも忘れ、黒髪を耳にかけて顔を近づけた。


「図鑑では、背中の模様が国章である“絆の杯”と酷似していると……本当だ、とっても綺麗です! 今は産卵期ですか? あなたたちの歌声はいつも、私の書庫塔まで届くんですよ。それを聴いた日は、よく眠れて――」


 今までの吃音が嘘のように流暢な舌を振るう王女。それでも蛙は大した興味を示さない。黄色い目玉には、見事な星空が映り込むだけだった。


 その小さな神秘に見入っていたフィールーンの背に、突然声が落ちる。


「あら? “モグラ姫”じゃなくて、“カエル姫”だったの」

「っ!?」


 今度は身体中を使って飛び上がることになり、小さな来訪者は不機嫌そうに跳ねて水草の合間に消えた。


 フィールーンは息をするのも忘れ、泥の中から新たな人物を見上げる。



「あ、あなたは……?」

「こんばんは。王女様」


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