1−5 突っ込むぞ!

「リンっ――!!」


 質素な侍女服に包まれた細い背が、放たれた矢のごとく驚異的な速さで小さくなっていく。


 すかさず青年の心中に、叱咤と嘆願が混ざった声が飛んだ。


(セイル!)

「くそっ、わかったよ!」


 セイルは翼を翻し、回収すべき対象人物たちを見据える。そこからは、夜空を駆ける流れ星よりも速く宙をはしった。


「よお! 意外と無鉄砲なんだな、王女ってのは」


 最高速度で飛び、竜人は難なく王女に追いつく。その細腰に腕を回すと、ふたたび柔肌を己のほうへと抱き寄せた。


 強烈な風と恐怖に涙ぐみながらも、王女は驚くほど強い意思を露わにして抗議する。


「は、離してっ――!」

「お前の部下も回収してやるから、黙ってろ。舌噛むぞ」

「!」


 忠告する間にも速度を上げ、侵入者はあっという間に次なる目標物へと迫る。

 こちらに気づいた騎士が顔に驚きを浮かべるが、すぐに威勢の良い声を張り上げた。


「貴様ッ! なぜ落ちている!」

「お前を拾うためだろうが、考えナシの馬鹿野郎! 大人しくし、てっ――!?」


 空いている手で雑に騎士のグリーヴを掴むも、竜人の身体はがくんと大きく傾く。


「ぐぁっ――お……重ッ! て、てめえなんでそんなに」


 想定していたよりも重量を持ったヒトに驚きつつ、握る手にさらなる力を込める。ガリリと音を立てて爪が鎧を削るも、それでも落下の速度がわずかに緩まっただけだ。


「離さんか、賊! 俺は身体中に、修練用の重石おもしをつけているのだ!」

「はあぁ!? 鎧よりも先に取っとけよ、ンなもん!」

「悪いが一切忘れていた! 習慣なのでな!」


 呆れなど入る余地もない明快な理由を叩きつけられ、セイルは鱗に彩られた頬をひきつらせた。しかしすぐに唇を引き結ぶと、渾身の力を腕と翼に込めて重力への抵抗を試みる。


「ふん、ぬあぁーっ!! くっそ、重てえぇ!」

「女性に対して失言が過ぎるぞ、無礼者!」

「わ、私、重いですか!? ですよね、すす、すみませんっ。あまり運動、してなくて」

「どっちも、黙って、やがれッ――!」


 会話の歯車を噛み合わせてやる余裕はない。

 着々と近づく黒い湖面を見ると、竜人の顔から血の気が引いた。


(ここまで勢いがついていると、さすがに持ち上げるのは無理そうだね。セイル、防御壁で全員を覆えるかい?)


 飛びそうになる思考にとって、その冷静な声はありがたいものだった。セイルは小さく頷き、友に答える。


「そりゃできるが――どっちみち俺は、じゃ……!」

(大丈夫だ、森からエルシーも見ている。君は腕の中の者たちを衝撃から守るんだ)

「くっ――!」


 上空へ戻るのを諦めて衝撃緩和の体勢に移行しつつ、セイルは腕を軋ませて一番の重量物を引き上げた。


「なっ……!」

「姫さんのアタマ押さえて、小さくなってろ」


 リクスンは怪訝な表情になったが、危機下での判断は早いらしい。騎士は律儀に「失礼」と断って主君を抱き止め、黒髪にしっかりと手を置いた。


 それを確認し、セイルは王女の細い背と騎士の逞しい背に両手を回す。


「全員、俺の翼から出んなよ」

「うむ! それで?」

「あー……あとは、特にねえ。祈ってろ、神とかに」

「む、無信仰なのですが……」

「俺も、心を捧げるのは王家のみだ」

「ああもう、うるせえな! 各自工夫しろ、工夫!」


 その通達に、王女は何やら古代語でぶつぶつと祈りのようなものを捧げ始めた。騎士はというと、ただ眉間にシワを寄せて目を閉じ唸っている。


 呑気とも思えるヒトたちをセイルが翼で覆うと、まるで大きな卵のような形になった。


「あとは頼んだ、エルシー!」


 湖に沿うように広がる暗い森へ一言を投げ、セイルはありったけの魔力でふたたび防御壁を創りあげた。


「突っ込むぞ!」

「ッ――!!」


 警告と共に防御壁ごと着水を果たすと、一瞬にして星空が暗い水の色に塗り潰される。


「す、すごい……!」


 護衛の腕の中でなんとか頭を持ち上げた王女がそう呟くのを聞き、セイルは肺に留めていた息を吐く。


「はー……」


 心中の“友”の助言通り、防御壁は湖面との衝突で散るはずだった自分たちの命を守ったようだ。


 しかし危機はまだ続いている。投げ入れられた小石のごとく、一同は湖底へと落下し続けていた。やがて痺れを切らしたらしい騎士が声を張り上げる。


「賊! 止まらんようだが、これからどうするのだ」

「……」


 セイルは答えない。淡く輝く球体に沿って上昇する泡と、驚いたように避ける魚たちだけが時間の経過を教えてくれた。


 黙り込んだ自分に不安を感じたのだろう。王女フィールーンも空色の瞳でこちらを見上げる。


「だ、大丈夫……ですか? 顔色が」


 竜人はひとり、ヒト離れした金色の双眸を暗い水中へと向けていた。今や誰の目にも、その顔が青ざめているのは明白である。


「お、おい貴様! 魔法が揺らいでいるぞ!? まさか」 


 騎士の叫びを聞かずとも、セイルは自分の魔法がまもなく消え去ろうとするのを感じていた。


「……ッ」


 正気を保てと己を叱咤するも、すぐそばで渦巻く水のことを考えるとさらに四肢から力が抜けていく。


 血の気を無くした唇の隙間から、独りでに震える声が漏れた。


「ごめんな……」



 残酷なほどに冷たい水。

 自分たちに敵意を向ける、いくつもの影。

 揺らめく赤。

 最初は一筋だったぬるい赤色は、やがて全身を包んでいく。


 最後に広がるのはいつも通りの、赤、赤、赤――。



(セイル――もういいんだ。よく頑張った)


 心に浮かんだその色を押し流すような、静かな労いが耳を打つ。

 それでも竜人は、同じ呟きを落とした。


「俺が悪かったんだ……ごめん」

(君は悪くない。さあ、目を閉じて。もうすぐ妹が迎えにきてくれる)


 心の声に導かれるまま、竜人は目を閉じる。

 

 

 短い悲鳴が2つほど耳を掠めた気がしたが、セイルの意識は銀色の泡のように弾けていった。 



***


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