【嘘つきのパラドックス】②

 閉館時間をとうに過ぎた組合の中。そこの居住棟の奥にある長屋ながやの前に小夜は立っていた。

 建物の材質ざいしつ漆喰しっくいだろうか。その雰囲気ふんいきは隠れた名店か老舗しにせの旅館を思わせる。表札には『東條』と書かれており、その横には『起きてます。対価支払い中』という札が吊り下げられている。

 小夜は五分ほど前に、ここ……『情報屋』が住むというこの家に案内されたところであった。

「……」

 時刻は午後七時。小夜は呼び鈴を鳴らしてもよいものかと悩む。

 少し考えた結果、小夜は玄関の引き戸を二回ノックしてみた。

「あ、あのう……捜査室の者ですが……」

 しばらく待ってみるが返事はない。さっきより強くノックしてみる。

「あ、あの、捜査室の者ですが」

 返事はない。と、そこで小夜は気がついた。玄関の引き戸が数センチほどいている。もしかすると、最初から扉の鍵はかかっていなかったのかもしれない。

「あの……こんばんは……」

 おそるおそる引き戸を開けながら言ってみる。まず目に入ったのは、廊下を挟んで広がる小さな庭だ。

 扉を閉めると同時に、廊下の右側から声がした。

「ああ、照良君が言っていたお客さんかな。ごめんね、今動けないからこっちまで来てもらえるかい?」

 そう言われ、小夜は、

「……お邪魔します……」

 と言いながら靴を脱ぎ、廊下の右側へと進んでいく。外からは分からなかったが、中はかなり広いようだ。

 廊下を進んでいると灯りがついている部屋が見えた。

「こっちだよ。こんばんは」

 とその部屋から先程と同じ声が聞こえた。小夜は足を止め、中を覗いてみる。そこには車椅子くるまいすに座る男性がいた。

 年のころは五十を少し過ぎたぐらいに見える。黒縁くろぶちの眼鏡をかけ、カッターシャツに黒いズボンという簡素な格好だ。まさに「紳士」という言葉が似合いそうな男性である。

 小夜はその男性の顔を見るなり、

「い、異能力事件専門捜査室の、泉小路です! 今日は本当に……本当にすみませんでした!」

 ばね仕掛じかけの人形のように、がばっと頭を下げた。

「いやいや、気にしないで。ちょうど時間もあったし、まだ今日は終わっていないしね」

 と男性は両手をぱたぱた振ってフォローする。

「それより、いい時間に来てくれた。この時間はみんな忙しくてね、誰も来ないんだ。そこのソファにどうぞ。コーヒーは飲める?」

「あ、はい……」

 促されるまま、小夜は部屋にあるソファに腰を下ろす。

 男性はコーヒーメーカーのスイッチを入れ、二人分のカップを用意する。待っている間、小夜は今いるこの部屋を見回してみることにした。

 男性の近くにあるデスクの上には高そうなパソコンが三台並んでいる。その隣のテーブルにはコーヒーメーカーと電気ケトル。部屋の真ん中にあるソファを挟み、後ろの壁にはぎっしりと本が詰まった本棚。部屋の広さからして、どうやらここは書斎のようだ。

 と、そんなことを考えているとコーヒーが出来上がった。インスタントとは違う匂いが鼻をつく。

「そういえば」

 カップにコーヒーを淹れながら、男性がふと言った。

「もう閉館時間は過ぎていたから、裏口から来たんだろう? 誰がここまで一緒に来てくれたのかな?」

「え、えっと……」

 小夜はここまで案内してくれた人物を頭に思い浮かべたが、今まで組合の受付にしか顔を出したことがないため、その人物の名前すら知らない。なんなら初めて見る顔だった。小夜の声に分かりやすく感情が乗る。

「……すみません、名前は分かりません……」

「そうか。じゃあ、僕から夜勤やきんの子にお礼を言っておくよ。また機会があったら、その子たちを紹介するよ。

 僕のことは聞いているのかな?」

「え、えっと……捜査協力者だと……」

「そうか。それじゃあ改めて、軽く自己紹介でもしようかな」

 と男性は微笑む。

東條とうじょう要一よういちだよ。みんなからは『情報屋じょうほうや』なんてあだ名で呼ばれているかな。よろしくね」

 そう言って、男性……『情報屋』東條要一はにこりと微笑んだ。

 彼の名はたびたび他の捜査官たちの話に上がる。足が悪いため、居住棟ではなくここの離れに一人で住んでいるという。そして持つ能力は《あらゆる情報を瞬時しゅんじに知る》ことゆえ、捜査室にとっては重要な捜査協力者らしい。

 しかしそんな彼の対価は《能力を使った場所から二十二時間動けなくなる》ことらしく、一度能力を発動させればその場から一切の身動きができなくなることが最大の弱点だ。

「ところで君の名字、泉小路と言ったかな? 照良君……室長さんと同じだね。もしかして、お父さん?」

「はい。室長は父です」

「そうか。だったら、名前で呼ばせてもらったほうがいいのかな。お父さん、怒らない?」

「大丈夫です。父と区別するために、捜査室でも名前で呼んでもらっていますから。改めまして、泉小路小夜ともうします」

「うん。じゃあ、僕のことは『情報屋』以外でよろしくね。小夜ちゃん」

「はい。よろしくお願いします。東條さん」

 挨拶を終えると、さっそく東條は仕事の話題に切り替えた。

「さて。じゃあさっそくだけど、君がここに来たのは、ここ二年で起きた不可解な事件のことだろう?」

「そうです。二つの現場のどちらも、犯人に繋がる証拠が一切出ていません」

 と小夜は返す。

「不思議な事件だよね。本当に」

 と、東條は言った。

「二年前の六月十二日。死んだのはぞくに『道化師どうけし』と呼ばれていた能力者エスター=ノートン=クラウン。現場に残っていたのは、頭がなくなった『道化師』の死体と大量の小さな黒い玉のような物だけ。犯人の足跡も髪の毛さえもなかった。

 そして去年の六月十日に死んだのはエドワード・ウィルソン。『確率を操る』能力者だね。僕らのあいだでは『確率のエドワード』と呼ばれていたよ。

 現場で見つかったのは彼の死体と普通の人間の死体が三つ。それ以外にあったのは、弾が入ったままのリボルバー銃と床に転がったから薬莢やっきょうが二つ。そして……明らかに争った形跡があるものの、この現場でも犯人に繋がる痕跡は一切見つからなかった。

 この辺りは、捜査室でも調べがついていたことかな」

「はい。その通りです」

 と小夜は頷く。

「来てもらって悪いけれどね、僕の能力を使うまでもないよ」

「え?」

「隔離棟に『京谷要』という子がいるから、彼に聞いてみるといい。全てを教えてくれるから」

 そう言うと、東條はコーヒーカップを口に運び一口飲んだ。

「京谷要って……あの、頭がおかしい嘘つきですか……?」

「おや、彼と会ったのか。それなら話が早い。その頭がおかしい彼に、事件のことをそのまま聞いてみたらいいよ。嘘偽りなく全てを答えてくれるから」

「で、でも、彼は……」

 小夜はコーヒーカップの中身に視線を落とす。

「彼は……自分のことを『嘘つき』だと言っていました。そんな人物の言葉は……」

「信じられないと?」

「はい……。『嘘を信じ込ませる』という能力を持っていると言っていましたが、それも本当なのか……。たとえ彼の言葉が全て本当だとしても、自称『嘘つき』の言葉は信じられません……」

「自称嘘つき、ね」

 と東條がかすかに笑った。「え?」と小夜は顔を上げる。

「『きょうやかなめ』ね。京都の『きょう』に『たに』、要注意のようで『かなめ』。そんな珍しい名前の人が、本当にいると思っているのかな?」

「どういうことですか……?」

 小夜は聞き返す。

「名前みたいな名字だよね」

 と東條は微笑みを向け、コーヒーを飲んでいるだけだ。

「ま、まさか……偽名なんですか……?」

「ああ、もちろんそうだよ。僕と一緒に考えたんだ」

 と東條はあっさり頷いた。

「なぜ偽名を……」

「能力者が偽名を使うのは珍しいことではないよ。本名のまま活動している人のほうが珍しいからね。彼の場合は、本名を明かすと相手に能力が効かなくなるんだ」

「東條さんは……要君の本名を知っているんですか?」

「もちろん。彼の本名も、彼の正体も知っているよ。今ここで教えてあげてもいいんだけど……聞きたいかい?」

「……」

 小夜は少し悩む。ここで『京谷要』の正体を聞くべきか。聞いても、自分が望む答えなのだろうか。それとも……自分が求めている彼の『正体』などないのかもしれない。

「……はい。お願いします」

 それでも小夜は、東條の目を見つめ力強く言った。

「どうなるだろうね。楽しみだ」

 と東條は笑みを向ける。言葉の意味は分からなかった。

「では発表しよう。彼の本名は……」

 と東條は続きを言おうとする。そのとき小夜の頭の中に、ジジ、ジとノイズのようなものが一瞬流れる。

「――だよ。これが、彼の本当の名前だ」

 ジジ、という激しいノイズで東條の言葉は聞き取れなかった。

「あの、東條さん……。すみませんが、もう一度お願いします……」

 と片手で頭を押さえながら小夜が言うと、

「……ふむ。やっぱりか。かなめ君もそう簡単には教えないよね」

 と楽しそうな笑みを浮かべながら東條は言った。何のことを言っているのか、またもや小夜には分からなかった。

「じゃあもう一回言うよ」

 と東條は楽しそうに笑っている。

 ジジジ、ジジ、と頭の中のノイズが激しくなるのを感じた。小夜は思わず顔をしかめる。

「彼の本名は――で、彼はね、本当は――というすごい人間――なんだ。『京谷要』というのも、彼が一番――の人の――から――ったんだよ。それで彼はね、実は――で、ここに来た理由も――なんだよ。可哀想かわいそうだよね。

 これが、彼の秘密だよ」

 と東條が話し終える。楽しそうに笑みを浮かべる東條と、苦しそうに頭を押さえ、脂汗あぶらあせを浮かべて顔をしかめる小夜は対照的だった。

「大丈夫かい? 奥の部屋で休む?」

「だ……大丈夫です……」

 青白くなった顔で小夜は言う。浅く呼吸を整えていると、頭の中のノイズは薄くなっていった。

「……要君……京谷要は、いったい何者なにものなんでしょうか……」

 頭に当てていた手を放しながら、小夜は言った。

「ははは。彼が何者かって?」

 と東條は笑う。

「それは彼自身が最初から言っているよ。

『自分は嘘つきだ』という言葉で考えすぎなんじゃないかな? エピメニデスがこの世に生きていたら、君はすごく頭を悩ませているだろうね」

「エピ……なんですか? それ」

「ああ、エピメニデスだよ。『嘘つきのパラドックス』の。別名は『自己じこ言及げんきゅうのパラドックス』とか『エピメニデスのパラドックス』と呼ばれているものだよ。知ってる?」

「……いえ」

「ええと、簡単に言うとね……」

 小夜が首を横に振ると、東條は持っていたカップを近くのテーブルの上に置いて話し始めた。

「ある日、エピメニデスというクレタ人は言いました。『クレタ人は嘘つきだ!』。

 さて問題です。クレタ人は本当に嘘つきでしょうか。

 というやつだね。小夜ちゃんはどう思う?」

「え、ええと……『嘘つきだ』と言っているので、嘘つきなのではないでしょうか」

 急に話を振られ、少し焦りながらも小夜は答えた。

「なるほど。つまり『エピメニデス含むクレタ人は全員嘘つき』という答えかな?」

「そ、そうですね」

 言っている意味はよく分からなかったが、小夜はすぐにそう返した。

「この問題にはね、基本的に二つの議論があるんだ。

 一つは、『クレタ人は嘘つきだ』と言ったエピメニデスは嘘つきで、エピメニデスを含めたクレタ人はみな正直者である。

 二つ目は、『クレタ人は嘘つきだ』と言ったエピメニデスは正直者で、エピメニデスを含めたクレタ人はみな嘘つきである。

 二つ目が小夜ちゃんの答えだね。

 真理しんり虚偽きょぎが同時に存在する矛盾むじゅんあいはんする二つの真実は本当に真実と言えるのか。そこがこの問題の面白おもしろいところだよ」

 と東條は楽しそうに笑みを見せる。いまいち話の内容についていけていない小夜は、気のない返事を返すしかできない。

「さて、これを彼で当てはめてみよう。

 彼……京谷要は言いました。『僕は嘘つきだ』。

 問題です。彼は嘘つきか正直者か、どっちでしょう。

 さあ、小夜ちゃんはどっちだと思う? これはね、彼が名前を偽っていたとか『嘘を信じ込ませる』ことができるというのは無視して、直感ちょっかんで考えたほうがいいよ」

「……」

 そう言われ、小夜は少し目を伏せて考える。

 偽名の男、京谷要。彼の今までの言動を思い出してみる。

『自分は嘘つきだ』というのが本当ならば、その発言も嘘で……彼は最初から本当のことを言っていた『正直者』だということだろうか。

 それとも『自分は嘘つきだ』という言葉が嘘ではなく真実だとしたら……彼は最初から嘘を言う『嘘つき』だということなのだろうか。

 小夜はちらりと東條の顔を見る。そして、もしかしてと考える。東條の顔を見ながら、小夜は思った。この人も嘘をついているんじゃないかと。

 もしかしたら、『情報屋』が『自称嘘つきの正体を知っている』という嘘をついているのかもしれない。そうだとしたら、話してくれた内容は全てが嘘だということになってしまう。それとも二人ともが裏で繋がっていて、全てがうそいつわりの作り話だったとしたら? 

 小夜は今までにないぐらい頭をフル回転させて考える。

 誰が嘘つきか、誰が正直者か。いったい誰が嘘をついていて、誰が本当のことを言っているのか。

 考えすぎて痛む脳で、小夜は思った。

 答えなんか永遠に、見つからないんじゃないかと。

「ごめんね、急に難しい話だったね。僕も冗談が過ぎたよ。退屈だからといって、無理に話に付き合わせるのはいけなかったね」

 東條の言葉で小夜は顔を上げる。脳が熱をび、少しくらくらした。

「何も難しく考える必要はないんだよ。一歩引いて考えてみれば、答えはとても簡単で意外と目の前にあったりするんだから」

 そう言って微笑みかける。

「ああ、そうだ小夜ちゃん。いいことを教えてあげよう。話に付き合ってくれたお礼だよ」

 と言って東條は話し始める。

「僕らの間では、力のある能力者はその見た目や持っている能力から、皮肉ひにく畏怖いふを込めてあだ名をつけられるんだ。

 たとえば僕のように『情報屋』だったり、事件の被害者『道化師』や『確率』なんかもそうだね。ここにいる人で言うと……時間を巻き戻す『永遠えいえん魔女まじょ』や問題ばかり起こす『双子ふたご』や、骨格こっかく標本ひょうほんみたいな体を持つ『死神しにがみ』かな。他の有名どころは『収集家しゅうしゅうか』や『かざかなめわすがた』とか。『最強の能力者』とも呼ばれている人たちもいるけど、これはまた今度にしようか」

 東條は優しく目を細め、小夜の顔を見つめる。

「彼が『嘘つき』か『正直者』か。それはね、彼は最初から言っているよ。事件のことも、自分がどちらなのかもね。

 疑うのはいいことだけど、疑いすぎると足元さえも見えなくなってしまうよ。転がっている石ころでも、集めたら真実になるかもしれないしね。

 分からないときは、いくら考えても無駄むだなことなんだよ。答えは一つとは限らないんだ」

 そう言って微笑む。

「これ以上彼のヒントが欲しいなら……可愛い踊りでも見せてもらおうかな。全力で」

 そう言って笑いかける。

「え、あ、あの……」

 急に言われ、小夜はどう返せばいいのか分からず驚いて固まる。

「……ごめんね、冗談だよ。直前まで友達と遊んでいたからね。その影響かもしれない」

 と東條は恥ずかしそうに頬を搔いた。いかにも真面目そうな紳士の外見の中には、冗談を言うお茶目さがあるようだ。

「ああ、えっと、そうだ。彼はね、三年前にここへ来たんだよ」

 と思い出したように東條が言う。

「三年前といえば……『かざみかなめ』が亡くなったといわれているとしですよね……」

「……そうだね。とてもひとだったよ。この家をててくれたりね。すごくお世話になったよ。賭けが強くてね、この組合の中でもあの人に勝てたのは数えるほどしかいない。すごい人だったよ。本当に」

 東條の声が少し悲しげになる。名前を出してはいけなかったのかと、小夜は言った後に気がつく。つらいことを思い出させてしまい、それを謝ろうかと思ったとき、小夜は脳内の点と点が繋がった感覚がした。

 三年前に亡くなったといわれている『かざみかなめ』と、三年前に現れた『京谷要』。

 そして、『京谷要』は偽名である。

「東條さん……あの……」

「ん? 何かな?」

「『京谷要』って、まさか……」

「いや、それは違うよ。断言だんげんしよう。彼は、風見萃かざみかなめ本人ではないよ」

 小夜が言葉を言い終わる前に、東條はそう言い切った。

「その推理は違うよ。けれど、なかなかいいせん行ってるね。それも知りたいのなら、彼にそのまま聞いてみるといいよ。なんらかの形で答えてくれるから」

 そう言うと東條はペン立てからペンを抜き、小さな紙に何かを書き加える。

「これを渡しておこう。前の職場にいた時の僕の名刺だけど、何か困ったことがあったら連絡して。どうせ暇だから」

「あ、ありがとうございます」

 受け取った名刺にはどこかの大学らしき名称とふりがな付きの氏名、横線の引かれた電話番号の下に個人番号らしきものが書き加えられている。

 小夜の目は、彼の名前のある部分にくぎけになっていた。

 彼のフルネームはこう書かれている。

東條とうじょう要一よういち

「あの、東條さん……」

「ん?」

「この名前……」

 小夜は東條の名刺に書かれている『要』の部分を指さす。

「……ああ」

 小夜が何を言いたいかすぐに理解したようで、東條はこう説明した。

「彼の『京谷要』という偽名を決める時、僕の字も参考にしたんだよ。言ってみると偽名のおやみたいなものかな。それだけだよ。彼とは血縁関係もないし、ここで会わなければ僕らはまったくの他人だっただろうね」

 と言って、東條はカップに残った最後の一口を飲む。

「他に何か、聞きたいことはあるかな? 答えられる範囲であれば答えよう。もちろん事件のことをね」

 と東條は言う。『京谷要』についてこれ以上は何も言わないという意味が込められているのは、言葉にされずとも分かった。

「いえ……。おはなししてくださりありがとうございました。コーヒーごちそうさまでした」

 小夜は言いながら、ソファから立ち上がる。

「あまり役に立つようなことを言えなくてごめんね」

「そんなことはないですよ。ここに来なければ分からないこともありましたから」

「そうか。それならよかったよ」

 東條は笑いかける。

「送れなくてごめんね。ここはいつでも開けてるから、よかったらまた来てね」

「はい。ぜひらせてもらいます」

 小夜は貰った名刺を上着のポケットに入れる。

「一応言っておくけど、僕は本物の嘘つきではないよ。これはホントウに嘘じゃないからね」

 どこかで聞いたような台詞せりふに、小夜はふふ、と笑う。

「いろいろとありがとうございました。おやすみなさい」

 小夜は頭を下げ、書斎から出た。

「……やれやれ。かなめ君も相変あいかわらずだね。

 嘘か真実か。嘘つきか正直者か。隠したいのか見つけてほしいのか、それも彼の矛盾むじゅんだね。

 そこが、彼が彼でいる理由なのだけど」

 一人になった東條は、遠ざかっていく足音を聞きながらぼそりと言った。


 駐車場に停めていた自分の車に乗り込んだ時、スマートフォンが着信に震えた。

「はい。泉小路です」

『おーう。おつかれえ。どうだったあ?』

 電話の相手は室長だった。小夜は簡潔に東條から言われたことを伝える。

「隔離棟にいる京谷要に聞け、とのことです」

『ふうん。なるほどなあ。やっぱりかあ』

 といつもの妙に語尾を伸ばした口調で返す。上司の声はほんの少し楽しそうで、まるで予想が当たったかのような声色こわいろだ。機嫌がいいのが小夜にはすぐに分かった。

『分かった分かった。おつかれさん。小夜ちゃんはそのまま帰っていいぜえ。あ、猫のえさなくなってたから買うのよろしくなあ。俺のビールも』

「え、あ、あの、要君はどうするんですか?」

『あー……それは考えてなかったなあ。徹夜てつやさせるか』

「え? あ、あの、室長!」

『んじゃ。よろしくー』

 ぶつりと通話が切れ、掛け直しても繋がらなくなった。おそらく電源を切ったかしたのだろう。一瞬にして怒りが頂点にたっし、スマートフォンを持つ手に力が入る。みしり、という音で小夜は慌てて我に返り、液晶の電源を入れる。よかった、壊れてない。小夜はほっと息を吐き、スマートフォンをポケットに仕舞った。

 小夜はため息を吐くと、シートベルトを締めて車のエンジンをかける。こうして、ようやく小夜の長い一日が終わったのだった。

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