ペンキのついた赤い靴

ろくなみの

ペンキのついた赤い靴

 あるところに、キヨミ先生という、幼稚園の先生がいました。

 キヨミ先生はお片付けやそうじに人一倍うるさく、汚れ一つ許しません。

「ほらここ! 散らかってる!」

「どうしたのそんなに汚して! どこで遊んできたの!」

 キヨミ先生のその口うるささを、悪く思う子どもたちは少なくありません。

 みんな、キヨミ先生が近づくと、まるで節分の豆まきでやってくる鬼を見るように一斉に逃げてしまいます。

「せんせいなんてきらい!」

「ちょっとくらい、べつにいいじゃん!」

「せんせいなんてやめちゃえ! きれい好きなんて最悪!」

 子どもたちの言葉は、時として先生の胸をひどく傷つけることがあります。

 子どもたちが汚した床を拭きながら、深いため息をつきました。

 ただ、先生を支えてくれるただ一人の園児がいました。

「アンズちゃんは今日もえらいね。一人でお片付けしてくれて」

 他の子の散らばしたおもちゃ、こぼしたお茶。それを全て誰よりも率先してくれるアンズちゃんは、キヨミ先生のパートナーのようでした。

 キヨミ先生はあくまで先生です。一人の子供をひいきするわけにはいきません。

 だけどつい、アンズちゃんには笑顔を見せていました。

 しかしある休み明けのことです。

 規則正しいアンズちゃんは、今日も一番乗りで幼稚園にやってきました。

「おはようアンズちゃん! いつも早いね……って、あれ?」

 キヨミ先生は異変に気づきました。

 毎日清潔感あふれるアンズちゃんの顔に、落書きされたような赤や青の色がこびりついていたのです。

 顔だけではありません。それは服にも。靴にも。工作をするときに繊細な動きをする小さな指先にもこびりついていました。

 いつものアンズちゃんなら、ありえないことでした。

「……なんでそんなに汚れているの?」

 こんなことは怒る理由にはなりません。別に園内を汚しているわけではないのですから。けれど、どこか裏切られたような気分のキヨミ先生は、つい、ほんの少しだけ怖い顔でそう理由を尋ねてしまったのです。

 なんで。その言葉は時として人の心を追い詰めます。

 アンズちゃんは、おそらく入園して初めて、目に涙を浮かべました。アンズちゃんもまた、何かに裏切られたような気分だったのでしょう。

 アンズちゃんはペンキのついた靴を履きなおし、先生に背を向けると一目散に駆け出しました。

「ちょっと待って!」

 先生が後を追いかけようと外へ出るころには、アンズちゃんは正門を出た後でした。


 アンズちゃんはそのまま近くのバス停まで走りました。バスはまるでアンズちゃんを待ってたかのようにちょうどいいタイミングでやってきました。アンズちゃんは慣れた様子でバスの中へ入り、後ろから二番目の窓際の席へ座りました。

 幼稚園から逃げたにも関わらず、アンズちゃんはどこかわくわくしているように、足をパタパタさせたまま窓の外の景色を見つめていました。

 月曜日のこんな時間に、バスに好き好んで乗る人は少なく、今もお客さんはアンズちゃん一人でした。

 すると次のバス停で、バスが止まりました。お客がバス停に立っていたのでしょう。バスの入り口から息を切らしながら乗ってきたのは、キヨミ先生でした。

 キヨミ先生は辺りをきょろきょろと見渡します。アンズちゃんは心臓がバクバクとなるのを感じながら、ばれないように体を小さくして、足元のところへ隠れました。靴に顔を近づけたため、ペンキの臭いがしました。

しかし近くまで歩いてきた先生に、姿を見られてしまいました。

「……はあ……はあ」

 喋る余裕がなかったのか。はたまたかける言葉が見つからなかったのか。キヨミ先生はそのままアンズちゃんの隣の席に座りました。

 気づいてないのだろうかとアンズちゃんは恐る恐る顔をあげ、先生の方を見てみると、先生はアンズちゃんを一瞥すると窓の外へと視線を送りました。

 幼稚園に連れ戻そうとしたわけじゃないとわかると、アンズちゃんはホッと胸をなでおろし、背中の汗が引いていくのを感じました。そのまま椅子に座り、さっきまでと同じように窓の外を見つめました。

「私、幼稚園休んだからね」

 アンズちゃんは、先生の少しだけ低く、ぶっきらぼうな言葉にぎょっとしました。

 アンズちゃんは、先生も風邪か何かで休むことがあった時、驚いたことがありましたが、今回はどう見ても風邪じゃありません。

 なんで休んだのか。それを尋ねようにも言葉が出てきません。言葉を頭で探している間に先生は口を開きました。

「どこで降りるの?」

 

 アンズちゃんがキヨミ先生の問いかけを聞くと、おびえた顔が少しだけ和らぎました。

アンズちゃんが答える前に、バスの次の停車場所のアナウンスが流れました。

 それを聞くとアンズちゃんは先生の問いかけに答えずに、次、止まりますボタンを座席の上に膝立ちになって押しました。

 二人でバスを降りると、そこには今は使われていない廃倉庫があるだけでした。

 アンズちゃんは足早にその倉庫の中へと入っていきます。先生も小走りで追いかけます。

 倉庫の裏手に回ると、辺りにはペンキの入った大きな缶詰のようなものが先生の行く手を阻むように置かれていました。そしてその中に入ったハケを使って、アンズちゃんは迷うことなく倉庫の壁をベタベタと塗っていきました。

 先生はその様子をじっと見つめていました。叱ったり、何かを教えることはありません。

これは、幼稚園の行事でないし、そもそも今日は休みの届けを出しているため、仕事をする必要がないからです。

 その乱雑に塗られていく壁の赤や白、黄色の色に、しばらく先生は見惚れていました。

 すると、アンズちゃんはハケをアスファルトの上に投げ捨てました。ペンキの塗料が稲妻のように地面にこびりつきます。その後アンズちゃんは手をペンキの入れ物の中にまるで宝物を見つけたかのようにつっこみました。べたべたに黄色く塗られたアンズちゃんの手が入れ物から出てきます。ぽたぽたと滴り落ちるペンキを、アンズちゃんはにこにこと見つめます。するとアンズちゃんは振り返り、先生の方を見て、微笑みかけました。

 普段無口なアンズちゃんですが、まるでこう語りかけてくるかのようでした。

『おなじこと、できる?』

 もちろんそんなことを普段口にする子じゃありません。けれどそのように挑発されたように感じた先生は、ペンキの入れ物に恐る恐る近寄ります。

 指先をそっとペンキの中に浸します。少しだけ不快な生暖かさに、背筋がぞわりとしました。けれど、アンズちゃんは、これを手全体につけたのです。

 それがなんだか悔しかったのか、息を吸って右手全体をペンキの入れ物に突っ込みました。

 待っていたと言わんばかりにアンズちゃんは、先生がペンキをつけたのを確認すると、倉庫の壁に再び向かいました。ベタベタとなんども手形をつけたり、手形を重ねて何かの模様にしたり、それを囲んでまるで絵の額縁のようにしたり。まるでアンズちゃんの頭の世界をそこに映し出しているようでした。

 先生もそれに負けじと手をべたべたと壁にすりつけます。その間にアンズちゃんは、ペンキまみれの手でハケを握り、ペンキの入れ物にジャブンと軽快な音を立てて、ひたします。飛び散ったペンキがアンズちゃんの顔につきますが、全く気にしていません。

アンズちゃんは、そのハケを思い切りまだ何も塗られていない壁に向かって魔法の杖のように一振りしました。すると、壁にペンキのしぶきをかかります。まるで夜空の星が瞬くようにペンキの点々が広がりました。

きれいだね、とか。いいね、とか。そういう言葉をかける間もなく、先生は

「それ、私もする」

 と言いました。

 そのまま二人は、服も靴も腕も顔も、手の爪の先までべたべたになりながら一日中そう婚壁をペンキで塗り続けました。

 先生は休日にアンズちゃんがどうしてここでペンキを使ったのかとか、やってみてどうだったのかとか、そんな感想を尋ねる気にはなりませんでした。

 お互いに横並びになり、倉庫の壁にもたれ、日の傾いたオレンジ色の空をぼんやりと見つめます。首が疲れた先生は、ふと自分の靴を見てみました。黒かったスニーカーは、赤や白や黄色のペンキでべたべたです。

 隣に座るアンズちゃんは、足を先生の方にそっと寄せました。朝の時より激しくペンキがこびりついてます。

「きれいでしょ」

 今日初めてアンズちゃんは口を開きました。先生はアンズちゃんの宝石の何倍も輝いて見えるペンキで汚れた赤い靴を見つめると、こう言いました。

「私の方がきれいだし」

 先生がそう言うとアンズちゃんはくすくすと笑いながら足首を左右にパタパタと揺らしました。

「ペンキの汚れの除け方、知ってる?」

 先生の言葉にアンズちゃんは首を横に振ります。

「じゃあ、今度は私が教える番だね」

 夕日が傾き、倉庫も、二人の顔もオレンジ色に照らされます。

 暗くなる前に帰らなければと思い、アンズちゃんの手を引き、先生はもとのバス停へと歩きだしました。

 けれど、途中で先生は立ち止まりました。

まるで何かに呼ばれたかのように振り返ると、二人のペンキで彩られた、倉庫の壁や草花、アスファルトの輝きがどうにも愛おしく思えてきたのです。

そのまま二人は手を握ったまま、足を動かすのもおっくうになり、日が沈み、暗くなるまで、ただじっと、壁の絵を見つめていました。

                                おわり

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