きおく
裏通りに出てしまった。
買い物に来ていたはずなのにいつの間に迷ったんだろう。
特になんの気にも無しに歩いていたら駅に着けるだろうと思い、しばらく歩くこと数十分、はたして目的としていたよりだいぶ離れた駅を視界に捉えた。
土地感の無さか、こういうことは私には多々ある。
時間を気にしないため、いつものんびりとなんの気もなしに歩く癖でしょっちゅう迷子になってしまうのだ。
外は思っていたよりもずっと広い。
周りの工場は高々と立ち、私を見下ろす。太陽なんていつも雲で隠れてるから目を半開きにすることなく、てっぺんまで見上げられる。
生暖かい工場からの風、私の服をゆらゆら揺らす。
駅まで続く道はどんどん高くなる。
私はこの感じがたまらなく好きだ。
空気は汚れているけど私の心の中はなぜかとても澄み切っていたのだ。
今日の私は機嫌が良い。
「お嬢ちゃん、どちらまで?」
行き先を言うと改札の人は私をホームに入れてくれる。
お金はいらない、彼は趣味でやっているだけだ。
私がホームに立つと電車はすぐに来た。
中に入る。
電車は新品みたいにぴかぴかで、作られてあまり時間が経っていないようだった。新品特有の作りたての匂いがする。
中をぐるっと見る。どうやら乗客は老夫婦2人だけらしい、楽しそうに世間話をしている。
「あら、これはまた小さなお客さんが乗ってきたね」
「やあやあお嬢さん、こんにちは」
二人席だったところを四人席に変えてくれる。
こんにちは、今日はどちらまで。
「遠くまで買い物さ。今日は天気がいいからね」
私もなんです、でも途中で道がわからなくなっちゃって。
「まあ、そりゃ大変。大丈夫なのかい?」
平気です。そう遠くないと思うので。
二人とは会話が弾んだが、もうそろそろ次の駅に着く時間になった。
私は二人に別れを言い、電車を降りる。
とても大きな階段で、小さな私は転ばないように慎重に一段一段を降りていった。
工場の煙が私の顔面に当たり、おもわず咳き込む。
とても高いところまで来た。
好奇心が私の不安をすぐに消し去ってくれる。
もう何も怖くない。
私の道は私が自由に作れるんだ。
そしてわたしの時間が途切れる。
そこからどういう道を渡ったのかはなぜか記憶にない。
時々こういうことがある。
電車を降りてから私はどうしたんだろう。
気前のいい駅員さん。改札を出ると広がる街の風景。煙の匂い。見覚えのない人影。大股で下る階段。
気がついたら家に帰っていた。
どうやって帰れたのか、どうしても思い出せない。
空は真っ暗で人気もなく、真夜中のようだった。私の消えた記憶は相当長かったらしい。
暗い部屋の中はいつも冷たく、寒々としている。
現実に戻される気がした。
タンスの中にあった服を取り出し、着替える。今日は涼しかったはずなのに、シャツは汗ばんでいた。
「お母さん」
呟いてから虚無感に襲われ、ベッドに体を埋めた。
何時間ぐらいそうしていただろうか、目覚めるとあたりは明るくなっていた。
浅尾さんが私の家を訪ねてきたのは正午過ぎの頃だった。
浅尾さんというのは私の両親がいなくなってから何かと様子を見にきてくる人である。実際あまり愛想のいい人とは思えなかったが、こうして週一で私の家に来てくれるあたりそんなに悪い人でもなさそうだった。
「調子はどう。問題ない?」
感情のない声で浅尾さんは尋ねる。
私は二回頭を縦にふる。
「そう。お兄ちゃんは今日出かけてる?」
兄は二階にいます、という意味で人差し指を上に指す。
浅尾さんはなぜか私にもわかるくらい表情を歪め、じゃあ帰るねと言った。私は相手に聞こえるか聞こえないかの小さい声でありがとうございましたと言った。どうも苦手なのだこの人は。
この人たちは私たちに対して何を考えてるんだろう。どう思ってるんだろう。
なぜ浅尾さんは嫌な顔をしたんだろう。外に出ない兄が変に見えたんだろうか。それともーー
昨日は買い物ついでに散歩していたなんて兄には到底言い出せず、私と兄はそれぞれ孤立した生活をしている。
もう何を話せばいいか分からない。
昔々、まだ私たちに両親がいた頃、私たちは仲が良かった。別にそれが年齢が一つ違いで共通する話題が多かったからだけではない。家族というカテゴリーが私たちを取り囲んでくれたからなのだ。
しゃべる内容はどうでもいいことばかりで、私と兄の言い合いに両親は笑って見ていた気がする。
学校へも行っていた。友達も多くいた。
楽しかったあの頃。
それからどうなったんだっけ。
まだ二時なのにあたりはすっかり暗くなっていた。テレビを見ると雨雲が近づいてきているらしい。
兄は部屋から出てこない。話しかける勇気がない。
私は何もせず、ただぼうっとするだけ。
昨日までの出来事はすべて夢のようだ。いや、夢を見ていたのかもしれない。
なぜ私は遠くへ出かけていたのだろう。
どうして出かけようと思ったのだろう。
何から逃げようと思ったのだろう。
私の両親は私たちを置いてどこかへ行ってしまった。
死んでしまったのではなく、消えたのだ。
何事もなく流れる時間が突然氷漬けされたように固くなる。その氷はハンマーで叩いて無理やり壊したとしても中身ごと粉々になってしまう。
周りから徐々に溶かしていくしかないのだ。
両親は氷漬けになった私たちを置いてどこかへ行ってしまう。一度も振り返ることなく、二人は真っ直ぐ進んでいく。
私たちは声も出せない。
両親がいなくなってから、私の記憶は途切れることが多くなった。
昔からの持病で医者に通っていたが、脳には何の異常もなく、いたって健康なのだそう。どうやら記憶障害は外面からは分からないとのことだった。
そのせいか昨日まであんなに晴れやかな気分だったのが、突然元の暗い生活に戻る時がある。その逆もまた然り。
心の中が入れ替わったようだ。
インターネットの知恵袋で調べてみると二面性が激しい人だと指摘された。確かにそうなのかもしれない。普段の生活を思い返してみると明らかに今の自分と違うもう一人の自分がいるような気がする。
まただ、この感覚。
頭がずきずき痛む。忘れた記憶を呼び起そうとするとよくあることだった。
この記憶は信じられる、これは信じない。
そうして私は独断偏見で記憶を選び取るようになる。
そして自立する。
親とは不思議なもので、私たち子供にとって手本となるような存在だ。父は教育熱心でよく私の知らない言葉の意味について色々教えてもらった思い出がある。
母には料理や家事全般を教わった。おかげで今ではこうして洗濯物もできるしご飯も作れる。
しかし今、そんな手本となる存在は無くなった。
ご飯は浅尾さんが渡してくれるお金で買い物をして食べる。兄はどうしているのか知らない。部屋から出たところも見たことないので分からない。
掃除をして洗濯物を干してご飯を買って、そうしているうちに一日が過ぎていく。
果たしてこれで良いのだろうか。良い訳がない。
もし学校へ通っていたとしたら私は今小学六年なのだろうか。今から通い出して周りから変な目で見られることは確実である。
学校の担任は最初の頃様子を見に来ていたが、徐々に来なくなった。親がいなければ問題にならないとでも思っているらしい。
見捨てられたんじゃないか。
最初はそう思った。彼は私の家に来るたびに薄気味悪そうな顔をしていた。この家に来るのが一種の罰ゲームみたいな様子で、私に話しかける声はいつも上ずっていた。
その時から私は無言で先生と呼ばれているその人を腹の底から見下していた。
ふっと軽くなったと思ったら鉛のように重くなる。私の心はいつも不安定。
家事に疲れて、インターネットをする時間が増える。最近SNSを使い始め、日常の鬱憤を呟いていたのだが、暇を持て余している人から次々にリプライが飛んできた。
「どこに住んでるの?」
「何で学校行ってないの」
「お前女?」
何だろうこの人たち。私の情報を知って何か得するのだろうか。質問攻めするリプライを無視して、SNSを終了する。つぶやきが増すごとに暇つぶしが暇つぶしじゃなくなりそうな気配に少し恐怖を覚える。
いつの間にか寝ていたらしい。カーテンは閉め切っているのに時間が進んだ感覚だけはあった。
起き上がり、時間を確認する。針は夜の8時を示していた。
「やっと目が覚めた」
聞きなれない声。思わずギョッとする。
「大丈夫、悪い人じゃないですよ」
その影は徐々に私の前に姿を現した。
女の人だった。小柄で大きな灰色の瞳、長髪。だけど、どこか大人らしさを感じさせるしっかりとした表情は頼もしく、悪い人だとは思えなかった。
その女の人は私の顔を見て少し安心したようにほっとすると、晩御飯作ったから一緒に食べようと言う。
しかしこの人は何者だろうか。
戸惑いを隠せない私を尻目に彼女は自己紹介した。
「私は大住姫子と言います。あなたの様子を見に行くように学校で頼まれたんです」
先生だった。もっとも最初の始業式にしか出席していない私は彼女が先生だとは全く気づかなかった。
聞くと先生になったのは二年前で私の出席していた始業式の時にはまだ居なかったという。
教えてる教科は国語。特に小説が好きなのだそうだ。
最初は何でこんなことを話すのか訳がわからなかったが、私が学校に通い出すように要請されている先生だということに気づき、その思惑に嫌悪した。
この先生は今までにきた人たちと違って常に元気だった。
楽しそう。
「まあまあ食べなさいな。普通よりは美味しいと思うから」
料理に自信があるかのような言い方で私に食べるように促す。ミートソースのパスタだった。
フォークにパスタを絡ませ、口に含む。
「、、、美味しい」
出来合いものばかり食べて肥えた口には、この料理がこの上なく自らの口に合った。大住先生も「それは良かったです」と当然といった顔で答える。
「先生は嫌じゃないんですか」
「ん?」
「私の様子見に来るの」
「最初は確かに乗り気じゃなかったけど、万智ちゃんの顔色見ると良かったと思いました」
「どういうこと?」
「私がここに来て良かったってことです」
しばらくフォークを突く。咀嚼音だけが響く。
「万智ちゃん。学校に来ない?」
「行きたくない」
先生は悪くないのに、この時だけ私は先生を敵対視してしまう。やっぱり名目はそれなのだ。
「今更だしみんな嫌な目で見る」
先生は分かっていたのか無表情で私の方を見つめる。そして人差し指を立てた。
「じゃあ最初は図書室に来るだけでいいから、ね」
「でも」
「わたし、図書室の管理もしてるんです。午前中は生徒も来ないのでわたしと二人きりですし」
私の学校は教室校舎と図書館の距離がやたらと長かった。休み時間になっても図書館に行く人は暇人はおろか、余程の読書家でないと行かないのだった。
「、、先生がいるなら」
「決まり!」
先生はお玉で自分の分のパスタをすくい取り、前に置いた。先生も食べちゃおーっとフォークも取り出す。
マイフォークなのか。先生は自分の懐から取り出していた。
この人になら言える気がする。今までの人には言えなかったことも言える気がする。私は決心した。
「私、記憶がなくなるときがあるんです」
「うん」
「とても楽しいと思うときがあれば、気がつくとこの部屋で横たわっていたりするんです。それで戸惑ってしまって」
「やっぱりそうでしたか」
ちゅるんっ、パスタが先生の口に吸い込まれていくのを呆然と見ていると何見てるんです?と睨み返された。食べてる間は人の顔を見てはいけないらしい。
「記憶喪失とまではいきませんが、記憶紛失とでも言うのでしょうか。時々の記憶がごそっと抜けていくようですね」
「なんで分かるんですか」
パスタを食べている先生の顔はどうしても見れなかった。
先生が見せた笑顔はこんな暗い部屋にいても明るいと信じていたから。
「万智ちゃん、気づいてないかもしれないけど今まであなたは楽しそうに喋っていたのよ」
「えっ」
「まるで人が変わっちゃったみたいに」
俯いていたら食器の音がした。もう食べ終わっていたらしい、先生は鼻歌を歌いながら食器を洗い始める。
「二重人格みたい」
「そうなんですか、、」
「無自覚なのが怖いね」
先生は笑ってる万智ちゃんも可愛くていいと思いますけどねーと鼻歌交じりに洗い物を裁く。
お互い無言で後片付けを済まし先生は帰る支度をし始めた。
静かにぼうっとしてた私の方を見てニコッとしたかと思えば、先生は鞄の中に入っていた板状のチョコレートを私に差し出した。
「甘いものは元気にしてくれますよ。万智ちゃんも元気出して、明日は図書館に来てね」
「、、、」
「、、万智ちゃん、また記憶が途切れることがあったら私に聞いて。力になるから」
「、、、」
声が出ない。ここで私は「はい」とか「有難うございます」とか言わないといけないのだろうけど、口がこわばってうまく動かせなかった。
また前のようになってしまうのだろうか。
何も言わない私を見かねて先生は、にこやかな顔でこちらにずんずん近寄ってくる。
「待ってるね」
ぱたん。扉が閉まる音がして静寂が訪れる。暗くて冷たい空間が戻ってくる。
いや違う、今回のは別の空間だ。
戸惑いは徐々に大きくなる。それは何でもない、ただ私という皮を被った存在にすぎないもう一人の私。
えんじゃなんじゃ るしお @shinylain
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