【その男、自称「嘘つき」】③

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

「ん?」

 と駐車場の近くで、数歩先にいる男は立ち止まって振り返る。

「あれ、ついてきたんだ」

「あ、当たり前です……!」

 小夜は膝に手をついて息を整える。

「私は捜査官ですから、目の前で脱走を見逃すわけにはいきません」

「あ、そう。じゃあ、一時間ぐらいで帰るよ。これでいい?」

「ちょ、ちょっと待ちなさい! そういう問題ではないんですよ!」

 小夜は思わず男のそでを掴み、慌てて引き留める。

「……急に掴まないでくれるかなあ? びっくりするじゃん」

 と男は言う。はたから見ると変な光景である。場所が違っていれば、めている恋人同士にも見えるかもしれない。

 組合から出てきた職員が不思議そうな顔で二人を見つめながら、横を通り過ぎていく。

「離してくんない?」

「離したら逃げるでしょう?」

「逃げないかもしれないよ。どう思う?」

 と男は黒い目を向けてそう聞いてくる。向けられた二つの黒い瞳は、見つめていると自分の全てをのみ込まれるような……そんないやな錯覚さっかくを覚えるようだった。

 それに気圧けおされないように、小夜は強い口調で男に言う。

「……脱走は規約違反です。今すぐ戻ってください」

「それはやだ。一時間ぐらいで帰るよ。歩いて行くから確実とは言えないけど。ま、今日中には帰るよ。だから離してくんないかなあ?」

 どこにその言葉を信じて送り出す捜査官がいるのかと小夜は思う。それは口には出さず、代わりに深いため息を吐き出した。

 そして、

「……分かりました。連れて行ってあげます。どうぞ」

 小夜は掴んでいた手を離し、駐車場へめてあるピンク色の軽自動車へと向かう。

「一時間だけですよ。私も本来の仕事がありますので」

 と言いながら小夜は運転席に乗り込み、シートベルトを締めてエンジンをかける。

「んじゃ、お願いしよっかな。失礼しまーす」 

 男も言いながら助手席に乗り込み、シートベルトを締める。

「行き先はどこですか?」

「んーっとね、御門みかど興業事務所ってとこ。ここの大通りを左に行って、かどにあるコンビニを入ったところかな」

 どこかの会社だろうかと小夜は思う。裏路地は入ったことはないが、その近くの地図なら頭に浮かんだ。問題は近くにパーキングエリアがあるといいのだが。

 そんなことを考えながら、言われた通り小夜は車を発進させ、目の前の大通りに出る。

「そういえば、受付でなにか言ってたみたいだけど、事件でもあったの? いずみ小路こうじさん」

 小夜はすぐにこう判断する。隔離棟の能力者に事件のことを言うべきではないと。

「……あなたには関係のないことです」

「あ、そう。ところでさ、泉小路って長いから、小夜さよちゃんって呼んでもいい?」

「いきなり『ちゃん』けですか……って、私の名刺……渡しましたっけ?」

「ん? 何回も聞かれてたじゃん。本当に捜査官だって信じてもらえなくてさ」

「……」

 まさかあの時から聞かれていたとは、と心の中が複雑になり、小夜はわずかにそれを表情に出した。しかし、隔離棟の強化扉は防弾のため四センチ以上の厚さがあり、受付の声などは聞こえないはずだが……。

「どれぐらい扉があつかろうが、僕いろんなことが分かっちゃうんだよねえ。知りたくないことでも、本当に知りたいことでもさ。

 今は小夜ちゃんだけだから、ちょっと集中すれば……小夜ちゃんの身長は一五三センチ。好きなものはお酒とおつまみ。案外あんがいおっさんくさいんだね。ペットは猫ちゃんが一匹。家族構成はお父さんが一人だけ。体重は……あ、信号赤だよ」

「え? ……あっ!」

「あーあ。思いっきり信号無視じゃん。僕が警察じゃなくてよかったねえ」

 と隣の男はけらけら笑う。もっと早く言え、との怒りの声が喉の半分まで込み上げるが、小夜は空気とともにそれを胸の奥まで押し戻した。

「ところで、あなたの名前を聞いていませんでした」

 と冷静さを取り戻した小夜は聞く。

「あ、そっか。まだ言ってなかったね」

 男は言った。

「僕の名前は京谷きょうやかなめだよ。京都きょうとの『きょう』に『たに』、要注意ようちゅういとかの『よう』でかなめ。名前の『要』っていう方で呼んでくれると嬉しいなあ」

「……かなめ?」

 小夜は男……京谷要の名を聞き返す。その名にどこか聞き覚えがあった。

「そうそう。『かなめ』だよ。普段は隔離棟の二号棟にごうとう206号室にいるから、会いたくなったらいつでも呼んでね」

 と京谷要は手をひらひらさせてふざける。

「それと、僕はよくみんなに『嘘つき』って言われてるから、気をつけた方がいいかもねえ」

 と言って『嘘つき』と呼ばれているらしい彼は、目を細めて笑った。

 彼が名乗った名前にどこか聞き覚えがあった。運転しながら小夜は記憶を辿たどる。しばらく考え、『かなめ』とは一人の人物の名前だということを小夜は思い出した。

「……確か、前の会長の名前も『かなめ』という名前でしたよね?」

「ん? ああ、そうだねえ」

 と彼……京谷要は言った。

 異能力者登録組合の前の会長の名を、『かざみかなめ』という。捜査官から組合の職員、住んでいる能力者なら誰でも知っている人物の名だ。

 世界的に有名な実業家であり、大富豪『風見』の当主でありながら、彼は一人のメイドを連れて世界中の能力者と接触し、情報を集めていたらしい。

 そんな彼は、三年前に突然この世から姿を消した。死因も何も公表されないまま、『かざみかなめ』は煙のように消え去った。

 三年が経った今でも、彼につかえていたというメイドの行方ゆくえも、彼が持っているという能力者たちの情報も、現在の風見家の当主が誰かも何一つ分かっていない。当主にいたっては、後任こうにんである次男じなんですらまったく知らないということだった。

「『かなめ』……なんて珍しい名前、そうそういないよね。僕と一緒でさ」

 と『京谷要』は言う。

 小夜の中にじわりとある一文いちぶんが浮かぶ。

『かなめ』という名前が同じなのは、偶然だろうか。

「……名前もですが、『きょうや』なんて名字も珍しいですけどね」

「あっはは!」

 小夜が言うと、要は吹き出すように笑った。

「あはは、はは。確かに。そうだよねえ、自分でもそう思う。名前みたいな名字ねえ」

 要は笑いすぎて出た涙を拭きながら言った。そんなに笑えることだったのかと、小夜は少し疑問に思う。言葉にはしなかった。

「まあ、ともかくさ。僕のことはあんまり信用しない方がいいかもね。なんたって、僕はとんでもない『ウソツキ』で有名だし。死んでるけどさ」

「……そうします」

 小夜はそれだけ返し、ちらりと横目で隣の男に視線を向ける。

 能力者と呼ばれる人間たちには、二つ大きな特徴がある。

 それは、一度死んでいるということだ。

 間際まぎわに強く願ったことやのろったことなどと引き換えに、彼らは二度目の人生を生きている。

 今現在、能力者と呼ばれる彼らについて分かっていることは数えるほどしかないのが現状である。

 なんでも、死の間際に“気まぐれで退屈な神”なる存在が現れるのだという。そしてその存在と契約を交わした人間が異能の力を与えられ、能力者となる。そのため能力者全員は例外なく一度は死んでおり、その最期さいご各人かくじんによって様々さまざまだ。

 与えられた異能の力にはそれ相応そうおうの対価が取り立てられる。簡単に言うと、能力を使うたびに起こる特定の事象や行動、自身を犠牲にする行為だ。能力と対価は必ず本人と関係していて、強ければ強いほど支払う対価も大きくなるというわけだ。極端な話、能力を使った途端とたん死亡するというのも珍しくないという。そしてその能力と対価は、一人一つだけとはかぎらない。

 彼らの大きな特徴はもう一つある。

 なぜか彼らは、勝負しょうぶごとの“け”をこばむことができないということだ。

「……」

 小夜はハンドルを持つ手に力を入れる。

 彼らは何を願い、何を呪い、対価というものを背負ってまで生きたかったのだろうか。

『死んだ』時の状態で体は止まっているため歳はとらないらしいが、不死ふしというわけではない。もう一度『死』を味わうかもしれないのに、なぜ彼らは、一度死んでまで生きようとしたのだろうか。

「……それはね、みんな同じだよ。『死にたくない』から」

 と要は言った。

「……え?」

 小夜の顔が少しばかり青ざめた。先程から頭の中で考えていることの回答が返ってきて、言いようのない不快感ふかいかんと気持ち悪さが全身を駆け巡る。

「僕はね、小夜ちゃん」

 そんな小夜とは対照的に、要は静かに話し始めた。

「僕は、高い所から親友に……親友だと思ってた奴に突き落とされて死んだんだ。ずっと、それは覚えてるよ。それで、その落ちる時……地面が目の前数センチにせまってる瞬間、思ったんだ。『なんで僕がこんな目に』、『死にたくない』ってさ。その時に神サマが来てくれた。だから今、僕は『京谷要』としてここにいる。

 今も同じだよ。死ぬのは怖い。ああこれ、ウソじゃないからね?」

「……なぜ、そんな話を……」

「うん? 小夜ちゃんが思ってることに答えてあげただけだよ。言わなかったっけ? 僕、人の考えてることがつねに分かっちゃうんだよねえ」

「……」

 小夜の顔がさらに青くなった。

 要は話を戻し、続きを語る。

「……けどね、神サマはいつだって気まぐれなんだよ。『気まぐれで退屈な神』……その呼び名の通りね。僕らのことなんか、おもちゃにしか思ってない。それは、なんでか分かる?」

「……分かりません」

「うん、だろうね」

 要はそう言うと、さらに話を続けていく。

「僕らはね、小夜ちゃん。こうやって二度目の人生を生きてるわけだけど、今まで通りのんびりってわけにはいかない。『何か』をして、神サマを楽しませなくちゃいけないんだよね。簡単に言うと、『楽しませないと死体に戻すぞ』ってこと。神サマに飽きられたら、僕らはすぐに死体に戻されちゃう。それで、二度目の人生は終わり」

「そ、そんな情報……聞いたことありません。嘘はやめてください」

「嘘じゃない。僕はこんなことでは嘘つかないよ。小夜ちゃんが知らないだけじゃない?」

「そ、それは……」

 小夜は言いかけるが、そのあとの言葉は口から出なかった。同じ捜査官でも、現場に出る人間たちにしか伝えられない重要な情報があることは知っている。自分のような事務処理担当には教えられないということも。

「まあまあ、僕の言葉が全部嘘だって否定するのは早いんじゃないかな? 僕が嘘を言わずに、全部ホントのこと言ってる可能性もあるかもしれないよ?」

「……あなた、自分のことを『嘘つき』だとか、言っていませんでしたか?」

「そうだよ。僕は嘘つきだ」

「……だったらあなたの言葉は、信用できません」

「僕は、嘘なんかついてないかもしれないよ?」

「自称嘘つきが、何を言っているんですか?」

「そうだよ。僕は嘘つきだ。自分でもそう思う。でもね、小夜ちゃん。その自称嘘つきが、嘘をついてない可能性もあるじゃん。僕が全部、本当のことしか言ってない可能性もあるかもしれないよねえ」

 と要は薄く笑みを浮かべながら、黒い瞳を細めた。

「小夜ちゃんが知りたいならもっと教えてあげるんだけど……今日って何日だっけ?」

「なんですか急に……。十日とおかですけど……?」

「ん、ありがと。六月の十日だね」

「そうですけど……それが何か?」

「うん。僕、今日で死ぬんだよねえ」

 さらりと要は言い放った。

「……は?」

 思わず小夜は聞き返す。

「あ、言っとくけど嘘じゃないよ。今日一日何もしなかったら、僕の二回目の人生は今日で終わる。でも僕はね、死ぬのは本当に怖いんだ。この世界にある何よりも。死ぬ前の恐怖も苦痛もあじわいたくないねえ。それだったら、一瞬で殺してくれた方がいいよ。死にたくないけどさ」

 と要は言う。小夜は、何を言っているんだこいつは、という顔をする。

「あれ、疑ってるね? 僕は嘘つきだけど、今言ったことは嘘じゃない。ホントの、僕の本心だよ」

「……」

 小夜はそれを聞いて二秒ほどけると、

「は、はは……」

 あきれをとおした笑いを口からしぼりだした

「……誰がそんな嘘を信じると思っているんですか。今のは聞かなかったことにしてあげます。つまらない嘘はやめてください。不謹慎ふきんしんにもほどがありますよ」

「僕は嘘つきだけどさ、自分の本心に嘘はつかないよ」

「はいはい。もう分かりました。そもそも、自分から今日死ぬなんて言う人はいません。不愉快ふゆかいなので黙ってもらえませんか?」

「僕は、ホントのことしか言わないよ」

ろしますよ?」

「分かったって。もう言わない」

 と要は肩をすくめ、口を閉じる。無理にでも隔離棟に戻しておけばよかった、と小夜は思った。この男……自称嘘つきの言葉を誰が信じると? 

「やだなあ小夜ちゃん。こんな嘘つきの僕でも、信じてくれる友達はいるんだよ?」

 っすら笑みを浮かべながら要は言った。小夜の顔に、再び嫌悪感けんおかん不信感ふしんかん眉間みけんのしわとなって浮かび上がる。

「……さっきからのそれ、あなたの能力ですか? 見たところ、読心術どくしんじゅつのあたりに見えますけど」

「読心術? ああ、これね。

 これはね、僕の対価たいかだよ。さっきも言ったけど、僕はつねに、相手の思考や情報が頭に流れ込んでくるんだ」

「……なるほど。即興そっきょうにしては素晴らしい嘘ですね」

「だからさあ、嘘じゃないって。こんなことで嘘ついてもさ、おもしろくないし。小夜ちゃんってもしかして、学習がくしゅう能力のうりょくとか無いの?」

 要は明らかに小馬鹿こばかにするような言い方をする。それを聞き、小夜はふつふつとがってくる怒りを必死にとどめる。ここまで腹が立つならば、いっそ正面しょうめんから馬鹿にされる方がましだ。

 なんて思ったことを頭の隅に追いやりながら、小夜は鼻から息を吸い、静かに呼吸をする。頭の中で六秒数えると怒りが消えるらしい。昔、誰かが言っていたような気がする。

「小夜ちゃんって面白いね。だからちょっと教えてあげる。教えてあげないと、一生いっしょうかかっても僕のこと分かんないだろうしさ。

 あ、お礼はいらないよ。馬鹿な人に『ありがとう』なんて言われても嬉しくないし」

 隣でとてもいい笑顔を浮かべて言う要を無視し、小夜は頭の中で六秒を数え直す。

 要は言った。

「僕の能力の一つはね、『嘘を信じ込ませる』ことだよ。これホント。

 ちなみに僕は、能力をあともう一つ持ってる。いわゆる『二つ持ち』とか『ふくすうち』とか呼ばれてるやつね。そんで、対価も二つ。その一つが、『相手の思考が常に流れ込んでくる』こと。これも、ウソじゃない」

「……はあ?」

 小夜は思わずとんきょうな声を出す。六秒数えるとか、怒りを押しとどめるとか、そんなことが一気に頭から消え去った。

 能力は『嘘を信じ込ませる』こと? 複数の能力持ち? またくだらない嘘かと、小夜は疑いの感情を顔に出す。

「……また嘘ですか? 真面目まじめに答えてくださいよ」

「僕はいつだって真面目まじめだよ?」

 と当たり前の声で要は言う。反射的に拳が出そうになるのを、小夜は直前ちょくぜんで思いとどまる。

「僕は嘘つきで有名だけど、約束ならどんなことでも守るしさ。それはもう、『名前に似合わない』って言われるほどなんだから」

「意味が分かりません。変な嘘はやめてください。そんな嘘を言うぐらいなら、さっさと本当のことを言ったらどうですか?」

「だからさ、言ってるじゃん。さっきから」

「……ですから、嘘はやめてください」

「僕、こんなことでは嘘は言わないよ」

「……ああもう……!」

 ぶちりと小夜の中で理性のひもが切れた音がした。

「そんなことを言うなら、証拠を出してくださいよ、証拠を! あなたが嘘つきではないという証拠と、『嘘を信じ込ませる』能力がある、という証拠です!」

「それはつまり……小夜ちゃんに使えって?」

 驚いたように要は目をぱちくりさせる。思わぬ返答に、いらっていた小夜は少しめんらう。

「……それが一番ばやい方法だと思いますが?」

 小夜がそう言うと、

「あはは。小夜ちゃんアホだね。それとも馬鹿なの?」

 要は笑顔を浮かべ、あからさまに馬鹿にした。小夜のこめかみに一瞬血管が浮かびかける。

「僕がその能力を使ったとして、小夜ちゃんはそれが『嘘じゃない』って、分かんないでしょ?」

「……どういう意味ですか?」

「つまりね、僕が『嘘を信じ込ませる能力がある』って嘘をついてても、小夜ちゃんにはそれが本当に嘘なのか、僕が本当のことを言っているのかが分かんないじゃん。それに、僕がただ嘘をついているのか、それともその『信じ込ませる』能力を使って、『その嘘を信じ込ませているのか』が分かんないでしょ?

『嘘じゃない』は証明しょうめい不可能ふかのう。有名な嘘つきのパラドックスだねえ。知ってる?」

「……知りません。話をらさないでください」

「あ、やっぱり知らなかったか。小夜ちゃんって見るからに馬鹿ばかそうだもんね」

「な、なんですかそれは! どういう……」

 言いかけた次の瞬間、小夜の頭の中を白い霧のようなものがおおはじめた。それはだんだんと色をくし、次第しだいに頭の中を真っ白に染めていき、両目にも侵食しんしょくし始める。

 小夜は片手で右目を押さえ、もう片方の手で何とか運転をする。

 外の景色は見えているのだ。それなのに、視界を頭の中と同じもやがかさなっている。

「あ、あなた、何を……」

 残った目で隣を見る。

 そこで小夜は確かに見た。

 隣に座る男……京谷要の姿がぼやけ、テレビの砂嵐すなあらしのように、ジ、ジジ、と姿の輪郭りんかくが乱れているのを。

 小夜は急いで車を路肩ろかたに停めようとする。車を停めて、この男を尋問じんもんしようと考える。この男の能力について、対価について、名前について。

 頭の中が霧に覆われていく。

 ふと、小夜は思った。

 隣に座る男の名前は、なんと言っただろうかと。

 それどころか、隣には『誰』がいたのだろうか。

「……あっ! やばい!」

「うう!」

 急ブレーキの音と前のめりになった衝撃で現実に引き戻される。

 おそるおそる目を開けると、すぐ真横に要の顔があった。ハンドルには彼の右手が添えられ、ブレーキペダルには彼の右足がかかっている。ということは、彼が咄嗟とっさにブレーキを踏んで急停止させたのだとすぐに小夜は理解する。少しだけ車全体が左を向いているのは、彼が何かをけようとしたからだろう。

 小夜は前方へ顔を向ける。点滅する青信号と横断歩道。小夜の顔が青ざめる。

 目の前には、杖を持った一人の老人が腰を抜かしていた。

 要がにこやかにすみませんとのしめすと、立ち上がった老人はふらつきながらどこかへ行った。

「危なかったねえ。もうちょっとで、あのおじいちゃんいてたよ」

「……す、すみません……助かりました……」

「いやいや。どういたしまして。あ、あしつかれたからわってくれる?」

「は、はい……」

 要は右手と右足を離し、それを小夜がぐ。

「僕の方こそごめんねえ。ちょっと調整ミスっちゃった。ほんとごめんね」

 と何事なにごともなかったかのように言う要の横顔を、小夜はしばらく見つめることしかできなかった。

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