初恋にかける

水白

第1話


 走れ、走れ走れ走れ!

 足元は走ることを全く考慮していないヒールのついたサンダル。背中にはそこそこに重いリュック。美容院に行くのをめんどくさがって、伸ばしっぱなしだった髪が酷く邪魔臭い。ネックレスのペンダントが一歩踏み出すたびに跳ね上がって顔に当たる。全力疾走なんて数年ぶりで、すぐに息が上がって足が縺れる。


 それでも懸命に前を向いて、腕を振って、ヒューヒューとなり始めた喉を叱咤して。次の電車が来てしまうまで、あと多分5分くらい。

 一度は何かの勘違いだと、忘れようと、動揺の中震える手を握りしめ、早足で通り過ぎた道をひたすらに駆け抜ける。

 蝉の声と落ちてくる汗が鬱陶しい。

 色鮮やかな朝顔の鉢をいくつも並べた家の前を過ぎて、黄色い帽子にワンピースで旗を持った女の子の人形が立つ横断歩道で一時停止。たらりと顎に垂れてくる汗を乱暴に袖で拭って時計に目をやれば、あと4分。


 もうなりふりかまっていられない。


 歩道の隅に鞄と散々自分を煩わせたサンダルを放り投げる。どうせ大したものなんか入っていない。軽いサンダルだけが予想より遠く飛んでしまい、水溜りに落っこちて綺麗な水しぶきを上げた。



 自分があの頃のようには走れないのは百も承知だ。身につけているのはユニフォームじゃないし、足元は履き慣れたシューズでもない。何キロだって息を乱さず走れた体力はとうの昔になくなってしまったし、オーバーワークだと呆れながら共に走ってくれたあの人が隣に立つ日は、多分もう2度とこない。全部全部、自分で失くしてしまった。


 それでも、諦めるわけにいかない。

 取り柄だった陸上を辞めたあの時。ユニフォームもスパイクも賞状もメダルも、友人と一緒に撮った写真もお揃いだったお守りも何もかもを捨てた。陸上関係の連絡先は全て消した。顧問とも大喧嘩した。そうして陸上と縁を切って、止まらない涙と酷い吐き気の中、ありもしないもしもをただ祈ったあの日の自分を裏切るわけにいかないのだ。



 雨上がりの晴れやかな晴天の下、もう一度スタートを切ろうとした瞬間。視界の端を、鮮やかな赤いユニフォームがかすめていった気がした。











「こらー、走りすぎだぞー。先生に今日はやめとけって言われなかったのかー。」

 自分以外に人のいないグラウンドの隅で唐突に声をかけられる。いかにもやる気なさげな声とは裏腹に、目だけは心配そうな色をたたえていた。

「……今日先生に会ってないんで。言われてないですよ。」

「会わなかったんじゃなくて会わないようにした、の間違いじゃないか?それ。ったく、大会まであと1週間もないんだから無理すんなって。」



 呆れた顔でバシッと強めに頭を叩かれる。そのままどさっと隣に座り込んで丸めていた参考書を開いてぶつぶつやり始めてしまい、これは逃げられないなと自主練を諦めた。

 隣に座り込んだ先輩が丸められていた参考書を開いて読み始める。靴紐を緩めつつ、気づかれないようにそっと横目で盗み見ると、表紙にはなんだかよくわからない奇妙なイラストとChemistryの文字。化学らしい。黙々と読みながら無意識に顎に手を当てる。集中しているときによくやっていたその癖はまだ治っていないらしく、変わらないな、とこっそり笑った。




 憧れの先輩だった。勉強も運動も人並み以上にできて、それを鼻にかけることもしない。スタイルが良くて誰にでも優しいので、いつも女子に囲まれてキャーキャー言われていた。バレンタインなんかのイベントごとでは特に。部室のロッカーにチョコが山と積まれて、他の先輩たちからのからかいまじりのやっかみを笑いながら受け流していた.

 同じ陸上部ではあったけど、種目が同じわけでもなく、いつも人に囲まれていて近寄り難かったせいで、入部当初は交流といった交流はほぼなかった。ただでさえインターハイ常連の先輩は少し近寄り難かった、というのもある。

 しかし、そこそこ大会の成績がいい後輩がいる、と気づいたらしい。次第によく話しかけてくるようになって、才能の無さを練習量でカバーしがちなのをいつも気にかけてくれた。




 正直に言ってしまえば、好きだった。すらりと高い背も、低く穏やかな声も、屈託のない人柄も、伸びやかなフォームも。

 スタート序盤からガンガン飛ばしていくタイプではなかったが、終盤に差し掛かった瞬間、圧倒的存在感を放ち始める選手だった。見ているこっちですら鳥肌が立つほどの。それまで先頭を走っていた選手の恐怖が手に取るようにわかった。重いのだ。一歩一歩が。軽いはずの足音が、死んでもお前の前に出るという気迫が込められると、周りの選手にひどく重いプレッシャーとなってのしかかるのをこの目で何度も見てきた。

そのくせゴールした後は拍子抜けするほどあっけらかんと喜んで、共に走った選手に健闘を称え合うべく話しかけにいくような人だったから、他校にも友人が多かった。

 夢に見るほど憧れた、ただ1人の選手だった。



 その先輩も、インターハイ3位という華々しい結果と共に引退。自分たちが部を引っぱる立場になって、初の大きな大会。その県予選がもうすぐに迫っていた。


 もし。もし、この予選で一位になれたら。少しでも先輩に近づけたなら。

 どうせ先輩はじきに卒業してしまうし、どうせはなから望みのかけらもない恋だ。最後にこの気持ちを伝えてもいいのではないだろうか。

 そんなことを考えてしまった。


「先輩。」

「…んー、んん?何?」


 一応聞いてはいるらしいが、視線はまだ参考書の文字を追いつつ、カチカチと胸ポケットから取り出したシャーペンを意味もなくノックしている。あからさまに興味なさげだが、面と向かって畏っても言いづらい。あまりこちらに意識を向けていない今が好機だ、と意を決して口を開く。


「週末の大会、見に来てくれませんか。」


 もし一位を取れたら、話したいことがあるのだと。自分の言葉がやけに響いた気がした。自分から何かお願いを言ったりしたことは一度もなかったし、ましてや試合を見にきて欲しいなど。引退の時に遊びに来てやるからと嘘泣きをする先輩を鬱陶しいと一刀両断したことすらあったのに。

 きょとんとした顔で数秒こちらを見つめた先輩は、それから嬉しそうに破顔して行けたら行ってやるよーなんてこちらを構い倒そうとしてきた。それをなんとかいなしつつとりあえず了承の意を得られたことにほっとして。明らかにただの可愛い後輩にじゃれるような態度に、脈がないのを再確認して少しばかり落ち込んだものの、後は大会で成績を残すことだ、と密かに気合を入れ直した。

 

 





でも





 あんなことになるとわかっていれば、口が裂けようと見に来て欲しいなんて言わなかったのに。



 


 大会当日。酷く天気が悪く、寒い秋の日だった。雷が数回なったこともあり、中止が危ぶまれたものの、無事に大会は終わった。悪天候にもかかわらず一位を獲得した上、大幅に自己ベストを更新した私に、顧問は大喜びだった。曰く、このタイムならばインターハイ入賞も夢ではないと。

 結局先輩が大会終了まで会場に現れることはなかったけれど、それでも嬉しかった。学校で先輩に会ったら、大会の結果を報告して、来てくれなかったことには少しばかり文句を言わせてもらおう。そして…………




 まぁ結果から言ってしまえば、大会が終わってから先輩に会うことは2度となかった。

大会後、学校をいくら探しても先輩が見つからずに痺れを切らし、顧問に尋ねてみたところ、だいぶ渋った後、教えてくれた。

 

 あの日先輩は事故にあっていた。ひどい雨風で視界が悪く、ハンドル操作を誤った乗用車と自転車で衝突。数日で意識は戻ったものの、右足にひどい怪我を負い、今までと同じように走ることは難しいと言われたそうだ。

 事故当日の朝、ひどい天気にも関わらず何処かへ向かおうとする先輩を、両親は引き止めたらしい。

 しかし先輩は一言、

「大事な約束があるから。」

そう言って。笑って出て行ってしまったそうだ。


 顧問が声を落としながら嘆く声がぼんやりと遠くに聞こえる。目の前が真っ暗に染まり始め、指の先が少しずつ冷えて感覚をなくしていく。

なるほどそうか。

先輩が学校にいなかったのは。 

もう2度と走れなくなったのは。

たった1人の憧れの未来が消え失せたのは。

「お前のせいだ。」

耳元で低く、冷たく。酷く聞き慣れた誰かの声が聞こえた。








 あの日から。

 私は陸上と名のつくもの全てを生活から排除した。先輩の脚を、未来を奪っておいて、自分だけのうのうと陸上を続けようなんて気は欠片もなかった。

 それまでの大会でそれなりに好成績を残していた自分に密かに期待していたらしい顧問とは、だいぶ揉めた。1ヶ月ほどの話し合いの末、やっと諦めてもらえたその日のうちに、今度は両親に転校したいと申し出た。通っていたのは一応陸上の名門校だったから、陸上を辞めた自分に、この学校にいる理由はなかった。抜け殻のように過ごしていた娘に突然転校したいと言われて非常に驚いていたが、理由を話せば、後悔しないかと何度も念を押した後、承諾してくれた。

 先輩のお見舞いにはどうしても行けなかった。今更どのツラ下げて会いに行けるというのか。まして告白など。

 結局先輩宛に謝罪の手紙をしたため、顧問に渡してくれるよう頼んで、私は学校を去った。






 1人の部屋で、床に座り込みながら段ボールから一つ一つ荷物を取り出す。どこに転校するか悩み、結局知り合いの誰1人いない遠く離れた県外の高校に決め、一人暮らしをすることにした。ほとんどの荷物は向こうで処分してきたので、今部屋にあるのは新しい高校で必要なものばかりだ。

 新品の教科書がやけに分厚くて少しばかりげんなりする。手に冷たいそれを何冊も本棚にならべていく。新しい教科書に新しい制服、運動着。何もかもよそよそしい気がしたが、唯一指定でない今までと同じ通学鞄だけが指に馴染んだ。それを手繰り寄せてぎゅっと握りしめると、カサリと何か軽い音が外側のポケットから聞こえた。ゴミが何か入れっぱなしだっただろうかと手を突っ込み、引っ張り出したのは何かの紙切れを何回か折ったもので。端に書いてあるのは何かのページ数だろうか。参考書か何かを破ったものであるらしい。ちらりと見えた化学式に、あの日の記憶がすごいスピードで蘇った。


 手が震えて、1度紙を取り落としてしまう。それはあの日先輩がこっそり入れていったのに違いなかった。先輩とは大会の前にあったのが最後なのだから。1回、2回と深呼吸して、なんとか心を落ち着かせようとする。目の前に転がった紙切れは、もともと変な形に破られているのが、よほど急いでいたのだろうか。さらに雑に折られていて、変な形をしていた。

 手の震えがおさまった頃、ゆっくり手を伸ばし、紙を開いていく。切れ端には、シャーペンで短く走り書きがされていた。


紫苑へ

待ってる




好きだよ





それだけ。


 たった二行に込められた信頼と秘められていた恋慕。

 最後の4文字だけやけに小さく荒い。相当な勇気を必要としたであろうことは想像に難くなかった。

 その気持ちを私は。



「……っぅ、う、ああああああああああああああっ」




 ぼたぼたと涙が顔を滑る。手の中の紙がぐしゃりと潰れた。口から意味のない音ばかりが漏れていく。


 何もかも置いてきてしまった。陸上への熱意も、今までの努力も、友情も。先輩の想いも。

もう一度会って、先輩に何か言われるかと思うと怖くて仕方がなかった。それでも私は向き合うべきだった。何を言われようがどう思われようが、逃げずに受け止めるべきだったのだ。それを怠った結果、先輩の想いを踏みにじってしまった。

待ってると、伝えてくれたのに。

でももう何もかも遅い。




 冷たい部屋で1人蹲り、止まらない涙をそのままに決意した。

 もしもまた先輩に会うことができたなら。その時は。絶対にこの想いを伝えてみせる。






 高校を卒業した私は、そのまま近くの大学に進学した。たまたま用事があり、朝早めに家を出て、いつものように駅のホームに足を踏み入れたその視線の先に。見覚えのありすぎる顔。右足にはサポーターらしきものをつけている。あの頃より少し痩せて、顔つきも大人っぽくなってはいるけれど。すらりと背の高い、整った顔立ち。間違いなく先輩だった。

(どうしてどうしてどうしてどうしてっ)

 動揺でどっと冷や汗が出る。あの時あんなに後悔したのに、会えたら絶対に伝えると誓ったのに、それでも恐怖で動けない。いつのまにか足は今きた道を戻り始める。もう相当駅から離れてしまった。

(何やってんだろ……自分。)

 道のど真ん中でしゃがみ込む。次の電車までもう時間もないし、この時間にあの場所にいたということは、それに乗って行ってしまうのだろう。結構な田舎のこの辺は電車の本数が多くない。

 多分もう間に合わない。そう思った瞬間に、安堵と、それを上回る後悔に苛まれた。

(やっぱり戻らないと……。でも、この距離を戻るのは……もしかするとただ似ているだけの人だったかもしれない)


「お姉ちゃん何してるの?」

「っえ」


 いきなり頭上から聞こえた幼い声に驚いて顔を上げる。小さな女の子。きちんと結ばれたおさげに、可愛い赤いワンピース。あの頃のユニフォームによく似た、鮮やかな深紅。


「どうかしたの?具合悪いの?」

「い…や、あはは、具合は大丈夫だよ。ちょっと、悩んでて……。」

「悩み?どんなの?」


 初対面の、しかもはるかに年下の女の子に何を、と思ったが、予想外に食いついてきた彼女に続ける。


「……ずっと会いたかった人がいるんだけど、いざ会うとなると、怖気付いて逃げてきちゃってね。戻るかどうか迷ってるんだ。」

女の子はこくこくと頷きながら聞いていたが、終わるや否や叫んだ。

「戻らないとダメだよ!ずっと会いたかったんでしょ?まなだったらぜったい後悔するもん!」

言いながらほら早く、とぐいぐい背中を押してくる。行動力と声の大きさに驚いたものの、そのひたむきな声と真剣な顔に、自然と足は走り出していた。

「お姉ちゃん、頑張ってー!」

まなちゃんの後ろからの声援に手だけ振って、振り返らず走った。



 そして今、駅はもう目の前。最後の気力を振り絞って、ホームに駆け込む。どうにか間に合った。大きく息を吸って、


先輩っ!」


 驚いたようにびくりと動いた頭がゆっくり振り返る。

 短く切っていた髪は長く伸びていて、うっすらと化粧をしている。

 ああ、随分と綺麗になった。


 驚いていた顔が私を認めた途端、あの頃と同じように勝気な笑顔を作る。


「遅いんだよ。どんだけ待ったと思ってんのバーカ。」


「美咲先輩、私、」


「ほら早く。言わなきゃいけないことあるでしょ?」


「私……私、ずっと美咲先輩のことが!」




 汗だくで、しかも裸足で。息が上がってうまく声も出なかったけど。

 それを聞いた先輩の笑顔を見てしまえば、もうそんなことどうでもいいと思えたのだった。

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初恋にかける 水白 @misiro75

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