【その男、「ウソツキ」】⑨
今から二年前のことである。六月十二日、夜。
とある国の閉鎖された遊園地に、京谷要と風見りんはいた。
一人は顔にピエロの
「あ、ははは、ははははは!」
笑い声を上げながら『道化師』はナイフをふるう。顔を引き、その
顔から汗の粒を飛ばしながら、上下を黒の服で固めた要は散弾銃を手に
二人から少し離れた所では、風見りんがレジャーシートを広げ、そこに座ってサンドイッチなんかをつまんでいる。その場所だけピクニックになっていた。
服が切り裂かれ、皮膚に赤い線が刻まれていく。その傷は
相手の方が実力は
それらを必死に避けながら、要は『情報屋』東條から聞いたことを頭に浮かべていた。
このあたりでは最近行方不明者が急に増えているらしい。すでに三十人以上が消え、その多くは少年と呼ばれる年頃の子たちだという。彼らが何をされ、どんな
『……とまあ、今回の相手はそんな感じだよ。連続殺人鬼というやつだね』
と、東條が言う。
『やれるかい?』
電話越しに東條が尋ねる。
「やるしかないよ。できなくてもね」
そう返すと、ペットボトルを傾けて中の水とともに吐き気を飲み込む。
『死なないようにね。床下に埋められるのは嫌だろう?』
「……そうだね」
ぼんやりと目線を前に向ける。すると勝手に頭の中に映像が浮かび上がってきた。丘の上にある小さな家だ。玄関の扉をすり抜け、リビングを通る。その一角、不自然に盛り上がった床下には大量の骨が埋められている。その全ては――
そこで要は落ちかけた意識を引っ張り戻し、途切れかけた集中を張り直す。そしてもう一度ペットボトルを傾けて水を流し込んだ。
『君が無事に帰ってくることを祈っているよ。気を付けてね』
「アカリ君と勝負をしてるからでしょ? よくやるよ」
『ははは。なんのことかな。
東條はそう言うと、あっさり通話を切った。
それから三十分後。要は『道化師』と対峙することとなる。
賭けが始まってから、何分が過ぎたのか。もしかしたらすでに一時間は経っているのかもしれない。攻めることもできないまま、疲労だけが
思う
相手の隙がない。銃を構える時間がない。相手の動きが早すぎて狙えない。
散弾銃の最大射程距離はだいたい二百から五百メートルほどだ。それでも要は
さらに言うなれば、要はこういう激しい戦闘はこれが初めてだった。対して
明らかに
攻められないことに要は苛立つ。苛立ちは焦りを生み、焦りは疲れを早める。そして、疲れは精神と肉体から余裕と冷静さを奪っていく。心臓が暴れ、息が上がって声も出せなくなっている。喉が渇き、
「ぐう……!」
ナイフが右足をかすった。要は思わず後ろにたたらを踏む。
ズボンにしみが浮かび上がる。今のは深い。ぱっくりと裂けた傷口を想像し、急いでそれを頭から消した。どの程度の傷か、確認する勇気はもちろんなかった。
「なんとも、彼の足元にも
と足を止めた『道化師』が言う。
「死亡後に本人が
『道化師』は言った。その顔には余裕と遊びが浮かんでいる。要を
「……」
要は肩で呼吸しながら、銃に弾を一発込めてコッキングする。二人の距離は五メートルほどか。十分当たる距離だ。
「おお
『道化師』は身を
要は息を吐き、集中して狙いを
『道化師』の体が、わずかに横にずれた。そのすぐあとに響く重い発砲音。火薬の匂いがあたりに立ち込める。
要に突っ込んでいく『道化師』の体が、地面に落ちた。
肩で呼吸しながら、要は三メートルほど先で倒れている『道化師』を見つめる。手ごたえはあった。即死かどうかは分からない。
そのとき。
「……が、あ、は、は」
と、声がした。倒れている『道化師』の方向からだった。
『道化師』の体が、むくりと起き上がった。頭の右上が吹き飛び、そこから濃厚なソースのような
要のこめかみから汗が流れ落ちる。人間を即死させる場合は確実に
『道化師』は右腕をなんとか動かし、自分の体に触れる。彼の傷口が見る見るうちにぶくぶくと
「……やれやれ、
言いながら、『道化師』が立ち上がる。衣装の汚れを手で
要は銃を構え直し、賭けの前に『道化師』が明かしたことを思い返す。
『道化師』エスター=ノートン=クラウン。彼の持つ能力は《触れた生き物の未来を改変させる》こと。対価は《道化師として一定の金を
「先程は
『道化師』は自分の頭を指さす。
「さあさあ、続きといきましょう。まだ勝負は終わっておりませんよ。相手を殺すか自分が死ぬか、それだけの勝負でございましょう? それで
両手を広げて『道化師』は言う。月明かりが彼を照らし、まるで主役を照らすスポットライトのようである。
「勝負のあとは映画でもどうでしょうか。
あなたと同じぐらいのお友達が、たくさん待っておりますよ」
『道化師』が笑いかけた。要はその笑みに
「賭けとは素晴らしい
「……」
そう。その通りだ、と要は思う。自分たちは
飽きたら簡単に死体へと戻され、それ
『道化師』が歩いてくる。無防備なようで、すぐ相手に対応できる警戒をまとって。
と、そんな要を見て『道化師』は言った。
「そうそう。そのように必死になっているそのお
「……なんだって?」
と、要はそれに返事をしてしまった。勝負に慣れている者ならば聞き流す挑発に、要は乗ってしまった。
「哀れでたまらないのですよ。あなたがね」
要を見る『道化師』が肩を揺らして笑い始める。耳をつく笑い声に、要の表情がわずかに動く。苛立ちと不快感をあらわにしていた。
「子猫が必死に
「……僕なんかいつでも殺せるから、こんなのはただの遊びだって?」
「そうでございます。子猫が必死に爪を
「……」
引き金にかかる要の指に、力が入る。
明らかに
「……勝負がどうなるかは、終わるまでは分からないよ」
銃の先を『道化師』に向けたまま、要は対価を使って
銃口の先にいる『道化師』が、くく、と笑った。
「何を言うかと思えば。お喋りに夢中になっているのがその証拠でございます。口を動かすよりも、指を動かす方が早いとは思わないのでしょうか」
その時ズキリと頭の中に激痛が走った。要は苦痛に顔をしかめる。流れ込んでくる情報量に脳が耐えられなくなっていた。腕から力が抜け、銃を持つ手がわずかに下がる。
その隙を『道化師』は
「……!」
要は急いで引き金を引くが、銃口から拡散された弾は一秒前に『道化師』がいた場所を
「
『道化師』が腕を伸ばす。捕まれたら終わりだ。要は後ろに下がりながらズボンのポケットに手を突っ込み、弾を二発込めて先台をコッキングする。
再び銃を構えたときにはもう遅かった。すでに『道化師』は懐に潜り込んでいる。
『道化師』の右手が視界を
「うあ……」
両手から力が抜け、重力に負けていくのが分かる。
画面に打ち込んだ文字を一度消して打ち込み直すように、頭の中の『回避後、距離を取って反撃』という思考が『回避行動不要』という未来に書き換えられる。このあとに取ろうと思っていた行動が消え、足の力が抜けていくのをはっきりと感じる。
「もう少しと期待しておりましたが、これ以上は時間の無駄でしょう。そろそろ追い回すのも飽きてございます。せっかくですので、
『道化師』の指の隙間から、自分が持っている銃が目に入った。要は嫌な予感がした。
白紙になった頭の中に、自分の未来が書き込まれていく。
『げきてきな』
入力された文字が変換されていく。
『劇的な』
それと同時に、銃を持つ腕がゆっくりと動き始める。体の支配権を奪われたかのようだった。自分の体が勝手に動くところを、要はただ見ることしかできない。要の顔が青くなり、焦りが浮かび上がる。
すでにどんな命令を下されるか予想はついている。最悪の未来だと要はさらに焦る。まだ間に合うはずだ、動け、と要は必死に書き込まれる文章にあらがう。
『劇的なじし』
要は、背中がじっとりと冷たい汗で濡れたのが分かった。
『劇的な自死によって』
自分の意思など関係なく、銃を持つ両手が動く。銃口の向かう先は相手ではなく自分の
「あぐ、う、あ……」
自分の顎に銃口を当てた要は、身をよじって無駄な抵抗をしている。
あと一分もしないうちに勝負は決まるだろう。相手を殺すか相手に殺されるかではなく、『道化師』が言ったとおりの「相手を殺すか自分が死ぬか」……そのどちらかの方法をもって。
『劇的な自死によってはい』
まずい、と要は思う。想像できる中でも最悪の負け方。人間ができる恐ろしい死に方の一つだ、と要の心は恐怖に包まれる。自分の顎に銃口を押し当てながら、要は必死に身をよじる。
『劇的な自死によって敗』
そこで要が右足を振り上げ、『道化師』の
「が!」
短く悲鳴を上げ、『道化師』はその場に崩れ落ちる。掴んでいた手が顔から離れた。要はゆっくりと後ずさって距離を取る。
全身が震えていた。指先の感覚がなかった。あと数秒遅ければ自分の手で脳を撃ち抜き、負けていた。その未来にぞわりと
要は震える腕と指を動かして『道化師』を狙う。そこで、うずくまる『道化師』の体が小さく震えているのに気がついた。泣いているような声も聞こえる。
「……?」
動揺が表に出るように、要の姿がジジ、と乱れる。
『道化師』は泣いているのではなく、全身を震わせて笑っていた。
ひとしきり笑った後、『道化師』は顔を上げた。
「どうやらあなたは、この勝負の勝利条件をお
化粧の下の顔がにやりと歪む。
「何を……」
言いかけた途中で先台を持つ左手の薬指から、ずぷ、という音がした。視線を向ける。まるでバターを
「え……? あ……」
一瞬、何をされたのか分からなかった。ミチ、といういやな音が小さく聞こえ、ミチミチ、と続いてすぐに、視界にソーセージのようなものが三つ飛んだ。要はまだ何をされたのかよく分かっていなかった。
何秒か遅れてようやく意識が現実に追いつき、神経が激痛を脳に運んできた。
「……あ、っあ、が、あ、あああ!」
要の手から銃が落ちた。その場に崩れて膝をつく。近くに自分の指が三本転がっていた。
「あああ、あああ、あああああ!」
目から涙を、口から
「あ、ああ……ああ、ああ……」
すっかり
「『劇的な自死により敗北』……それとも『遊びの道具になる』か、どちらが
要は顔に汗を浮かばせ、ぜえぜえと荒い息をついている。姿はジジジと乱れ、顔の上半分は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「あ、うう、あ、あああ……」
要はお茶を飲んでいるりんに視線を向けて助けを求める。だがりんは、
「やはり、サンドイッチは自分で作っても
と言いながら最後の一つを頬張っている。
要の髪を掴み上げたまま、『道化師』は肩を揺らして笑いだした。
「これは何とも笑いが止まらぬ展開でございます。『最強』にも
『道化師』は声を上げる。
「今夜は何とも運が
『道化師』はナイフの切っ先をりんに向ける。
「……どうぞご自由に。勝負を挑まれるのはいつものことなので。しかし一つ警告を」
りんの可愛らしい表情と、纏う雰囲気が暗さを
「次にそのくだらない呼び名で私を呼んだら、『道化師』、お前の手足を引き千切って、
それは
ははあ、と『道化師』は笑いを漏らした。恐れも浮かべず、
そして要に顔を戻すと、ナイフで要の頬をなぞりながら言った。
「まだ夜は長い。ですが時間は
『道化師』はナイフを
「“神”の気まぐれも
ナイフの先がゆっくりと落ちてくる。要は必死に手に力を入れるが、『道化師』の体は石のように重く少しも押し戻せない。力の差は
「わたくしも死ぬのは怖いのでございます。だからこそ、どんな形であれ生き続けたい。それはあなたも同じでしょう?」
眼球に、ぶ、つ、と切っ先が突き刺さる。「ああ……!」と要が小さく絶叫する。
「ほらほら、死にたくないのであれば
お客様の視線を感じるでしょう? これが、あなたの
『道化師』は言う。周りには自分たちと風見りん以外誰もいない。『道化師』は誰の視線を感じているのか。考える前に
「……ぐ、う、あぐ……!」
ぷつり、と水が入った
いつの間にか要の背後にはりんが立っていた。手には
「主な
屋敷にいる人間たちには、あなたはとても弱かったと伝えておきます。全員腹を
そう言うと、くるりと背を向けてどこかへ歩き去って行く。
残った目で要はそれを見ると大きく深呼吸をした。要の姿がジジジ、ジジ、ジジと激しく乱れ始める。そのことに『道化師』は気づいているが、
ずぶずぶとナイフの切っ先が沈んでいき、脳に
ただひたすら、死にたくないと強く思っていた。
要の姿が、ジジとさらに激しく乱れる。
『道化師』の持つナイフが、ぐじゅりと眼球より奥まで差し込まれた。
「おや?」
『道化師』が声を漏らす。掴んでいた髪を離すと、激しいノイズを纏う要の体はあっけなく地に落ちた。
「これは最後まで運が
要の体を軽く
『道化師』は要を
「お待たせいたしました。つまらぬ
と血と肉片がこびりついたナイフをりんに向ける。
りんは眉一つ動かすことなく『道化師』の方向に目を向けた。しかし、その目は『道化師』のことなど見ていない。
彼女が見ているのは、『道化師』の
「……まだ勝負は終わっておりませんよ」
その人影を見ながら、りんは言う。
ノイズを
自分が後ろから狙われていることも、勝負がまだ終わっていないことも、『道化師』は気づいてすらいない。
『道化師』は顔の化粧を歪ませる。とても子供たちには見せられない
「さあさあ、ここからが本番で、」
そこで突然、何の
『道化師』の体は膝から地面に落ちて、前のめりに倒れこんだ。脳漿の混じった血だまりが広がっていく。頭部が
そのあとに、また一人が地面に倒れる音がした。りんは顔についた肉片を袖で
「お見事でございます。あなたの勝利ですね」
りんは膝を折る。そこには
「……」
もはや声を出す力もないのだろう。要はりんを見るだけで何も答えない。左目はばっくりと
「
「うっせえなクソボケメイド。命令すんな」
と頭をがりがり掻きながら一人の少年が歩いてきた。その珍しい髪色は、月の光を反射していっそう目立っている。
「おいカナメ。遅いんだよ。もっと早く勝負決めろ」
そう言いながら、死にかけている要の横へ膝を折る。要は言葉を何も返さない。
少年の手が、自分の体に触れる。同時、要は
少年はズボンのポケットからケースを取り出すと、中から小さなナイフを取り出して
「……くそが。
少年が要の左側に背中をもたれさせる。それを見て、要はゆっくりと
またこれで生きていける。また、これで……。
その続きを考える前に、要の意識は闇へと落ちて行った。
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