【その男、「ウソツキ」】⑨

 今から二年前のことである。六月十二日、夜。

 とある国の閉鎖された遊園地に、京谷要と風見りんはいた。

 断続的だんぞくてきに聞こえるのは、何かにぶつかる金属音とくるったような笑い声。びの浮いた巨大な観覧車を背景に、二人の男が交戦こうせんしていた。

 一人は顔にピエロの化粧けしょうほどこした男である。顔が丸く、着ている衣装の下は少しばかり肉付きがいいことがうかがえる。昼間の遊園地であれば子供たちに風船なんかを配っていたのかもしれない。だがこの道化どうけが持っているのは風船ではなく、血にれたナイフを振り回していた。

「あ、ははは、ははははは!」

 笑い声を上げながら『道化師』はナイフをふるう。顔を引き、その軌道きどうをすんでのところでける。あと数センチ顔を引っ込めるのが遅かったら、鼻の半分がなくなっていただろう。

 顔から汗の粒を飛ばしながら、上下を黒の服で固めた要は散弾銃を手にけ続ける。

 二人から少し離れた所では、風見りんがレジャーシートを広げ、そこに座ってサンドイッチなんかをつまんでいる。その場所だけピクニックになっていた。

 服が切り裂かれ、皮膚に赤い線が刻まれていく。その傷はけっして浅いわけではないが、これ以上受け続けると出血と痛みで動けなくなるような傷だ。まるで猫がネズミをいたぶるように、じわじわと追い詰めるための攻撃だった。

 相手の方が実力は数段すうだん上だ。後ろにけた分だけ距離を詰め、ふところに入り込んでナイフをふるってくる。

 それらを必死に避けながら、要は『情報屋』東條から聞いたことを頭に浮かべていた。


 このあたりでは最近行方不明者が急に増えているらしい。すでに三十人以上が消え、その多くは少年と呼ばれる年頃の子たちだという。彼らが何をされ、どんな末路まつろむかえたのか。それを聞いているだけで吐き気がこみ上げた。

『……とまあ、今回の相手はそんな感じだよ。連続殺人鬼というやつだね』

 と、東條が言う。

『やれるかい?』

 電話越しに東條が尋ねる。

「やるしかないよ。できなくてもね」

 そう返すと、ペットボトルを傾けて中の水とともに吐き気を飲み込む。

『死なないようにね。床下に埋められるのは嫌だろう?』

「……そうだね」

 ぼんやりと目線を前に向ける。すると勝手に頭の中に映像が浮かび上がってきた。丘の上にある小さな家だ。玄関の扉をすり抜け、リビングを通る。その一角、不自然に盛り上がった床下には大量の骨が埋められている。その全ては――

 そこで要は落ちかけた意識を引っ張り戻し、途切れかけた集中を張り直す。そしてもう一度ペットボトルを傾けて水を流し込んだ。

『君が無事に帰ってくることを祈っているよ。気を付けてね』

「アカリ君と勝負をしてるからでしょ? よくやるよ」

『ははは。なんのことかな。いそがしいからそろそろ切るよ』

 東條はそう言うと、あっさり通話を切った。

 それから三十分後。要は『道化師』と対峙することとなる。


 賭けが始まってから、何分が過ぎたのか。もしかしたらすでに一時間は経っているのかもしれない。攻めることもできないまま、疲労だけが蓄積ちくせきされていく。

 思うとおりの行動がとれないことに、要は焦っていた。

 相手の隙がない。銃を構える時間がない。相手の動きが早すぎて狙えない。

 散弾銃の最大射程距離はだいたい二百から五百メートルほどだ。それでも要はいまだに弾を撃ち込む隙を見つけられずにいた。

 さらに言うなれば、要はこういう激しい戦闘はこれが初めてだった。対してめてくる『道化師』は息一つ乱れていない。戦闘に慣れていた。

 明らかに相性あいしょうが悪く、明らかに相手との差が大きいたたかい。

 攻められないことに要は苛立つ。苛立ちは焦りを生み、焦りは疲れを早める。そして、疲れは精神と肉体から余裕と冷静さを奪っていく。心臓が暴れ、息が上がって声も出せなくなっている。喉が渇き、つばを飲み込もうとすると乾いた気管きかんに張りついて苦しい。

「ぐう……!」

 ナイフが右足をかすった。要は思わず後ろにたたらを踏む。

 ズボンにしみが浮かび上がる。今のは深い。ぱっくりと裂けた傷口を想像し、急いでそれを頭から消した。どの程度の傷か、確認する勇気はもちろんなかった。

「なんとも、彼の足元にもおよばない。彼と同じ名だというので驚きましたが……これでは賭けでも勝負でもなく、ただの弱い者いじめでございます」

 と足を止めた『道化師』が言う。みょう台本だいほんじみた口調だった。『道化師』が誰のことを言っているのか要は分かっている。

「死亡後に本人がい戻ってきた、という可能性はないでしょうなあ。同じ名を名乗っていて恥ずかしいとおおもいにはならないのでしょうか。わたくしには不思議でたまらないのでございます」

『道化師』は言った。その顔には余裕と遊びが浮かんでいる。要を脅威きょういとも思っていない表情だった。

「……」

 要は肩で呼吸しながら、銃に弾を一発込めてコッキングする。二人の距離は五メートルほどか。十分当たる距離だ。

「おおおそろしい。子供にはぎたおもちゃでございます」

『道化師』は身をちぢませて大げさに怖がる。

 要は息を吐き、集中して狙いをさだめる。要の指が引き金にかかる直前、『道化師』が地面を蹴って一気に距離を詰めてくる。

『道化師』の体が、わずかに横にずれた。そのすぐあとに響く重い発砲音。火薬の匂いがあたりに立ち込める。

 要に突っ込んでいく『道化師』の体が、地面に落ちた。

 肩で呼吸しながら、要は三メートルほど先で倒れている『道化師』を見つめる。手ごたえはあった。即死かどうかは分からない。

 そのとき。

「……が、あ、は、は」

 と、声がした。倒れている『道化師』の方向からだった。

『道化師』の体が、むくりと起き上がった。頭の右上が吹き飛び、そこから濃厚なソースのような脳漿のうしょうちていた。

 要のこめかみから汗が流れ落ちる。人間を即死させる場合は確実にのうかんを破壊することだと、昔、りんから教えられたことを要は思い出した。

『道化師』は右腕をなんとか動かし、自分の体に触れる。彼の傷口が見る見るうちにぶくぶくとあわち、綺麗さっぱり修復しゅうふくされていく。

「……やれやれ、あやうくのうするところでございました。未来は残酷ざんこくでございます」

 言いながら、『道化師』が立ち上がる。衣装の汚れを手ではらい、服のしわを伸ばすと落ちたナイフを拾い上げる。

 要は銃を構え直し、賭けの前に『道化師』が明かしたことを思い返す。

『道化師』エスター=ノートン=クラウン。彼の持つ能力は《触れた生き物の未来を改変させる》こと。対価は《道化師として一定の金をかせぐ》というものらしい。自分以外に能力を使用した場合、それにおうじて自分の未来も変わってしまうことがデメリットだと言っていた。それらを明かすのは、弱点をさらしても勝てると踏んでのことだろう。

「先程は致命的ちめいてきな一発でございました。あとほんの数秒遅ければ、わたくしの頭はなくなっていたことでしょう。弾が全てここに当たっていれば、ですが」

『道化師』は自分の頭を指さす。

「さあさあ、続きといきましょう。まだ勝負は終わっておりませんよ。相手を殺すか自分が死ぬか、それだけの勝負でございましょう? それでいと頷いたのはそちらでございます。確実に相手を死体にせねば勝てませんよ」

 両手を広げて『道化師』は言う。月明かりが彼を照らし、まるで主役を照らすスポットライトのようである。

「勝負のあとは映画でもどうでしょうか。手錠てじょうのパフォーマンスもお見せいたしましょう。どうやって抜け出すのかもお教えいたします。

 あなたと同じぐらいのお友達が、たくさん待っておりますよ」

『道化師』が笑いかけた。要はその笑みに嫌悪感けんおかんを覚える。

「賭けとは素晴らしいうんだめしでございます。神の気まぐれに挑み、それを超えられるかどうか。文字通りの命がけでございます。わたくしどもせられた義務ぎむとは、そういうものでございます」

「……」

 そう。その通りだ、と要は思う。自分たちは所詮しょせん“神”を楽しませる道具にすぎないのだ。

 飽きたら簡単に死体へと戻され、それ以降いこうはない。そしてそれを決めるのは……いつも退屈している“神”の気まぐれだ。

『道化師』が歩いてくる。無防備なようで、すぐ相手に対応できる警戒をまとって。

 いた距離は三メートルほど。今度は外さない。要はもう一度狙いを定める。

 と、そんな要を見て『道化師』は言った。

「そうそう。そのように必死になっているそのお姿すがたが、余計よけい同情どうじょうさそうのでございます。まるで外の世界に出たばかりの子猫こねこ。必死に生きようとするその姿が、あわれでたまらない」

「……なんだって?」

 と、要はそれに返事をしてしまった。勝負に慣れている者ならば聞き流す挑発に、要は乗ってしまった。

「哀れでたまらないのですよ。あなたがね」

 要を見る『道化師』が肩を揺らして笑い始める。耳をつく笑い声に、要の表情がわずかに動く。苛立ちと不快感をあらわにしていた。

「子猫が必死につめを見せて威嚇いかくしてもなんとも思わないでしょう? むしろ、むかついて蹴り飛ばすかもしれません。つまみ上げてごみ箱にでも入れるかもしれません。それと同じでございます。いつでも殺せる赤子あかごに本気を出さないでしょう? 同じでございます」

「……僕なんかいつでも殺せるから、こんなのはただの遊びだって?」

「そうでございます。子猫が必死に爪をぎ、自分はライオンにも勝てると信じている。これ以上の笑い話などありましょうか」

「……」

 引き金にかかる要の指に、力が入る。

 明らかにさそっている挑発だが、子猫や赤子などと言われて無視できるほど彼の精神せいしん成熟せいじゅくされていなかった。圧倒的に足りない勝負の経験と若さが、彼の心にあった焦りを怒りへとえていく。

「……勝負がどうなるかは、終わるまでは分からないよ」

 銃の先を『道化師』に向けたまま、要は対価を使ってこりる可能性を探る。次に何が来るか、どう動こうとしているのか。何を考えているのか。だが、周りに散らばる何かの破片や周囲の情報が紛れ込んでうまく拾えない。

 銃口の先にいる『道化師』が、くく、と笑った。

「何を言うかと思えば。お喋りに夢中になっているのがその証拠でございます。口を動かすよりも、指を動かす方が早いとは思わないのでしょうか」

 その時ズキリと頭の中に激痛が走った。要は苦痛に顔をしかめる。流れ込んでくる情報量に脳が耐えられなくなっていた。腕から力が抜け、銃を持つ手がわずかに下がる。

 その隙を『道化師』は見逃みのがさなかった。大きく前に飛び、要との距離を一気に詰める。

「……!」

 要は急いで引き金を引くが、銃口から拡散された弾は一秒前に『道化師』がいた場所をむなしく通り過ぎていくだけだ。

はずれでございます」

『道化師』が腕を伸ばす。捕まれたら終わりだ。要は後ろに下がりながらズボンのポケットに手を突っ込み、弾を二発込めて先台をコッキングする。

 再び銃を構えたときにはもう遅かった。すでに『道化師』は懐に潜り込んでいる。

『道化師』の右手が視界をおおう。顔に『道化師』の指先が触れた瞬間、形容けいようできない感覚がした。要は感じる。頭の中に浮かべていた考えが、相手の望む通りの行動に書き換えられていくのを。

「うあ……」

 両手から力が抜け、重力に負けていくのが分かる。

 画面に打ち込んだ文字を一度消して打ち込み直すように、頭の中の『回避後、距離を取って反撃』という思考が『回避行動不要』という未来に書き換えられる。このあとに取ろうと思っていた行動が消え、足の力が抜けていくのをはっきりと感じる。

「もう少しと期待しておりましたが、これ以上は時間の無駄でしょう。そろそろ追い回すのも飽きてございます。せっかくですので、える演出にて退場させてあげましょう」

『道化師』の指の隙間から、自分が持っている銃が目に入った。要は嫌な予感がした。

 白紙になった頭の中に、自分の未来が書き込まれていく。

『げきてきな』

 入力された文字が変換されていく。

『劇的な』

 それと同時に、銃を持つ腕がゆっくりと動き始める。体の支配権を奪われたかのようだった。自分の体が勝手に動くところを、要はただ見ることしかできない。要の顔が青くなり、焦りが浮かび上がる。

 すでにどんな命令を下されるか予想はついている。最悪の未来だと要はさらに焦る。まだ間に合うはずだ、動け、と要は必死に書き込まれる文章にあらがう。

『劇的なじし』

 要は、背中がじっとりと冷たい汗で濡れたのが分かった。

『劇的な自死によって』

 自分の意思など関係なく、銃を持つ両手が動く。銃口の向かう先は相手ではなく自分のあご。このまま発砲すれば間違いなく無事では済まないだろう。

「あぐ、う、あ……」

 自分の顎に銃口を当てた要は、身をよじって無駄な抵抗をしている。

 あと一分もしないうちに勝負は決まるだろう。相手を殺すか相手に殺されるかではなく、『道化師』が言ったとおりの「相手を殺すか自分が死ぬか」……そのどちらかの方法をもって。

『劇的な自死によってはい』

 まずい、と要は思う。想像できる中でも最悪の負け方。人間ができる恐ろしい死に方の一つだ、と要の心は恐怖に包まれる。自分の顎に銃口を押し当てながら、要は必死に身をよじる。

『劇的な自死によって敗』

 そこで要が右足を振り上げ、『道化師』の脇腹わきばらひざえぐりこませた。

「が!」

 短く悲鳴を上げ、『道化師』はその場に崩れ落ちる。掴んでいた手が顔から離れた。要はゆっくりと後ずさって距離を取る。

 全身が震えていた。指先の感覚がなかった。あと数秒遅ければ自分の手で脳を撃ち抜き、負けていた。その未来にぞわりと背筋せすじが寒くなった。

 要は震える腕と指を動かして『道化師』を狙う。そこで、うずくまる『道化師』の体が小さく震えているのに気がついた。泣いているような声も聞こえる。

「……?」

 動揺が表に出るように、要の姿がジジ、と乱れる。

『道化師』は泣いているのではなく、全身を震わせて笑っていた。

 ひとしきり笑った後、『道化師』は顔を上げた。

「どうやらあなたは、この勝負の勝利条件をおわすれのようでございます」

 化粧の下の顔がにやりと歪む。

「何を……」

 言いかけた途中で先台を持つ左手の薬指から、ずぷ、という音がした。視線を向ける。まるでバターをとすように、薬指の半分までナイフのがめり込んでいた。骨を通して、指の真ん中に何かが引っかかっているのが伝わってくる。

「え……? あ……」

 一瞬、何をされたのか分からなかった。ミチ、といういやな音が小さく聞こえ、ミチミチ、と続いてすぐに、視界にソーセージのようなものが三つ飛んだ。要はまだ何をされたのかよく分かっていなかった。

 何秒か遅れてようやく意識が現実に追いつき、神経が激痛を脳に運んできた。

「……あ、っあ、が、あ、あああ!」

 要の手から銃が落ちた。その場に崩れて膝をつく。近くに自分の指が三本転がっていた。

「あああ、あああ、あああああ!」

 目から涙を、口からよだれを垂れ流しながら痛みに叫ぶ。右手で傷口を押さえるが溢れた血は一向に止まる気配がない。飛ばされた指三本は根元ねもと関節かんせつ部分しか残っていなかった。

「あ、ああ……ああ、ああ……」

 すっかり戦意せんいうしなった要の髪を掴み上げ、『道化師』は顔を近づける。

「『劇的な自死により敗北』……それとも『遊びの道具になる』か、どちらがいでしょう。選ばせて差し上げます」

 要は顔に汗を浮かばせ、ぜえぜえと荒い息をついている。姿はジジジと乱れ、顔の上半分は涙でぐしゃぐしゃになっている。

「あ、うう、あ、あああ……」

 要はお茶を飲んでいるりんに視線を向けて助けを求める。だがりんは、

「やはり、サンドイッチは自分で作っても格別かくべつですね。キッチンはくろげになりましたが」

 と言いながら最後の一つを頬張っている。

 要の髪を掴み上げたまま、『道化師』は肩を揺らして笑いだした。

「これは何とも笑いが止まらぬ展開でございます。『最強』にも見放みはなされるとは!」

『道化師』は声を上げる。

「今夜は何とも運がい。これが終わったら次はあなたです、最強の忘れ形見。主人がいなくなって寂しいでしょう? すぐに、主人の元へ送って差し上げます」

『道化師』はナイフの切っ先をりんに向ける。

「……どうぞご自由に。勝負を挑まれるのはいつものことなので。しかし一つ警告を」

 りんの可愛らしい表情と、纏う雰囲気が暗さをびる。

「次にそのくだらない呼び名で私を呼んだら、『道化師』、お前の手足を引き千切って、おおかみの群れの中に放り込むからな」

 それは誇張こちょうなどではないことは見て取れた。『最強』と呼ばれる少女が、戦士の顔を見せた瞬間だった。

 ははあ、と『道化師』は笑いを漏らした。恐れも浮かべず、気圧けおされてもいなかった。

 そして要に顔を戻すと、ナイフで要の頬をなぞりながら言った。

「まだ夜は長い。ですが時間は有限ゆうげんでございます。この結末けつまつは、勝負を決めなかったあなたの甘さでございます」

『道化師』はナイフを逆手さかてに持ち、切っ先を要の左目に向ける。要は奥歯をがちがちと鳴らしながら、『道化師』の腕を両手で掴んで止めようとする。

「“神”の気まぐれも奇跡きせきも幸運も、全ては台本通りでございます。我々は端役はやく。主役を楽しませるだけの道化でございます」

 ナイフの先がゆっくりと落ちてくる。要は必死に手に力を入れるが、『道化師』の体は石のように重く少しも押し戻せない。力の差は歴然れきぜんだった。

「わたくしも死ぬのは怖いのでございます。だからこそ、どんな形であれ生き続けたい。それはあなたも同じでしょう?」

 眼球に、ぶ、つ、と切っ先が突き刺さる。「ああ……!」と要が小さく絶叫する。

「ほらほら、死にたくないのであればめてみなさい。これも一つの賭けでございます。

 お客様の視線を感じるでしょう? これが、あなたのでございます」

『道化師』は言う。周りには自分たちと風見りん以外誰もいない。『道化師』は誰の視線を感じているのか。考える前に容易よういに想像がついた。

「……ぐ、う、あぐ……!」

 ぷつり、と水が入った風船ふうせんはりが刺さったような感触がした。ずぶずぶという音が内側から聞こえた。目の奥からにじみ出てきた赤色が視界いっぱいに広がる。

 いつの間にか要の背後にはりんが立っていた。手にはたたんだレジャーシートとピクニック用のかごを持っている。

「主な即死そくし要因よういんのうかんの破壊によるものです。そのまま脳にナイフが刺さっても即死にはいたりませんが、激痛の中で眠るように死ねるでしょう。

 屋敷にいる人間たちには、あなたはとても弱かったと伝えておきます。全員腹をかかえて大爆笑することでしょう」

 そう言うと、くるりと背を向けてどこかへ歩き去って行く。

 残った目で要はそれを見ると大きく深呼吸をした。要の姿がジジジ、ジジ、ジジと激しく乱れ始める。そのことに『道化師』は気づいているが、一瞥いちべつするだけで何も反応も示さない。

 ずぶずぶとナイフの切っ先が沈んでいき、脳にたっする寸前まで深々ふかぶかと突き刺さっていく。要はもう何も感じなかった。どこがどう痛いのかも、どの部分を怪我しているのかも、何も感じなかった。

 ただひたすら、死にたくないと強く思っていた。

 要の姿が、ジジとさらに激しく乱れる。

『道化師』の持つナイフが、ぐじゅりと眼球より奥まで差し込まれた。

「おや?」

『道化師』が声を漏らす。掴んでいた髪を離すと、激しいノイズを纏う要の体はあっけなく地に落ちた。

「これは最後まで運がい。わたくしの勝利でございます」

 要の体を軽くる。ジジ、と体を覆うノイズが動いているだけで要は起き上がらない。

『道化師』は要を足蹴あしげにして突き立てたナイフを引き抜く。ぼじゅ、という排水溝はいすいこうのつまりが抜けたような音がした。

「お待たせいたしました。つまらぬ余興よきょうはこれまで」

 と血と肉片がこびりついたナイフをりんに向ける。

 りんは眉一つ動かすことなく『道化師』の方向に目を向けた。しかし、その目は『道化師』のことなど見ていない。

 彼女が見ているのは、『道化師』のうしろである。地に倒れていた人影が、激しいノイズを纏いながらゆっくりと起き上がっている。

「……まだ勝負は終わっておりませんよ」

 その人影を見ながら、りんは言う。

 ノイズをまとった人影は、ふらつきながら落ちている散弾銃を手に取り、構える。『道化師』は一つも気づいていない。

 自分が後ろから狙われていることも、勝負がまだ終わっていないことも、『道化師』は気づいてすらいない。

『道化師』は顔の化粧を歪ませる。とても子供たちには見せられない醜悪しゅうあくな笑みである。

「さあさあ、ここからが本番で、」

 そこで突然、何の前触まえぶれもなく『道化師』の頭部とうぶはじんだ。肉の欠片かけらや目玉、赤い糸のようなものが飛び散り、りんの着ている服にも付着する。

『道化師』の体は膝から地面に落ちて、前のめりに倒れこんだ。脳漿の混じった血だまりが広がっていく。頭部が粉々こなごなに吹き飛び、首から上がなくなっていた。

 そのあとに、また一人が地面に倒れる音がした。りんは顔についた肉片を袖でぬぐうとその人物に歩み寄る。

「お見事でございます。あなたの勝利ですね」

 りんは膝を折る。そこには瀕死ひんしの要が仰向あおむけに倒れていた。夜空を見上げながら大きく呼吸をしている。その姿を覆うノイズが、ジジ、ジ……と段々だんだん剥がれていっている。

「……」

 もはや声を出す力もないのだろう。要はりんを見るだけで何も答えない。左目はばっくりとけ、氷山ひょうざんの割れ目のようになっている。奥からとめどなくる血で、真っ赤な色の眼帯をしているようにも見えた。

さいわい傷は脳までたっしていないようです。ですが、このまま放置していると死にますね。おい、早く治せ」

「うっせえなクソボケメイド。命令すんな」

 と頭をがりがり掻きながら一人の少年が歩いてきた。その珍しい髪色は、月の光を反射していっそう目立っている。

「おいカナメ。遅いんだよ。もっと早く勝負決めろ」

 そう言いながら、死にかけている要の横へ膝を折る。要は言葉を何も返さない。

 少年の手が、自分の体に触れる。同時、要は麻痺まひしていた痛みがすっと消えたのを感じた。

 少年はズボンのポケットからケースを取り出すと、中から小さなナイフを取り出して逆手さかてに持ち、すぐさま自分の腹へと突き刺した。噴き出た大量の血液が、要の体の左半分を真っ赤に濡らす。

「……くそが。三割増さんわりましだからな……」

 少年が要の左側に背中をもたれさせる。それを見て、要はゆっくりとまぶたを落とした。目を開けていられる限界だった。

 またこれで生きていける。また、これで……。

 その続きを考える前に、要の意識は闇へと落ちて行った。

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